行儀悪くテーブルに頬杖を突き小皿に盛られた枝豆にもう片方の手を伸ばす指先を眺めながら、左近は周囲の騒がしさの中から聴こえてくる耳に馴染んだ声に意識を向ける。
中ジョッキに口をつけ黄金をぐびりと嚥下して細い喉が上下すると、露わになった上唇を白髭が縁取っているのを見て思わず噴き出した。

「っちょ、なまえ笑わすなって!」
「ん?」

急に笑い出した向かいの男に何のことやらと首を傾げたなまえであったが、自らの唇が必要以上に濡れている違和感に気付くとテーブルに備え付けられた紙ナプキンを一枚抜き取り口元を拭った。
未だ目尻に涙を浮かべている左近をじとりと睨め付けて、あまりの笑いの沸点の低さに少々温度差を感じてしまう。
恐らく、いや確実に既に彼は酔いが回っている。そんな確信と共にシーザーサラダを自ら食べるだけ小皿に取り分けていたなまえへと、一頻り笑って満足したらしい彼の声が届いてきた。

「てか、そういうところじゃね?」
「なにが」
「振られる原因」

う、と図星を突かれて小さな呻き声がなまえの口から漏れる。
慎ましさであるとか恥じらいとかいうものとは無縁である自覚はしているが、その言い草には少々物申したい気持ちがあった。

「言っとくけど、振られたんじゃなくて振ってやったのよ」

割り箸の先で相手を指し示すと、きょとんとした顔が今度は意地悪そうに口の端を持ち上げた。

「どうせまた浮気されたんしょ?」

その問いに急に黙りこくって、不機嫌を隠そうともしない唇が子供のように尖っているのを見て左近は苦笑した。

高校二年生の頃、同じクラスになって出会った二人の友人関係はもう七年になる。
席が近く話し掛けてみたところお互い直ぐに意気投合した。一見軽そうにも思える二人は意外にも実直という似た者同士、互いが互いの理解者であると認識するのにもそう時間がかからなかった。
大学は別の学校へ其々進んだが頻繁に顔は合わせていて、飲酒できる年齢になれば尚のことであった。
その時々で恋人が居ようが、友人に男も女もあるものか、というのは互いの共通認識でもあったろう。

そんな二人はこの冬、社会人一年目を終えようとしている。
大学卒業前に高校の同窓会で顔を合わせて以来音沙汰なかったなまえから左近に飲みの誘いが訪れた。
連絡が来た時から薄々予感はしていたことなのだが、ずばりこの女、頗る男運が悪い。
運というより、見る目が無さすぎるのだろうと左近は思っている。

一応親友とも言えるほど気を許している相手に対してこう言ってはなんだが、面食いが過ぎる。
顔が第一というその考えは彼にも理解出来なくはないのだが、話を聞けば聞くほどにどの男も顔だけで中身が伴っていないのであるからこれはなまえの目に狂いがあるとしか言いようがなかった。
今まで相談されて来た彼女の恋愛遍歴を顧みて、統計的に見てもダメな男の割合が群を抜いていた。

「はーあ」

深い溜息と同時に先まで強気だった顔に陰りが見えると、左近は自分のジョッキに口をつけた。

「どっかにいないかなぁ、優しくて話が面白くて浮気もギャンブルもしない高身長なイケメン」

恐らく、どこにでもいるだろう。
けれど人が人生の中で巡り逢える恋愛対象となり得る相手というのには数が限られていて、類は友を呼ぶとも言うようにその性格にだって限りがあるだろう。
高学歴高収入という高望みな条件が入っていないだけ水準は下がるとはいえ、彼女に都合の良い男が都合の良いタイミングで現れるなんて、そんなわけ。

しかしその否定語を口にする前にはた、と左近の唇が動きを止めた。
なまえが口にした条件をひとつひとつ口の中で反芻してから、それは単なる左近の純粋な思い付きだったのだが、ある結論に辿り着いた。

「それってさー」
「うん?」

割り箸の先が摘んでいた半月型のフライドポテトが口の中に収まるのを見届けながら、左近の軽い口が続けて開く。
伏し目がちだった瞼は薄付きながらも化粧に彩られており、次の瞬間現れた澄んだ瞳と視線が絡み合った。

「俺じゃね?」

彼の言葉がその耳に届いたのだろうか、映像を一時停止でもしているのかという程見事に固まったなまえに、つい左近も息を潜めた。
相も変わらず周りの喧騒は続いていて、聴覚だけは働いているのにまるでずっと同じ画を見続けているような錯覚をする。
が、それまで頭が働いていなかったらしいなまえがぱちくりと瞬きを繰り返して、口の中に含んだ食物を咀嚼する様子に左近は少しばかり焦れた。

もしやきちんと聞こえなかったのかもしれない。
…否、よくよく考えてみればまるで次の恋愛相手に己を勧めるような言葉など友人関係には不必要だ。聞こえていなくて正解かもしれない。
が、どこかで無性に遣る瀬無さを感じている自分がいる。のは、何故か。

酒を流し込んだなまえの喉が微かに上下して、まるでなんでもないみたいに、その唇から白い小粒の前歯が覗く。



たぶん、ひと月前まで付き合っていた女から別れを切り出された時よりずっと、なまえの返答を聞くほうが怖かった。
たっぷり二十分掛けて、彼女中心の退屈な世間話を交えた後に捻り出された「別れよう」の言葉に即答で「おっけ、了解」と軽薄な切り返しをした左近が勢いで頬を叩かれる始末だ。
それ程に彼は今まで自らの恋人というものに執着がなかった。
勿論彼も鋼鉄の心臓を持っているわけではないので全く傷付かなかったと言えば嘘になるが、別れたがっている相手を引き留める程の情など湧かなかった。

