天下分け目の大戦。
西軍総大将である石田三成と東軍総大将の徳川家康が争ったその跡地には、物言わぬ骸と化した愛するひとの姿が在った。

「迎えに参りましたよ、三成様」

菫の衣に墨色の九条袈裟を纏い、戦を終えて間もない関ヶ原の地を迷いなく一歩ずつ歩んでゆくその姿は、血生臭い戦さ場には不釣り合いなほどに小綺麗であった。
それもそのはず。彼女は戦の終わりを感じてこの地に足を運んだのである。

なまえという女は竹中彦作の娘、つまり半兵衛の姪に当たる人物だった。未だ豊臣が織田の傘下に在った頃、彼女は織田家の重臣に嫁いだのだ。
未だ齢十二という幼い年齢ではあったが、武家の娘らしく教養を身に付けていた彼女は妻として歓迎された。
大阪に居た頃、三成と出会った時の事を彼女は今でも鮮明に覚えている。

半兵衛様とあまり似ていないな。

半兵衛本人から姪だと紹介された同じ年頃の少女を前に、その顔を暫し観察したのち彼が口にした感想はそんなものだった。
切れ長の目が少々威圧的に感じられて萎縮していると、叔父の手が背中をそっと押すものだからよろけてしまう。
そんな姿を目にした三成はきっとみっともないと叱責してくるのだと思ったが、なまえに侮蔑の言葉が飛んでくることはなかった。
代わりにずい、と突き出された右手の意味が解らずに呆けていると、僅かばかり眉を釣り上げた彼は雑に彼女の手を取って歩き出したのだ。

鈍いやつだ。

ぼそりと零した文句の中には苛立ちや呆れも含まれていたが、それ以上に優しさが溢れていた。
思えばこの時もう既に、なまえの心は右手と共に彼に攫われていたのだろう。

それからは時折、城中で三成の姿を見かけることはあっても言葉を交わすことはなかった。
二度目に言葉を交わしたのは、嫁入りの日。

達者でな。

ぶっきら棒な口調で押し付けられた言葉は、嫁いでからの彼女を何度も励ました。
夫となった人物が実はかなりの好色家で、まだ少女とも少年ともつかない年頃の"こども"を好んでいたことが発覚したからだ。
結局二年と持たず新しく迎え入れた幼い妻に執心なさった夫のお陰で子を孕むことは無かったが、初めは人肌恋しく思えた一人の夜を過ごすことにも慣れた矢先のこと。
明智光秀の謀反によって織田は崩落した。

本能寺にて君主が討たれたと聞くや否や慌てふためく夫の姿はあまりに頼りなく、斬られるくらいなら自ら腹を切るつもりであったのが途端に馬鹿馬鹿しく思えた。
彼女を城からそっと逃してくれたのはいざという時役立たずな夫ではなく、幼い頃から彼女の目付役でもあった壮年の侍女である。
しかし数日もすれば追手に見つかってしまい、山奥で追い詰められた彼女が二度目の覚悟をした、まさしくその時。

貴様は相変わらず鈍くさいな。

疾風の如く現れた見覚えのある人影が何人かの追っ手を薙ぎ払った。その正体に安堵した途端、堪え切れなくなった涙を零すなまえに三成は困惑しながら。
恐る恐る伸ばされた彼の腕に包み込まれ、言い知れぬ安心感と幸福を与えられたのだ。
それが二人にとって三度目の邂逅で、そして最後に言葉を交わした日になった。
あの別れ際に彼から貰った言葉をなまえは忘れたことがない。

生きろ。

まるでそれが最後だと予期していたかのように。それだけを遺して彼は先に逝ってしまったが、そのたった三音が彼女を今日まで生き永らえさせた。

蒼白な顔は触れれば冷たく、幼い記憶の中で見た手より大きな其れは石のようである。
それでも、事切れてなお彼は美しかった。
いつも険しく顰めていた顔も、今では緊張の糸が切れた安らかな寝顔と云えよう。

「あの日からずっと、休まず走り続けてきたのでしょう?」

秀吉や半兵衛が失われた、あの日。愛するひとが復讐の鬼に成り果てた日。
既に出家して尼僧として修行していた彼女の耳にも、豊臣が討たれたという話は届いていたのだ。
初めて触れる髪は、想像していたよりずっと指通りがわるい。陽光に輝いていた美しい銀色も、今や見る影もなかった。

「三成様、もう終わったのですよ。もう、休んで良いのです」

被っていた白い袖頭巾を解くと、血や土で汚れた磁器のような頬を拭う。
はらりと降りた黒く滑らかな彼女の髪は、尼削ぎに倣って肩より短く整えられている。
細い腕に彼を抱きながら、なまえは涙を流すでもなく、ただひたすらに何度も銀色へ指を通していた。
いつまでそうしていたか判らないが、すっかり日が傾き始めた頃、土を蹴る微かな音が聴こえてきた。
其れは遠くから段々と近付いて来て、ちょうど彼女のすぐ背後で足を止める。

「………なまえ、か」

然程煩くもない風の音に紛れてしまいそうな程、小さな呼び掛けが彼女の耳を掠めた。
それまで三成の寝顔を眺めていたなまえは顔を上げ、そこで初めて辺りを見渡した。
先の見えない広大な大地の上には、どこの軍の兵とも判別つかない無残な亡骸が幾多も転がっている。
この光景を作り上げた戦で勝利を収めた者の声とは思えなかった。

「…覚えているか?幼子だった頃、一度だけ三人で遊んだな」
「思い出話をしに来た訳ではないのでしょう、徳川様」

こちらを見向きもせず、穏やかな声で返事をしたなまえは、手形をした石にそっと手を添えている。
幼い頃と全く同じその光景は、家康の苦い記憶を呼び起こさせた。

"そう"だ。彼女は昔からそうだった。

三成となまえが出会った日、彼が彼女の手を引いて連れて行った先は幼き日の家康のもとであった。
文字の読み書きの練習をさせられていた彼の元へ来客がやって来るのを認めると、筆を置く口実が出来たとばかりに家康は三成に駆け寄った。

どうした佐吉!おまえの方から顔を見せるとは珍しい。

常ならばそこで筆を止めるなと叱責が飛んでくる筈が、あの時ばかりはそうではなかった。
三成が何やら背に向かって一言、二言声を掛けているのが奇妙で、興味を惹かれた彼はその後ろに何があるのか覗き込んでみたのだ。

は…初めまして、竹千代様。

急に現れた家康の顔に肩をびくつかせ、三成の背に隠れるようにしておずおずと名乗ったその少女に、彼は心奪われた。
俗に言う一目惚れというものであったが、それが叶わぬ初恋であると悟るのも早かった。
彼女の目には初めから三成しか映っていなかったのだから。

今も同じように、彼女の目は家康の姿を捉えようとすらしない。
一度は他人へ嫁ぎ、家を失い孤独を知り、そして仏の道を選んだ今でも三成へ変わらぬ愛情を抱き続けていることは一目見れば直ぐに判った。

「………わしが憎くはないのか」
「いいえ」

悠然とした声が、否定の言葉を吐く。

「…わしは三成を、殺した」
「ええ。それで」

敢えて直接的に自らを貶めるような事実を突きつけてみるが、尚も子供の讒言を聞き流す母親のような態度を崩さないなまえに無性に腹が立った。

「おまえは三成を愛しているのだろう!」

つい声を荒げて放った言葉が、ぐさりと自らの胸を刺しては痛みが滲んだ。おもむろに、彼女がこちらを振り返る。
家康は思わず目を疑った。口許に弧を描いて、彼女は紛れもなく笑んでいたのだから。

「ええ、ですから。三成様を今生の苦しみから解き放って下さったあなた様に、感謝こそすれ憎悪など持ち得ません」

それとも。

「なにか、悪いことでもしたので?」

瞳の上弦に沿って揃えられた前髪の隙間から、黒々とした大きな瞳がこちらを真っ直ぐに見据える。背筋が凍りつくほどに冷たい眼差しであった。

家康が豊臣に反旗を翻した日のことが脳裏を駆け巡った。
己を、家臣を、主君を、天下を、友を。
裏切り、欺き続けると誓ったあの時から彼は孤独と闘っていた。
だからこそ、彼自身も知らぬうちにどこかで甘えていたのだ。
石田三成という存在が、尽きぬ憎悪を持って己に罰を与えてくれる事を。
三成の憎しみに満ちた瞳が、瞋恚を吐き出す声が、殺意を持った剣先が。己の嘘を暴き断罪してくれる事を心の奥底で欲していた。

彼は、今まで三成が与えてくれた罰により得られる安心感を、今度はなまえに求めようとしていたのだ。
己の愚かしさを総て見透かすような瞳に恐怖さえ覚えた彼は、逃げるように背を向けた。
耳に心地の良い鈴音のような彼女の声で最後に聞いたのは、きっと最大限の優しさであった。

私、三成様ほど優しくないのですよ。

罪と罰

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