もう何度されたか判らない問題の空欄を埋めると、みょうじは筆記用具を手放した。
用紙の上で80°転がったシャープペンシルは、クリップがストッパーとなって動きを止める。
彼女の体温を失ったプラスチックの様子には目もくれずに、丸まった背中を正そうと伸びをすると向かいで机と向き合うクラスメイトの姿が視界に入った。
身長の高い背中は姿勢良く天井にまっすぐ伸びて、視線はノートに回答を示す鉛色へと落とされる。たった今、罫線に平行になるよう書き込まれたその字は止め跳ねまで几帳面に意識されていて見本のように綺麗だった。
ふと自分の書いた字と見比べてみるが、雑で適当なふにゃふにゃの線は、止め跳ねはおろか「は」と「ほ」の区別すら危うい出来だ。
大きく骨ばった男の手に握られた筆記用具の持ち方ですら綺麗で、そのコントラストが面白くも思える。
平行に白を横切っていく罫線の上で、たった一本斜めを描くように投げ捨てられたシャープペンシルを手に持ち直して彼の指の形を真似てみようとするが、長年染み付いた手癖は手本のような形に違和感を訴えていた。
皺ひとつない学校指定の白シャツから伸びた筋肉質な腕。透明なレンズの向こうで伏せられた瞼が瞬くのと同時に睫毛が揺れた。
その様子を暫くぼんやりと眺めていたみょうじを、徐ろに相手が視界に入れる。
「俺の顔になにかついているのか」
その表情には疑問というよりも咎めるような色が含まれていて、まだ課題の三分の一も終わっていない問題集を指差した。
「みょうじくん。きみが勉強に付き合ってくれと言い出したんじゃないか」
飯田くんと一緒なら捗るような気がするから。と言った45分前のみょうじの予想がもう既に外れていることを注意する。
雄英高校のだだっ広い図書室内のテーブル席。その周囲には誰もいないが、飯田の声は極力抑えられている。
彼の生真面目さを評価しつつ、みょうじ本人はそんなことを全く気にせず声を発した。
「さっきまではやる気あったんだよ。さっきまでは」
「それじゃ意味ないだろう」
呆れたように溜息をつく飯田の顔を眺めながら、みょうじはやる気のない弁明を始める。
「いやさ、飯田くんのこと見てたら集中できなくて」
「なぜだ」
本当に疑問でその理由を知りたいという飯田の口振りに、みょうじはけろっとした顔で答えた。
「かわいいから」
「可愛い?」
俺がか。
何を言っているのか全く解らないというように眉を顰めた飯田も、言葉の意味なら簡単に分かる。
自分のどこを見てそう言っているのかと聞く彼に、みょうじは見た目の話じゃないよ、と教えてやった。
「わからんな」
釈然としない様子の飯田に、ひとつずつヒントを開示していく謎々のようにみょうじは口を開く。
「私がかわいいと思ったらかわいいのさ」
至って自分本位なその回答に、しかしみょうじの感情や思考は彼女の主観によるものであるのだから否定は出来ない領分だと判断して、飯田は頷いた。
「ただ俺としては、可愛いと言われるのはあまり嬉しくない」
それは性別云々というより、他人からの評価だとかいう話よりもずっと個人的な理由で、勉強そっちのけで言葉遊びを始めた目の前のクラスメイトから下されたい評価のことだ。
これも飯田の個人的な主観による願望であったが、みょうじが先にひとつ主観で述べた為に自分も主観で返すことにした。
「そっか。…うーん、でもそうだね」
飯田の本音に対しみょうじはあっけらかんとして返すが、しかし未だ彼のかわいさを本人に説きたい様子のみょうじは「例えば」と切り出す。
「たまに素が出て"僕"って言っちゃうとことか」
「…なっ、」
意識して学校では一人称を変えていることを指摘されるが、飯田にはそれ以外にも"俺"を使用している理由がある。
一瞬其れを指摘されたのかと動揺したが、どうやらそうではないらしいことを察して心を落ち着ける。
それにしても意識していることを他者から指摘されるというのはそれだけで気恥ずかしいもので、飯田は誤魔化すようにこほんと咳払いをした。
「それは、…あまり言わないでくれ」
「んふふ」
何が嬉しいのか、はたまた彼をからかうのが楽しいのか、みょうじはにんまりと口元をつり上げて満足げに腕白な笑みを浮かべる。
その子供っぽい弓形の眼を見ていると、理由などなくとも飯田に笑みが伝染する。
その途端テーブルに手をついて身を乗り出した彼女が飯田との距離を詰めて、それは唇を中点としてゼロになった。
一秒か二秒、あるいはもっと短い一刹那。
触れ合った感触はその温もりが離れても余韻として残って、暫く呆気に取られていた飯田が反応を示したのはみょうじが着席した後だった。
「…い…一体みょうじくん何を…」
「何って、キス」
「なっ、ななななぜ」
「かわいいから」
