冷蔵庫を開いて、みょうじは眉を顰めた。
昨日自分が綺麗に整頓し直したその中身が所々隊列を乱しているのに気が付いて、またそれらをひとつずつ元の場所へと押し込める。
彼女が満足する形でそれらが並列するのは、冷蔵庫が開け放しの警告音を発した頃であった。
ひとつ息を吐いて其れを閉じると、下段の冷凍室を開く。
たった今食そうとしていた目当てのアイスクリームの姿がそこから消えていて、彼女は項垂れた。

「またか…」

静かに開いた扉を閉じると、その背中に声が掛かる。

「おはよ〜なまえ…なにしてんの?」

能天気な声で欠伸をしながらそこに立っているのは、同居人の芦戸である。
癖毛についた一目で分かる明らかな寝癖を残したまま、たった今寝起きの彼女は涙目を擦っていた。
そんな芦戸の姿をみとめ、みょうじは寝起きの挨拶もほどほどに唇を尖らせて文句を言う。

「三奈、また私のアイス食べたでしょ」
「んー?……あー、食べたかも…」

何のことかと考えるような素振りをしつつどうやら記憶の中に思い当たる節があったようで、芦戸はへらへらとした顔で形だけの謝罪をする。
みょうじの不満は募るが、同居し始めた頃から芦戸の大雑把さは散見できたし、今となってはそれにも大分慣れてしまった。
初めの頃はそれでよく喧嘩ーといってもみょうじが一方的に機嫌を損ねていただけであったがーをしていたことを思い出す。
それらは偏に性格の違いによる差であるのだから、芦戸が投げ捨てたそのひとつひとつ総てをみょうじが拾い上げるのは不可能であるし非生産的だと判断して、彼女は匙を投げた。

「今日は休み?」
「そー!久々の完全オフ」

声高々に上機嫌を露わにする芦戸は、大学生の傍らヒーローとしても活動している。
遊ぶ時間などない筈なのに、気が付けばちゃっかり友人らと飲みに行ったり恋人とデートに赴くような、休みの日すら休まらない生活を送っている。
一人の時間を重要視するみょうじには信じられなかった。
一度、そんなにいつも誰かと一緒にいて疲れないかと聞いたことがあるが、彼女にとってはそれがリフレッシュになるのだそうだ。

洗濯機が止まったことを報せる音を聴きながら、芦戸の分の食事をダイニングテーブルに並べる。
そこへきちんと並べられた皿の上は、見た目の印象や派手好きな性格に相反して、納豆が好物である彼女に合わせた和食である。
鮭の塩焼き、ほうれん草のお浸し、出汁巻玉子、豆腐とわかめの味噌汁。そこに白米と、納豆パックがひとつ。

「いただきまーす」

その箸は既に出汁巻玉子を一切れ摘んでいて、掛け声と共に口に放り込まれる。
そんな芦戸の変わらぬ様子を横目にみょうじは二人分の洗濯物を干し始める。
この部屋で生活をし始めた頃は洗濯物も各々自分でやろうと決めた筈であったのに、芦戸はみょうじのランドリーボックスへ自分の洗濯物を構わず放り込むわ、仕分ければ芦戸の洗濯物は溜まっていく一方で結局総てみょうじがやるようになった。

ピンチハンガーには派手な柄物の下着の隣でシンプルな下着が揺れる。
その中の一つ、レースだけで装飾された黒の下着に目が付いた。
それはみょうじのものであったが、この数日箪笥から出した覚えはない。その理由もすぐ思い当たって、けれどもう慣れたことなので目を瞑った。
総て干し終えて見てみれば、下着に関わらずトップスやスキニーパンツなど、使用した覚えのないみょうじの私服がちらほら見られる。

芦戸はみょうじと私物を共有したがる。
芦戸がプリンを食べて、みょうじがティラミスを食べていれば、必ず一口交換しようと言う。
これくらいならどこにでもある風景だが、芦戸の其れはそこに留まらない。
日用品から化粧品は勿論、サイズが同じだからと衣服や靴まで時には無断で使用していく。
反対にみょうじが芦戸の私物を無断使用したことは一度もない。
流石にみょうじの恋人には手を出さなかったが、芦戸を同居人として紹介すると盛り上げ上手で人当たりの好い彼女に目移りしない男はいなかった。
だからといってみょうじが惨めな思いをしたことはない。
その度に芦戸が本気で怒って、みょうじを裏切らないからだ。
どうせ離れていく存在なら居ないのと変わらないからと、彼女は恋人を長いこと作っていなかった。

