六畳一間のワンルーム。簡素なベッドの上に膝を抱えて居るのはこの部屋の主ではない。
対岸の壁際に位置するPCデスクの対となるチェアに浅く腰掛けながら、彼女は自分の寝具の上でもう二時間近くだんまりを続けている男に深い溜息を吐いた。

「…今日は帰って」

仮にも恋人である人間に向かって発する言葉ではないやもしれないが、高校時代から五年以上も付き合っていれば遠慮も薄れるというものだ。
その上彼らは辛うじて"まだ"その形を保っているだけで、事実上の恋愛関係は既に破綻している。
互いに連絡を取ろうとすることもなければ、甘い言葉を交わすなどよもや論外の域。ただ彼女が就職と同時に借りた賃貸マンションの一室の合鍵を彼が持っていて、たまにふらりと部屋を訪れるだけ。
そう頻繁でもない逢瀬で何か特別なことを話すわけでもないが、決まりごとといえば毎度会うと身体を求められることくらいだった。
成人してなお定職にも就かず親の脛を食い潰している男とどこか外へ出掛けようという気もさらさら起きるわけがなく、元々インドアな彼女の性質と横着な性格も手伝ってそれを受け入れている。
そこに愛はあるのかと問われれば、断じて無いと答えるだろう。
互いに生理的欲求を満たすだけの時間。断らないから求めるだけで、嫌ではないから断らないだけ。

変わらぬ淡白な情事を終えたのち、いつものように彼は挨拶もなく気怠そうに部屋を出て行くのだと思っていたのだが、今夜に限りそうではなかった。
シャワーを浴びて寝ようとしていたなまえは、浴室から出ると我が物顔で寝床を占拠している男に首を捻る。
部屋を借りてすぐの頃はよく泊まり込んでいた彼もこの二、三年は必ず家へ帰っていたのに。

「泊まるの?」

しかし彼は肯定も否定もせず口を閉ざしたまま、カーペットを見つめ続けている。
寝るでも帰るでも、何か話すわけでもなく二時間そんなふうに膠着状態が続けば、週末で疲れの溜まった身体は休息を欲して気が立ってしまう。
気持ちに任せて彼を詰ったところで益々強情になるだけだろうことは過去の経験からわかっていたし、どうせ自分が疲れるだけだと半ば諦めて彼女はデスクに突っ伏した。

いつからだろう、彼の考えが読めなくなったのは。閉じた瞼の裏で呟いたと共に、彼女は遠い昔の記憶を探る旅に出た。



「そこ。僕の席」
「あ、ほんとだ」

松野一松と彼女との出会いは、高校二年の始業式。前後に席をひとつ間違えて座っていたなまえに掛けられた声は、まるで独り言のようではっきりしないものだった。
然りとて彼女もあまり大きな声で喋る方でなかったから人の事は言えなかったが、彼の第一印象は"辛気臭い奴"。

なまえという少女は極度の横着しいで、他人から話し掛けられなければ自分から声を掛けようとしない性格だった。幼い頃から親や教師に社交性がないと評価されてきた事など意にも介さないほど、良く言えば自由人。
面倒な人間関係に振り回されるくらいなら一人の時間を満喫している方が充実した時間だと思えた。
だからそんな彼女は、つるむ相手がいなかった訳ではないがクラスではどこか浮いた不思議な存在だったのだ。特定のグループに属さない、例えるなら波間に漂う海月のような。

結局、消極的な一松と他人に興味を持たないなまえが同じクラスで行った会話といえば始業式に交わした一言ずつだけで、二人が次に言葉を交わしたのは三年に進級した秋頃のことだ。
真面目に授業を受けるのが面倒だった彼女は、度々屋上でひたすらに雲を眺め続けていた。

その日も例に漏れず退屈な日本史の授業を抜け出して屋上へ続く階段を昇る。鉄扉のノブを回して体重を少し掛けると、所々錆びている其れは軋みながら陽光を取り込んだ。埃と黴の匂いのする踊り場に突如差し込んだ太陽は咎めるように彼女の目を刺す。
吹き込む風は肌寒いのに湿度を含んでいて、まだ夏の残り香を感じさせた。
一瞬眩んだ視界が色彩を取り戻した時、彼女は見慣れた屋上の風景に見慣れぬ物体が鎮座しているのに気付いた。厳密に言えば其れは校舎では嫌でも目に入る黒い制服姿なのであるが、少なくとも春から其処の常連であるなまえは自分以外に授業をサボタージュする不真面目な生徒と初めて出会した。
それが物珍しくて、彼女は二年と半年の高校生活の中で初めて他者に興味を持った。

