今すぐここを出て行け、との趣旨の言葉を羽京から言われたのがつい先刻のこと。
実際にはもっと当たりの優しい言い回しではあったが、件の洞穴以外に安全な場所を知らぬなまえにとっては急に立ち退きを迫られたのと大差ない。
どうもこの周辺は危険だと言うが、その割に一人で逃げろと言うのも矛盾している。曰く、事情があって一緒には行けないらしい。
保存食の干し肉やドライフルーツ、火打ち石など生活に必要な食糧や道具一式を詰め込んだリュックサックを餞別代わりに受け取った。
最後に、羽京はこれでもかというほど毛皮をなまえに羽織らせたが、重さで動けなくなったのを見ると何着かは諦めたらしい。

「ここから北に向かうんだ」

わかるよね、と何度も念を押す彼の様はさながら過保護な親兄弟のようで、聞き飽きたその確認にもつい笑みが溢れた。
知らないはずの"家族"がいたなら、このような感覚なのだろうか。
まだ出会って2日も経っていないのに、何故こうまでして世話を焼いてくれるのだろう。
そんな疑問が湧いて出たが、そういえば彼にしてみれば前から自分を知ってはいたのだから不自然ではないのかもしれない。
そんな羽京からの見送りを背に、なまえは右も左も葉の落ちた樹木が立ち並ぶ雪山を歩き出す。
段々と遠のいてゆく洞穴の方から、流暢な英語で別れの言葉が聴こえてきた。

「Have a nice trip」

それには片手を上げて応えつつ、旅と形容した彼の口振りからするとどうやら自身の胸の内を見抜かれていることに少々気恥ずかしい思いをする。
勿論、不安はある。冬は殆どの動物が冬眠していて狩りなど出来ないし、木の実も生らない。食料は羽京から貰った分だけだ。
が、それ以上になまえは自らの足で歩み、自らの目でものを見ることが出来ると思うと心が躍っていた。
文明が滅んだというこの時代、世界はどう変わり、なにが変わらなかったのか。それは彼女にとって酷く興味を唆られるものに違いなかったのだ。
それに、羽京ははっきりと明言しなかったが北へ向かえば終着点が必ずある筈なのである。
実のところなまえは、このとき羽京から彼以外の人間の存在を明かされていなかった。
ただ一人を除いては。



あれから5日ほどが経った。
この間、外界へのなまえの興味はひとときも尽きることがない。
足場の悪い山路を歩いてゆくうち、石像をいくつも見掛けた。それは人間か燕の形をしていて、どれも本物と遜色ないほど細部まで緻密に再現されている。
燕のものは残念ながら個体別に見分けがつかないが、人間のものに関しては同じものがひとつとしてない。
羽京の話に出てきた石化というのは、つまりこのことを差すのだろう。
そして次に、こぐま座α星にあたる北極星の位置がずれている。
それに気が付いたとき、彼女は羽京から聞いた話が出鱈目な作り話ではないことをとうとう信じるに至る。
元来こぐま座というのは、狸のように尻尾が長い(丁度尻尾の先が北極星にあたる)のだが、もはや猫ほど伸びているのではないだろうか。
星座が形を変えるなどということは、どんなトリックを使っても人間の業では不可能だろう。
それほどまでに長い年月が、実際に経過していたのだ。

そんな壮大な世界の変化を始め、目に映る全てのものを見落としてしまうのが勿体なくて、なまえは道中何度も足を止めては草花や木々などの観察に夢中になっていた。
むろんそんな調子で道草を食っていては(実際、口に出来るものは囓りもしたが)羽京から貰った食糧も底がつき始めてしまうのは当然のこと。
しかしながらなまえの考えはひどく楽観的だった。
最悪、水さえあれば二、三週間ほどは生きられる。羽京が彼女に持たせた食糧の量を考えると、好奇心の赴くままに征く旅路を含めても目的地に到達するほうが早いだろう。
知識欲を満たすことに関して言えば彼女は、食事という生きる為の行為を最小限に抑えてしまえる程に貪欲であった。
が、仮にも彼女の身体は病み上がりだということを忘れてはいけない。
すっかり"そんなこと"を失念していたなまえは、断食4日目にして倒れることになる。



一方携帯電話を設置する為に敵地へと乗り込み捕虜として捕らえられてしまったクロムを助けようと、科学王国勢から視察にやって来た者が一人。
西瓜の中身を繰り抜いたものを被っている彼女は、皆からスイカと呼ばれている。年端もいかない少女であるが、殊自然に溶け込むことに関して彼女は達人級であった。
クロムが牢に閉じ込められていることを知り、仲間に伝えるため足早に道を急ぐ中でスイカはふと足を止めた。
辺りは自生している草木と、雪がまだ溶け残っている。そんな山の中に異様な物体がひとつ横たわっている。
どうやらそれは人間であるようだった。

小さな村の中で生まれ育ったスイカにとって、村の外の人間というのは今や長である千空と幻、そしてその敵である司軍の人間の存在しか知らない。
つまりは味方か、敵だ。
一見巨大な山嵐のような其れが倒れていたのは、場所としては帝国と村の丁度中間地点に位置するだろうか。
もう少し行けば現在、科学軍が駐屯地としている丘に辿り着いてしまう。
どうしようかと迷ったが、スイカは恐る恐る山嵐に近寄ってみることにした。
毛皮に埋もれて分からなかったが、覗き込んだ顔は想像していたよりずっと若い、女だった。
顔色があまり良くないように見えるのは気のせいではないだろう。
様子を伺ってみたところで子供のスイカに人ひとり運べるわけもなく、かといってこの人物が敵であったとしても、それはそれで。

「困ったんだよ…」

そうこうしながら逡巡していたが、クロムのことも伝えなければならない。ひとまずは基地へ戻ってこのことを千空に告げなければと、踵を返そうとした瞬間であった。

「……すい、か……?」

両脇から勢いよく西瓜の仮面を捕らえられた彼女は、反射的にその場で顕になった頭を抱え蹲った。
が、数秒経っても女がなにもして来ないことに気付いておずおずと顔を上げてみると、彼女の興味はよもやこちらには無い。

「……これ、って…」

彼女はスイカから剥ぎ取った仮面をまじまじと見つめ、驚いたような笑っているような、奇妙な表情を浮かべている。
先まで屍よろしく倒れていたのが嘘のように、目が爛々としているように見えた。
太陽光に反射して光る瞳が眩しくて目を細めていると、唐突にそれがこちらを向いてスイカは肩をびくりと震わせる。

「ねぇ、この眼鏡」

興奮気味に詰め寄ってくる女に気圧され、たじろぎながらスイカは瞬いた。
そんなこちらの様子に構わず続いた彼女の言葉に、少女はこの短い間に何度目かもわからぬ困惑を強いられることとなる。

「作った人に会わせてくれない?」

forbidden

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