同じ大学に通う二人は、性格も友好範囲も趣味趣向も、何ひとつ重ならない。
同居していることを知った友人達からは変に勘繰られるが、寝室は別々であるし性的な関係があるわけでもなかった。
それでも二人が上手く生活していけるのは不思議なもので、みょうじは食器を洗いながらたった今食事を終えた芦戸を眺めるのだ。

「何か予定あるの?」
「それがなーんにもないんだよねぇ」

時計の針は午後2時過ぎを指していて、余ったおかずにラップをかけ冷蔵庫に収めると今日の家事が終わった。
椅子に背を凭れたままぼんやりと暇そうにする芦戸に髪を整えて歯磨きをするよう促すと、その足は素直に洗面所へと向かって行く。
その間に掛けていたエプロンをランドリーボックスへと入れて、みょうじは一纏めにしていた髪を降ろす。
自室へ戻り外着のスキニージーンズとノースリーブのタートルネックニットに着替えた。

「あれ、なまえ出掛けるの?」

ちょうど洗面所から戻ったらしい芦戸がみょうじの部屋を開け覗いている。
彼女に視線を送ると、箪笥の上に置いてあった車の鍵を揺らしながらみょうじは言う。

「三奈もだよ。支度して」
「デート!?やったー!」

両手を上げて感情を表現する芦戸は、ばたばたと忙しなく足音を立てながら自室へ走るとものの10分程で身なりを整えて出てきた。
化粧もばっちりしてあって、みょうじは先までテレビを見ながら40分掛けてだらだら食事をしていたのは何だったのかと尋ねたくなった。



目的は特にはっきりしていないが隣町の大型ショッピングモールなら映画館も併設されているので、みょうじと芦戸が出掛ける時は大体そこで落ち着く。
日曜日で渋滞する道すがら、車中ではアップテンポなダンスミュージックとバラードが交互に流されていた。
音楽の趣味の違う二人は、互いの好きな曲を一曲ずつ流す為のプレイリストまで作ってある。
今は芦戸の選曲で、ハンドルを握るみょうじは助手席で機嫌よく体を揺らす彼女をちらと見た。

普段なら30分で着く筈の目的地に、1時間かけて到着したが不思議と疲れはない。
駐車場へ車を停め、店内入口へと駆けていく芦戸はまるで子供のようで、みょうじは一歩下がって車が左右から迫っていないか確認する。

芦戸が購入するものは、どれもこれも派手なものばかりだ。
目につく限りでも、臍の見えるデザインのトップス、身体のラインが分かるタイトミニスカート、履くだけで足を攣りそうな8cmピンヒール。
自分が着たら服に着られるのではないかと思うほど主張の激しい色や柄に、成る程芦戸になら似合いそうだとも思った。
みょうじが2時間のショッピングで購入したのは薬局で安く売っていたシャンプーとトリートメントの詰め替えと、もうすぐ本格的に気温が下がってくる為に購入したフェイクレザージャケットくらいなものだ。
まだ店を周りたそうな芦戸の背を追いながら、大分疲れたみょうじはその背に声をかける。

「三奈ぁ、ちょっと休憩しない?」
「あ、ごめんごめん!つい楽しくなっちゃった」

カフェに入ると、みょうじは迷わずアイスコーヒーに決める。隣の芦戸はといえば、新作とやらに目移りして、あれもこれも美味しそうだと目を輝かせていた。
結局頼んだのは季節限定メニューで、生クリームが乗ったそれを彼女は幸せそうに飲む。
胃もたれしそうだなどという感想は胸にしまっておいて、みょうじは携帯端末に目を落とした。
調べたのは併設されたシネマの上映スケジュールで、なになに、と言いながら芦戸が画面を覗き込んでくる。

「これ観たかったんだよね」
「あー、ちょっと前にCMやってたね」

みょうじの目に留まったのはミステリー映画で、一ヶ月半程前に上映開始したものだった。
機会がなければ態々足を赴くほどではなかったが、小説が原作なので面白そうだと思って覚えていた。
が、向かいの芦戸はあまり興味が無さげで、確かにミステリー映画よりも画面が動くアクションか、恋愛映画なんかを彼女は好んでよく観ている。

「三奈は観たいのないの?」
「ん、なまえが観たいので良いよ。ほら、その…ホームズ?」

推理=ホームズって…。
ホームズなんて単語は一度も出ていないのに芦戸の口から出てきた短絡的な言葉に苦笑を洩らしつつ、みょうじは唸った。

「うーん、やっぱいいや。これ私原作読んだことあるから」
「そうなの?」

本当は読んでいないが、読書が趣味のみょうじが今までに読了した本のタイトルを把握などしていない芦戸には判る筈もなかった。
そうでも言わないと、流行りに敏感である芦戸が遠慮してしまうと思ってのことだ。
みょうじの思惑通り、そういうことならと芦戸は上映中の映画を確認し始めた。
あぁでもないこうでもない、散々悩んで彼女が指差したのは少女漫画原作の実写映画で、みょうじにとっては背中がむず痒くなってきそうなものだ。
けれど他に観たい映画もないし、芦戸が楽しめるのならとみょうじは頷いた。

「あ、」
「どうしたの?」
「これもう今日の上映終わってる」

みょうじの言葉に二人で顔を見合わせ、何がおかしいわけではなかったがどちらからともなく笑いが溢れた。

「また今度見に来よう」

映画の上映期間中にまた芦戸の休日が重なる保証はどこにもなかったが、芦戸の首が縦に振られる。
氷の溶け切って薄くなったアイスコーヒーを飲み干すと、芦戸の手中にあるカップはもう既に空だった。
それからまた二、三店舗だけ洋服を見てから帰宅することにした。

夜の車中には音楽は流れていない。
車のエンジンや走行音、風の音をBGMにして会話をしながら帰るのが二人の間では自然なことになっている。

「そういえば最近聞かないけど、彼氏さんとは会ってるの?」

つい二ヶ月前までは芦戸の口からよく聞いていた名前を、最近はめっきり耳にしていない。

「あぁ、別れたよ」

今までの芦戸の交際は長くて半年で、三年半一緒にいるみょうじのほうが付き合いが長い。友人付き合いはそれだけに留まらないが、恋愛に至っては全く長続きしなかった。

「へぇ、なんで」
「一緒に住みたいとか言われたけど、なまえと暮らすほうが楽しいし」

って言ったら振られた、と全く気にしている様子もなく言う芦戸にしかしみょうじは気にしないわけにはいかなかった。
今までの芦戸の破局理由のその殆どにみょうじが関係している事実に、少なからず本人はあまり良い気分ではない。
それきり口を閉ざしたみょうじに、芦戸は構わず話を振る。どれもこれも同意を求めるだけの簡単な問答ばかりで、彼女が再度口を開いたのは前の赤信号で停車した時だった。

「ねぇ三奈、一緒に暮らすのやめない?」

芦戸の大きな黒目がみょうじを向くが、彼女は動きを止めたテールライトを見つめるばかりだ。

「どうして急にそんなこと言うの?」
「急じゃないよ、…ずっと考えてた」

それは事実だ。そのうち芦戸にも自分より居心地良い人が現れるだろうと楽観していたのは二年目くらいまでで、とりわけこの一年半の間は特に、恋人の入れ替えが激しくなっていた。
にも関わらず彼女の隣には必ず誰かがいたのに、今は全くのフリーだ。

「春には卒業だし、いつまでもこのままはさ…無理だよ」
「嫌だよ、私なまえと一緒がいい」

子供が駄々をこねるように芦戸はみょうじに詰め寄るが、やはり彼女は前方を眺めている。
本当は、彼女も芦戸と暮らして居たいに違いなかった。けれどそう言えば、きっともうやめられなくなってしまう。

「…三奈は、さ。…私と違って人気者で、ヒーローで、友達多くてさ。彼氏出来ても三奈を好きになっちゃうし……惨めになる。苛々するんだよね」

嘘だ。けれど半分は本当のことだった。

「……なまえ、嘘ついてる」

芦戸にはすぐ判った。隠し事をする時、みょうじは目を見ようとしない。
二年前の芦戸の誕生日、サプライズを計画したみょうじの態度が妙に素っ気なくて、それが隠し事をする時の癖だということを知った。
彼女は嘘をつくのが下手だ。無理に笑顔をつくるのも苦手で、手先は器用なのに殊に人付き合いに関しては不器用過ぎる。
けれど誰よりも優しい人であることを芦戸は知っていた。
誰よりも近くで見ていたからこそ、気が付いた。

頑なに前を見つめるみょうじの顔を無理矢理に自分のほうへ向けさせれば泣きそうな瞳がゆらめいて、芦戸は思わず笑みを溢した。

「私のこと大好きのくせに」

信号が青に変わっても動かない軽自動車に、後方車両からは激しいクラクションが鳴らされるのだった。

CO2に溺れて

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