彼女の存在に気付いているのかいないのか、背後から自分以外の影が伸びているというのにも関わらず彼は其処で人知れず法を犯しているではないか。
ふー。と吐いた薄い煙は、間が悪くちょうどその顔を覗き込んだなまえの顔面に吹き掛けられる。紫煙が目に染みて涙液が分泌されると、何度か瞬いてから視界を取り戻した彼女はその顔に覚えがあるのに気付いた。

「あー、去年同じクラスだった…松本くん?」
「…ほんと、あんた適当だよね」

不鮮明な記憶を辿って捻り出した名前はどうやら的外れであったらしいが、不快そうに寄せられた眉根と眠たそうな瞼にははっきりと見覚えがある。
それから視線は、彼の右手人差し指と中指に挟まれた火元に注がれた。

「美味しい?」

先ほど顔面に吹きつけられた煙は愉快なものではなかったが。単にモラルに反したいのか、それとも大人にだけ許された嗜好品を未成年の身で味わうというのが、却って美味なのだろうか。

「…吸ってみる?」

それはまだ彼女が子供だったからなのか、いやに好奇心が擽られた。
差し出された煙草のフィルターに口付けながら眼前で点灯したライターの火には目もくれず、彼女は彼が吸い掛けていた煙草から火を頂戴したのだ。
気怠げな瞼が僅かに開かれて、彼女が視線でせっつくと一松はゆっくりと煙草を吸い込む。彼女の煙草に火が移ると、煙を吐き出してから不満そうに唇を尖らせた。

「常習犯かよ」

その日から彼らは度々屋上で遭遇するたびに他愛ない言葉を交わすようになった。
そのほとんどが煙草を吸って過ごす無為な時間で、まるで実質的な会話などなかったかも知れないが。彼女にとっては居心地の悪くないものだった。
そうして季節はまた移ろい、屋上に出るのにも上着が必要になった頃。

「受験勉強しなくていいの?」
「うん、私就職だから」

就職組とは言え面接対策であるとか、教師は躍起になっているが彼女にはまるでやる気がなかった。その時が来れば為すようになると思っていたからだ。

「きみは?」
「わかんない。…けど多分、働かなきゃいけなくなると思う」

事情を訪ねてみると、経済的に大学に行く余裕は無いということだった。特別やりたい事もないし。そう呟きながら歯切れの悪い言葉が気に掛かって彼女が更に畳み掛けると、どうやら彼には六つ子の兄弟が五人いるという。

「え、六つ子?多くない?」
「……、なんなら全員ここの生徒だけど?」

初耳と言わんばかりに驚きを見せるなまえに、確かに面と向かってこの事実を話したのは初めてかも知れないが、それにしても。見ず知らずの同級生からも認知されるくらいであるから、それこそ周知の事だと彼は思っていたのに。
一松の呆れを含んだ苦笑の隣で、彼女は呆気なく「ふうん」の相槌で会話を終了したようだった。

「あんたってやっぱ…」
「…あのさ」

その"あんた"ってのやめてくんない?
唐突に投げ掛けられた、不満に溢れた瞳が一松を捉える。気圧されるように顎を引いたが、けれどそれでは不公平だと思って彼は口を開いた。

「…じゃあ"きみ"ってのもやめて」
「………"松野くん"?」

暫く流れる雲を見上げながら思案していた彼女は試してみるようにぽつりと呟いて、瞬間ふたりして顔を見合わせるとその違和感が可笑しくて笑ったのだ、それこそ腹が捩れるほど。
結局彼女は彼を「一松」と呼び、彼は彼女を「なまえ」と呼ぶようになる。
他人との距離に疎かった二人が、形式的な告白も明確な恋心も自覚しないまま男女の仲へと発展するのにそう時間はかからなかった。

ただ、彼の隣にいるのは居心地が良かったのだ。
面倒な駆け引きも彼との間には不必要で、まるで同じ環境で育ってきたみたいに波長が合った。
だから彼女は知らぬうちに、常に互いが同じように考えていると勘違いしてしまったのかも知れない。



…ごめん。

彼女が微睡みの中で聴いたのは、いつかの幻影か、それとも。
目を覚ましたのはまだ朝日が顔を出す前で、けれどほの白く空が明るみ始めている朝と夜の狭間だった。
硬いデスクの上で居眠りをしていたせいか体が悲鳴をあげる。
身体を起こして伸びをしたとき、いつの間にか肩に掛けられていたタオルケットが滑り落ちた。
それを拾い上げながら寝床に視線を移す。
眠りに就くまでは早く帰ってくれないかなんて思っていたのに、そこに鎮座していた恋人の姿が見えないことが何故だか無性に肌寒く思えて仕方がなかった。

歪んだ糸の解きかた

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