口を開けば自分の話ばかり。
思わず"それ誰目線なの?"と突っ込みたくなってしまうような女友達に対する陰の駄目出しの数々。
(実際、左近は過去に口走って酷い暴言を浴びせられた事がある。)
デートプランはしっかり立てろだの、ランチはなんでも良いと言いながら左近の提案は次々却下したり、奢りじゃないと気が済まなかったり、香水がきつかったり。
掘り返してみればどうやら、左近自身もなまえの男を見る目云々に口出し出来ないくらいには粗末な恋愛しかしていなかったらしい。
付き合い始めも別れも大概相手からだった。

けれど。確か高校三年の当時、一年生の頃から付き合っていた同級生がいて。
学校という狭い世界では高校三年間という月日の殆どに彼女が入り込むことになったわけだが、ふと些細なことがきっかけで大喧嘩に至ったのだ。
その時、女の口から「もうあんなブスと話さないで」なんて言葉が飛び出してきて、それが指しているのがなまえのことだと分かった左近のほうから有無を言わせぬ勢いで一方的に別れを告げたのは、後にも先にもその一度きりだろう。



兎角、左近にとっては恋人なんかよりも気の合うなまえであったり、同性の友人らと一緒に過ごすほうが圧倒的に楽しくて有意義な時間だったのだ。
その居心地良い関係を、たった今自分は打ち壊そうとしている。

そんな彼の緊張を知ってか知らずか、なまえの声が左近の鼓膜を振動させた。

「あれ、ほんとだ」

彼に指摘されて初めて気付きましたと言わんばかりにあっけらかんとした声が聴こえてきて、拍子抜けしてしまう。
自分が提示した条件をひとつひとつ指折り確認しだすなまえに、吟味されているような居心地の悪さを覚えた。

「なんやかんや紳士だし。趣味も話も気が合うし。軽いけど浮気は一回もしたことないでしょ。お金が絡む賭けはしない主義だし。背も確かに高いのよね。それに…」

自らの指先を眺めていたふたつの瞳が途端にじ、とこちらを見つめてきて、なんだか気恥ずかしい思いだった。
最後の条件に自分が当てはまるかどうかは、まぁ半ば冗談であったのだが。もう半分は他人の意見だ。
今まで友人だと思ってきたなまえからこうしてまじまじと観察されてしまうと顔に熱が集まってしまいそうで、逃げるように視線を逸らした。

「左近、…」

ぽつり、その名を改めて呼んだなまえが口元に手を当てれば簡単に形を変える唇にどきり、と心臓が小さく悲鳴を上げた。
化粧のものではない血色の良い頬や、長さと形だけ整えられた自然な爪であるとか、仕事終わりそのままの普段より綺麗めな服装だとか。
急に意識し出したなまえの"女"に、脈拍が速まっていく気がした。
どうして今まで気付かなかったのかと問われてしまうと、うまく言語化することは左近には不可能だろう。
ただ。派手なネイルや露出の多い服で着飾って、化粧品の匂いがして、何事にも我儘で、猫撫で声で甘えてくるような。
女とはそういうものだと思い込んでいたから。
明朗で飾り気なく、化粧は必要最低限で、遊びでも必ず左近の意見を尊重し、顔だけのジゴロを養ってしまうくらい自立しているなまえのことは。
単に一緒にいて気持ちのいい奴、だった。

今だってこんな騒がしい大衆居酒屋で飲んでいるが、過去の女達であれば雰囲気の良いバーなんかじゃなきゃ嫌だとゴネていた筈だ。
それに比べなまえはそんな我儘など一切言わないし、学生時代も夜中にラーメンに誘っても快く付き合ってくれた。糖質制限だのつまらないことを言わない。
こんな物分かりの良い女が、近くに居たというのに。
急速に回り始めた歯車に、それをせっ突いたのは左近だというのに、追い付けないのは彼自身だ。

柔らかそうな唇が動くのを見つめながら、左近は唾を飲み下した。

「…あんたよく見ると整ってんのね」

ほう、と吐き出された溜息が何を思っているのか分からないが、素直な口はまだ何か続けたいようだった。

「なんで気付かなかったんだろ」

俺もそれ、さっき同じこと思った。などと言える程自分の気持ちに整理がついていない左近は、照れ隠しから「なまえが馬鹿なんじゃん」なんて呼吸するように吐き出す自分の口を恨めしく思った。
子供のようだという自覚はしているし、過去にもこの軽口が幾度となく災いを呼んでくれたことを忘れたわけではない。
しかし。

「照れなくてもいいじゃない」

そんな彼の癖すら容易く見抜いてしまうような繊細さこそが左近の一番の理解者たりうる所以なのだと、改めて認識させられざるを得なかった。
子供を諌める親のような余裕ぶりを見せつけるなまえには、まるで歯が立たない。
左近は残り少ないビールを一息に飲み干した。

時計の針はもう終電には間に合わないと告げている。
明日は二人とも休日。こんなことは割と日常的なことで、学生時代ならば徹夜でカラオケやダーツなんかして過ごしたり、友人の家に押しかけていたわけなのであるが、果たして。

まぁそんなことよりも、これからどうやってなまえを陥落させるかのほうが大事だと密かに自らを奮い立たせて、左近は二人分の生ビールを追加注文した。

まつげ

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