この小さな身体のどこにそんな力があるのだろう。
自分の手を引いて先をゆくスイカが見かけに依らず力強いのか、それともその小さな手のひらを振り切れないほどなまえが弱っていたのか。
恐らくその両方であったのだろうが、少女に言われるがままその国の長をひと目見たとき、彼女の耳元で風が鳴いたような音がした。
それはまるで呪詛のように奇怪な声でこう言ったのだ。

"会ってはいけない。"

それが嫌に不気味で、なまえはわけもわからず恐怖を覚えた。
この文明の廃れた新世界にある筈のない文明を作り出した張本人を前にして、彼女自ら望んだ筈の対面を拒絶してしまいたい。
会ってみたかったことは間違いない。なのに、心は会いたくないと叫んで止まなかった。
突如身体の中心に一点舞い込んできた不安は渦を巻き、たちまち感情を取り込んでは次々に形を変えてゆく。
驚き、恐怖、期待、困惑、苛立ち、喜び、哀しみ。一歩、一歩、彼に近づくたび胸が悲鳴を上げる。
水の上を歩んでいるような実感のなさと、その水面の下から獰猛な獣に狙われているような妙な緊張感。
なにかが変わってしまう。
近づきたくない。言葉を交わしてはならない。触れてはいけない。
なのになぜ。こんなにも混沌とした感情の中にひとつ、場違いなほど穏やかな感情が潜んでいる。
それをなんと呼べばよいのか、彼女にはわからなかった。

いよいよ彼の前に立ったとき、死人が歩いているのを見るような驚きに満ちた眼に刺される。
辰砂の瞳と視線がかち合い、伸びてくる彼の手が頬に触れる。じんわりと伝わる人肌を感じたそのとき、何かが小さな音を立ててなまえの中で弾けたのだ。
涙が頬を濡らしていることに気付いたのは、触れる指が目尻を拭ってからだった。
一際大きな感情の波がやってきて、全てを呑み込んでゆくその様に彼女の足は竦んでしまう。
その一瞬眼前の男の存在が酷くおそろしく感じて、なまえはその手を軽く押し返すと言い訳を探すように言葉を紡いだ。

「はじめまして。きみが…千空、さん」



時が止まる。というのはまさにこういった瞬間を差すのだろう。
3700年振りに再会した筈の幼馴染の、その第一声に「はじめまして」と言われるなどとは千空にも予測できなかった。
それ以前にこの日、スイカが彼女を連れ帰ってきたこと自体が予想外の事態であったというのに、その上まさか。

「…いやいや。なまえちゃん冗談キツいよ、ジーマーで」

あまりの衝撃に二の句を次ぐことが出来ずにいる千空を見兼ねてか、傍らでその状況を眺めていた幻が口を挟んだ。
彼はこの石化した世界で千空となまえとを間接的に繋いだ最初の人物といってもよい。
以前、村に氷月がやって来る直前のこと。彼はその襲撃を告げるのと同時に、千空になまえのことを尋ねたことがある。
はっきりとは言葉にしなかったが、きっと互いにとってなくてはならない存在なのだということをその時知った。
であるからこそ、幻は幾千年ぶりの感動の再会に出しゃばるような野暮はしないと心得ていたのだが。
当のなまえはなにひとつ解らないといったような顔で横から割って来た幻の顔を見つめ、不思議そうに目を瞬かせた。

「"あさぎりゲン"。……私のこと知ってるの?」

知ってるもなにも、簡易的ながら自己紹介もして、更に腹を探り合った仲ではないか、とは思えどそれが言葉として出て来ることはなかった。
千空の手が幻を制したからだ。
彼にはもう何が起きているのか解っていた。みょうじ なまえという人間は、冗談は言っても笑えない悪戯は絶対にしないと、幼い頃から傍で見てきた千空にはそう断言できる。
最後の確認をするように、彼は敢えて初対面の体を崩さずに問い掛けた。

「…テメェは」
「私は、みょうじ なまえ。…っていうらしい」

というのも、つい一週間ほど前からの記憶しかないのだそうだ。
自分に関することで分かることといえば、名前と年齢くらいだけだ、と身の上の事情を話した。
なまえの話を聞いて幻は傍で愕然としていたが、それ以上に衝撃を受けているであろう存在を思い出して心配げに横を覗き見る。
が、彼はもう既に何か思案しているようで、腕を組み黙り込んでいる。
その腕が解かれ彼の右手の人差し指が立てられたとき、その沈黙は絶たれた。

「なまえ。テメェのことでひとつ、分かったことがある」
「…え、」

千空の言葉を聞いた途端、ほんの僅かになまえの瞳には期待が宿る。
個人に関する情報などというのは自身にしか知り得ないもので、彼女自身考えて解らないことを考えるのは無駄だと思っていた。
いま会ったばかりのこの若き科学者は一体その頭の中でなにを考え、教えてくれるのだろう、と。
しかしながらそんな彼女の期待は、次の瞬間無慈悲に裏切られることとなる。

「てめーがクソチビだっつうこった」

耳の穴に指を突っ込みながら、如何にもどうでも良さげに放たれたそれは、紛れもない事実であった。
事実ではあったが、それ故になまえの脳は働きが鈍り、何を言われたのかをようやっと理解できた頃。
眉と眉の間にそれはそれは深い皺を刻みながら、彼女はこの千空という男に期待をしたのが間違いであったと砂を掛ける勢いで踵を返した。
千空は嘲弄が成功したことで、けらけらと性格の悪そうな笑い声を上げながらひらりと背を向ける。

ゼロから文明を作ろうというのだ、幼馴染との関係をもう一度やり直すくらい、わけはない。
そんな強がりを思ってはみても、それは決して文明作りほど意欲的になれそうにないが、それでも。
その胸の内に宿された強い覚悟を、ほんの少しの虚しさを。
彼女は知らない。
知らなくて良い。と彼は思う。

ambivalent

- 23 -
prev | next
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -