前方には赤。
後部座席から進行方向を見るが、流石に深夜二時を過ぎた道には人も車もひとつたりとも見当たらなかった。
赤信号が青へと変わった途端に動き出した車体に、少しばかり頭が揺れる。
すぐ隣の窓から外を眺めれば、紺色の中に点々と現れる街灯の白が存在を主張しているだけだった。
代わり映えしない景色にも見飽きた頃、なまえは窓とは反対側へと一瞥をくれた。

「大丈夫?左近」

今日は確か、自分の失恋による憂さ晴らしの為にと彼を飲みに誘ったわけなのであるが。
この日の左近は、少し、いやかなり様子がおかしかった。
途中から言葉少なになり、いつもより異様に飲むペースが速かったのだ、弱いくせに。
なまえはといえば酒には強い方であるが週末ということもあり、更に左近に付き合っていつもより飲んだ為か身体のだるさが増している。

頭を抱えて窓の方を向いている姿は起きてこそいるようだが、どうやら返事をする気力は残って居ないらしい。
呼んだタクシーを待っている間に自動販売機で購入した水のボトルを彼の前に突き出すと、気怠そうに伸ばされた指先がそれを受け入れた。
こくりと微かに上下する喉を見届けてから、なまえは連日のデスクワークで凝り固まった肩に手を当てる。

最初は普段と何ひとつ変わらなかった左近だが、どこから彼に異変が起きたのだったか思い出そうとする。
が、記憶を遡ろうとする前に重い瞼と共に朦朧とする意識がそれを強制終了しようと躍起になる。
もうこのまま意識を手放してしまおうかとも考えたが、左近の自宅に到着してから己の住所を運転手に伝えなければならないのだと思い至って半ば無理矢理にそれを持ち上げた。
瞬間。
視界に割り込んできた、先まで不調から項垂れていた筈の眠たそうな瞳と視線がかち合って、びくりと肩が大きく震えた。

「ぅわっ」
「…んなビビることなくね」

のそりと眼前から退いた左近の声が不機嫌に染まっているが、未だ体調が優れないのだろう。
もしかしたら頭に響いたのかもしれない。それ程に彼は酒を浴びていた。
気付けばタクシーの室内灯が点いていて、どうやら会計も済んでいるようである。
開けられたのは左近が座っている左側の扉で、奥側に居るなまえはこの後まだ乗り続けるのだから動く必要はない。
筈なのだが。

「着いてんよ」

ぐい、と腕を引っ張る仕草はどうやら自分もここで降りろと言いたいらしかった。

「いや、私帰るし…」
「はぁ?なまえんち真逆じゃん」

なんで居酒屋で別れなかったのかという呆れたような視線がなまえを刺すが、酔っ払って気持ち悪いと言い出した人間をタクシーに放り込んで後は存ぜぬと帰宅出来るほど彼女も薄情ではない。
そこがなまえの良い所でもあり、時には要らぬ世話まで焼いてしまうのが都合の良い女に成り果てる要因でもあった。

暫く左近となまえとの間で無言の応酬が繰り広げられていたが、はぁ、と溜息をついて先に折れたかのように思えた左近が口にしたのは、彼女が予想した言葉とは異なっていた。

「…、気持ちわりぃ」
「えっ大丈夫?」

口元を押さえた左近の背中を慌てて摩る。
目的地に到着しているというのにこれ以上の遣り取りを車内で行うのも気が引けて、なまえは左近の様子を伺いながら外に出た。
タクシーが遠ざかっていく音を聞きながらマンションのエントランスに具合の悪そうな彼を連れていく。
エレベーターに乗り込んだ途端、思っていたよりも低い体温に包まれてなまえは閉口した。
一瞬何が起きたのか理解が追いつかなかったが、くすりと耳元で愉快そうに溢れた笑いを拾ってみる。

「左近、?」
「やっぱ馬鹿だな、あんた」

揶揄いにしては元気のない声音に、どこか強がっているかのような印象を受ける。
が、それ以上に、なまえは困惑していた。

「こんなベタな手に何回引っかかってんだっての」
「…嘘ならあんた置いて帰るけど?」

左近の嘲るような言葉に眉を顰める。過去、共に酒を飲んだ男に酔っただのの下手な芝居で家に連れ込まれそうになった苦い記憶があったが、そのことを差しているのだろう。
少し不愉快になって態と突き放すような言葉で責めれば彼女を抱きしめる腕に一瞬力が籠って、再びそれがゆるりとしたものに変わると左近は声を絞り出した。

「……や、嘘ではない、んだけどさ」

実際、ちらと見た彼の顔色はやはり優れなかったし、左近の言葉を疑うというのはなまえにとっては無意味なことである。
閉ざされたエレベーターが未だ行き先に迷って一階に留まっているのを見兼ねたなまえが、四階のボタンを押し込んだ。



一人暮らしの男の部屋に、それも先日付き合っていた恋人と別れたばかりだというのにも関わらず、足を踏み入れることには些か抵抗も感じる。が、気分が悪そうであるし、なにより相手が左近であるという事実はなまえにとって何よりもの安心材料となった。

玄関に雪崩れ込むと同時に彼が脱ぎ散らかした革靴を簡単に揃えて、その隣にパンプスが並んだ。
靴だけ脱ぐとその場で蹲り出してしまいそうになった左近に声を掛け、なんとかリビングまで連れて行く。
備え付けの蛍光灯ではなく間接照明の柔らかな灯りを点けると、薄ぼんやりと部屋が照らされた。

「あ、…」

一連の行動の後に気付いたが、その間接照明は確か別れた恋人と交際中に大型家具店で見たものと同じだった。
自分が気に入って見ていたら、彼は「同棲したら買おう」と言ったのだ。それももう、過去のことだが。
今考えればそう古い記憶でもないその言葉を、本気に受け取っていたのは自分だけだったのかもしれないと思うと幾許かの寂寥は込み上げてくるような気がしないでもない。

「…なまえ。どうかした?」

そんな物思いに耽るなまえの指先に、温もりが触れた。体温は低いけれど、確かに暖かい。
先に感じた寂寥をじんわりと溶かしていくのが、心地よくもこそばゆいのは相手が左近であるからだろう。
ソファの上で立てた片膝を肘置きにして、更にその腕を枕がわりにした左近の眠たそうな瞳が細められた。

「いい加減座ったら?」

促されるままその隣に腰掛けて、人ひとり分もない空間が二人の間に出来上がった。
橋が架かるように繋がった互いの指先の感覚が不思議で、左近となまえがこのように触れ合うのは出会ってこの方初めてのことだ。
手を握るのでも、指を絡めるのでもなくて、ただ触れているだけのその熱がひどく恋しく離れがたく思えた。

それはどちらかが手を引っ込めたならば、きっとこの先二人が関係を違えてしまうことは二度とないと確信してしまえるほどに脆弱な糸。
友人と、こんなことをしているのは変だ。なまえの頭はそう言うが、指先は彼の熱から頑として離れようとしなかった。
隣人は先述した通りの体制そのまま、腕に顎を乗せて部屋の隅を見つめている。
彼女の視界からその表情は伺えない。

言葉など無くとも解り合えていた筈の二人が、この時ばかりは何を思っているのか互いに解らなかった。
このままでいるのも胃のような心臓のような、判然としない臓器のどこかが圧迫されているような居心地の悪さを感じて、口を開こうか、指を退こうかと迷っていた時。

パンツのポケットに仕舞い込んでいたスマートホンが震えた。
幾度か断続的に振動する其れは、何者からかの着信を報せるものである。
端末の持ち主であるなまえには、ひとつ心当たりがあった。

「…電話?こんな時間に?」

時刻はもう夜中の三時を回っている。常識を持ち合わせた人間ならば人に電話を掛けようなどとは思わないだろう。というかそれ以前に寝ている。

ディスプレイに映し出された番号は、先日削除したばかりのそれであった。
出ようか、拒否しようか迷っている間に、いつの間にか彼女との距離を詰めていた左近が画面をスライドさせた。

「あ」
『なまえ…?』

"通話開始 0:01"の秒数表示が始まって、つい困惑に満ちた目で左近を見れば当の本人は会話してみろと顎をしゃくった。
恐る恐るスピーカーに耳を当てると、数日ぶりに聴く声がする。
実際にはたった一週間しか連絡を絶っていなかったというのに、交際中は毎日連絡を取り合っていた為にそれが懐かしく思えた。
馬鹿な話だという自覚は、少なくともなまえにはある。

「……もしもし」
『声、聴きたくなっちゃって』

交際中には飽きるほどよく聞かされた口説き文句だったが、冷静になって考えてみればなんというエゴの押し付けがましいことだろう。
黙って聞いていれば、はぁ、と不自然な吐息が混じっているのに気付いて眉を顰めた。

『……ごめんこんな時間に。でももう一度だけ、なまえに謝りたくて…』

声がどこかぎこちない。身体が強張っているような感じで、覇気がない。
謝っているのに覇気というのも妙な話だが、口がよく回るだけが取り柄のような人間であったから、なまえには余計不自然に思えた。

「今、どこにいるの?」
『…実は、きみのマンションの下なんだ』

正直、呆れた。
自分から裏切りを働いておいて、厚かましくも恋人だった時と同じ行動を取る男に。
そして何より腹立たしいのは、手酷く裏切られておいてそれで尚、真冬の夜に逢えるかどうかも分からない相手を待つ元恋人に同情してしまう、愚かな自分であった。

「…悪いけど帰って」
『もう好きな人できたとか?』
「今、家にいないから」

もう連絡をして来るなと続けようとしたところで、手の内から端末が滑り落ちた。
と思ったなまえが慌てて行方を追えば、それは隣で聞き耳を立てていた左近の手に渡っている。

『なまえ?それってどういう…』
「ま、そういうことなんで…」

声だけ聴けばそれは戯けたようなどこか間の抜けたような印象を抱かせるが、この時左近の隣に座っていたなまえはその瞳に滾るような怒りが内在していることが見て取れた。
これほどまでに怒りの感情を顕にしている左近を見たのは初めてで戸惑いが隠せない。
次の瞬間、どこから響いてくるのか地の底を這うような低く冷たい音が耳に届いた。

「金輪際 なまえに近付くんじゃねえぞ」

自分が庇護されている筈だというのに、思わず肩を震わせてしまう程に迫力ある彼のそれは、演技ではないだろう。
通話を切った左近は、丁寧にも端末の通話履歴からその電話番号を削除してから持ち主に返す。
その頃にはもういつもの彼に戻っていて、なまえはどうして良いものか迷った挙句言及しないことに決めた。
聞いてしまえば戻れなくなるような気がしたからだ。

「…明日帰って凍死してたらどうしよ」

話をどうにか本題から逸らそうとして出てきた冗談は先の通話相手に関するものであったが、それが墓穴を掘ったことに気付くのはのちの事。
彼女の言葉に対する返事として真っ先に左近の頭に浮かんだそれを一度は躊躇った。
なまえを困らせるだけだ。
勢いで言って良い言葉じゃない。
後戻り出来なくなる。
だが、この不安定になってしまった関係をこれ以上拗れさせない為の言い訳を考えることが急に面倒くさく思えたその口はいとも簡単にするりと本音を滑り落とした。

「帰らなきゃいんじゃね」

ただ触れるだけだった指先は、なまえの体温を求めてその細い指に絡みつく。
開き直った強気な口調とは裏腹にその手つきは酷く控えめで、未だ目を丸くしている自分の意思を尊重してくれている。
そう理解した途端なまえはここまでされて足踏みしていることが無性に馬鹿らしくなった。

「…いいかもね、それも」

指先に力を込めて自らも応えると左近のそれはもう少しだけ力強く握り返すのがこそばゆくて、なまえの口から優しく笑みが溢れ落ちる。
今まで付き合ってきた男であったならばここで口付けを交わし、身体を結ぶのであろうが、つい先まで友人同士であった彼らの間にはまだ、急に男女の仲になれるそんな実感は湧かなかった。

思えばそれは彼にとってそこまで深い意味のない言葉であったかも知れないが。
印象よりもなまえの愛は重いのだということを友人である左近が知らないわけがないのだから、それでクーリングオフは受け付けてやらないのだと内心舌を出した。
というのも、中々の好物件だということになまえは今更ながら気がついたのである。
ここは奇しくも自宅から向かうより職場に近いし、偶然にも欲しかった家具がある。
そしてなによりたった今友人から昇格したばかりの隣人がいる。悪くない。
重たくなる瞼に今度は逆らわずにいると、耳元で陽だまりのように柔らかな理想の恋人の声がした。

「おやすみ」

こんな穏やかな深夜も、悪くはない。

まぶた

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