代々小早川に仕えてきたみょうじ家に生まれた後継は、なまえというひとりの女である。
彼女はこの烏城の城主である秀秋の側近であり、幼き頃からの目付役でもあった。
己の主人の為とあれば女だてらに刀を握り、戦さ場を駆け回り人を斬ることも辞さない厳格なまでのその性質が、生来のものであるのか、はたまた優柔不断な主人の側で培われたものであるのかは定かでない。

ただひとつ確かなことといえば、そんな秀秋の忠実な家臣の一人である彼女は主人の命であればどんなこともする。
彼女の華奢な手が合戦場以外で汚れることのないのは偏に仕える主人の臆病な性格故であり、そして主人の命令以外は親であろうと頑として聞かぬのがなまえの忠臣たる所以なのである。
もし、実際に秀秋より暗殺を命ぜられれば文句ひとつ溢さずに任務を遂行するであろうし、偵察を命ぜられれば何ヶ月、数年と掛けてでも潜伏を続けるであろうその忍耐力は、忍顔負けの其れであった。

そして時にそれは、なだらかに流れる川の脇に積み重ねられたいくつもの大鍋の後始末を終えることに注がれる。
小さな体躯に見合わず大食らいな秀秋は、鍋であればいつ迄でも食い続けていられる程に大の鍋好きだ。鍋が趣味と言っても過言ではない。
そんな御奉行様は一日に何度も鍋を作っては食らいを繰り返している為、いくつも鉄製の大鍋が溜まる。それらを洗浄するのも、側近である彼女の職務なのだ。
本来であれば調理具の洗浄など下人にでも任せてしまえば良い雑務のようにも思えるが、国取りや戦よりも皆で鍋を囲むことを好む主人にとって、その鉄鍋は武士の刀と同義らしい。

城の裏を通っている川で、ゆうに10人前はあろう大鍋をひとつ手にとって濯ぎだす。
傷が付かぬよう、編み込んだ藁で擦れば大した力も使わぬ作業は段々と終わりに近づいている。

主人への文句は溢さないが、たったひとつ不満があるとするならば、挙動不審な主人の側に常に控えている怪僧の存在であった。
いつからかふらりと現れた僧は名を天海と名乗ったが、その出自や行動に謎が多く家臣の間でも賛否分かれている。
たった3日前、秀秋にも何も告げずにふらりと何処ぞへと姿を晦ました彼の顔を思い出しながらなまえはつい眉間に皺を寄せた。
丁度、爬虫類のような鋭い瞳を思い出したそんな時だ。

「おや、こんな処にいらしたのですね」

捜しましたよ、言外にそんな声まで聞こえてくるような気がしたが、彼女は声の主へ返事をすることはおろか一瞥すらくれずにたった今しがた終えた洗浄済みの鍋を荷車に積み込んだ。
態とらしい口振りに心底呆れた彼女は、丁度思案していたその人が姿を現したことには何の疑問も抱きはしない。
神出鬼没、そんな言葉がこの天海という僧にはよく似合う。

なまえが日に2度は川原で鍋を洗っていることなど下人にすら周知の事実だというのに、この男はさも自らの手を煩わせたかのような言い回しをするのであるから人を揶揄うのも程々にして欲しいものだと思った。
必要最低限の言葉以外を交わすことを極力避けている彼女は一度天海の横を通り過ぎようとしたが、3日前に血相を変えて屋敷中この男を捜し回っていた主人の姿が浮かんで足を止めた。

「金吾様にご挨拶はお済みで?」

天海が不在の今敵国に攻められたら、などと慌てふためいていた主人が一番彼の帰りを待ち侘びている筈であるのに、当の本人は何故か帰るといつもなまえの顔を一目見に来る。
にこりと笑った顔は一見すれば穏やかな微笑のようにも見えるが、何度見たところで彼女にとっては不気味な造り物でしかなかった。

「これからですよ」
「それは良かった」

絹糸のように滑らかな、白色が風に靡くのを視界に捉えながらなまえは顔をしかめる。

「匂いますもの」
「おや、変ですね。身は清めた筈ですが」
「そうではなく」

風向きが変わると、不意に流れてきた絹糸になまえは指を通した。
普段であれば触れようなどとは思わぬ無色の髪から、火薬の匂いが仄かに香る。

「死の匂いは消えませんよ。硝煙に紛れようと、水で洗い流そうと」

手元からちらと瞼を持ち上げれば、今までに見たことのない"笑み"をたたえる文字通りの怪僧がそこには居た。
くつくつと喉を鳴らしている彼は普段見るより僅かばかり顔色が良いように思える。
怪訝そうに眉をひそめる彼女に伸ばされた手は瞬時に跳ね返されたが、それすらも愉快そうに天海は肩を震わせていた。

「嗚呼、やはり…」

掠れた低音が一人呟きながら、どこか恍惚とした瞳が彼女を射る。

「あなただけは、騙せませんか。"私"すら、騙せたというのに」

切れ長な凍て付いた瞳の奥底から、沸き上がるような熱を垣間見て体が強張った。蛇に睨まれた蛙というのは、こういう状況を差すのだ。

「私はあなたがすきですよ。"私"を暴いてくれる…聡く、愚かなあなたが…、ね」

一歩一歩、ゆっくりと距離を詰めてくる不安定な足取りに我に帰るとなまえは足早に荷車を引きながら彼に背を向ける。
これ以上二人きりで居るのは危険だと、本能ともいえる部分が警鐘を鳴らしていた。

「ですから、愛し合いましょう」
「…は、」

いきなり耳元で響いた声にぞくりと全身が粟立つ。囁かれた左の耳朶に、冷たい金属の面頬が触れたのが妙に気味悪く感じて触れた箇所を手のひらで覆った。
愛などという言葉を使ってこそいるが、その真意は言葉になどせずとも滲み出る殺意が物語っている。
それでも眉間の皺を一層濃く刻んで、本能の内から湧いてくる恐怖を目の前の捕食者に悟られぬようなまえは努めて皮肉を突き返すのだった。

「僧侶が説くのは愛ではなく仏法でしょう」

この期に及んでまさかそんな事を言われるとは、思いもよらなかったことだろう。天海は細めていた眼を僅かばかり丸くして自らを睨め付ける瞳を見つめていたが、ひとつ静かに息を吐くと同時に覗き込んでいた顔から身体を離した。

「…つれないですね」

つまらないとでも言いたげな、少々上からな物言いは普段なら腹立たしく思えるが、今のなまえにとっては有り難いとすら感じた。
張り詰めた糸が弛緩するほんの瞬間、ただの一瞬だけ。
それは気のせいであったかもしれないが、それまで静かに揺れるような殺意を宿していた眼の内に、其処に混在する慈愛の色を彼女は見てしまった。
血の気が引いていた筈の全身へと、一気に中心から血が巡り出す。

…否、そんなはずはない。

ただのひと時だけ見間違えた、穏やかな笑みを脳裏から払拭しようとなまえはその場から逃げるように去って行く。
足早に遠のく背を眺めながら、ひとり残された天海は夕闇に染まる中で眩しそうに眼を細めるのだった。

説法

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