見る見るうちに顔を赤くして耳まで林檎のように熟れた飯田の頬をつつきながら、ホラかわいい。と平然としているみょうじの態度に、飯田は戦慄いた。
「…っ、からかわないでくれ!」
テーブルの上で握りしめた両拳が微かに震えているのを見つけて、彼女の華奢な手が重ねられる。
ぴくりと跳ねる肩と同時に彼の目がみょうじを睨むと、愚直なまでに真っ直ぐな瞳が飯田を捉えた。
「好きだからかわいいんじゃん」
次の瞬間ふわりと真顔を崩したみょうじに、飯田はまたも呆然とさせられる。
握りしめた自身の拳は、いつの間にか力が抜けていた。
「それは、どういう…」
答えを求める飯田の声に、みょうじはただ自らの唇へ人差し指を当てて静粛にするよう求める。
平行線だけが敷かれた真っ白な頁の片隅に何やら書き込むと、それは飯田の前へ滑り込んできた。
以下の問いに答えよ。
Q.付き合って下さい。
止め跳ねなど知らぬと言わんばかりの雑な字形。
罫線など全く無視して右肩上がりに傾いた文字の羅列に平行になるように、彼は回答を書き込んだ。
用紙の上で80°転がったシャープペンシルは、クリップがストッパーとなって動きを止める。
彼女の体温を失ったプラスチックの様子には目もくれずに、丸まった背中を正そうと伸びをすると向かいで机と向き合うクラスメイトの姿が視界に入った。
身長の高い背中は姿勢良く天井にまっすぐ伸びて、視線はノートに回答を示す鉛色へと落とされる。たった今、罫線に平行になるよう書き込まれたその字は止め跳ねまで几帳面に意識されていて見本のように綺麗だった。
ふと自分の書いた字と見比べてみるが、雑で適当なふにゃふにゃの線は、止め跳ねはおろか「は」と「ほ」の区別すら危うい出来だ。
大きく骨ばった男の手に握られた筆記用具の持ち方ですら綺麗で、そのコントラストが面白くも思える。
平行に白を横切っていく罫線の上で、たった一本斜めを描くように投げ捨てられたシャープペンシルを手に持ち直して彼の指の形を真似てみようとするが、長年染み付いた手癖は手本のような形に違和感を訴えていた。
皺ひとつない学校指定の白シャツから伸びた筋肉質な腕。透明なレンズの向こうで伏せられた瞼が瞬くのと同時に睫毛が揺れた。
その様子を暫くぼんやりと眺めていたみょうじを、徐ろに相手が視界に入れる。
「俺の顔になにかついているのか」
その表情には疑問というよりも咎めるような色が含まれていて、まだ課題の三分の一も終わっていない問題集を指差した。
「みょうじくん。きみが勉強に付き合ってくれと言い出したんじゃないか」
飯田くんと一緒なら捗るような気がするから。と言った45分前のみょうじの予想がもう既に外れていることを注意する。
雄英高校のだだっ広い図書室内のテーブル席。その周囲には誰もいないが、飯田の声は極力抑えられている。
彼の生真面目さを評価しつつ、みょうじ本人はそんなことを全く気にせず声を発した。
「さっきまではやる気あったんだよ。さっきまでは」
「それじゃ意味ないだろう」
呆れたように溜息をつく飯田の顔を眺めながら、みょうじはやる気のない弁明を始める。
「いやさ、飯田くんのこと見てたら集中できなくて」
「なぜだ」
本当に疑問でその理由を知りたいという飯田の口振りに、みょうじはけろっとした顔で答えた。
「かわいいから」
「可愛い?」
俺がか。
何を言っているのか全く解らないというように眉を顰めた飯田も、言葉の意味なら簡単に分かる。
自分のどこを見てそう言っているのかと聞く彼に、みょうじは見た目の話じゃないよ、と教えてやった。
「わからんな」
釈然としない様子の飯田に、ひとつずつヒントを開示していく謎々のようにみょうじは口を開く。
「私がかわいいと思ったらかわいいのさ」
至って自分本位なその回答に、しかしみょうじの感情や思考は彼女の主観によるものであるのだから否定は出来ない領分だと判断して、飯田は頷いた。
「ただ俺としては、可愛いと言われるのはあまり嬉しくない」
それは性別云々というより、他人からの評価だとかいう話よりもずっと個人的な理由で、勉強そっちのけで言葉遊びを始めた目の前のクラスメイトから下されたい評価のことだ。
これも飯田の個人的な主観による願望であったが、みょうじが先にひとつ主観で述べた為に自分も主観で返すことにした。
「そっか。…うーん、でもそうだね」
飯田の本音に対しみょうじはあっけらかんとして返すが、しかし未だ彼のかわいさを本人に説きたい様子のみょうじは「例えば」と切り出す。
「たまに素が出て"僕"って言っちゃうとことか」
「…なっ、」
意識して学校では一人称を変えていることを指摘されるが、飯田にはそれ以外にも"俺"を使用している理由がある。
一瞬其れを指摘されたのかと動揺したが、どうやらそうではないらしいことを察して心を落ち着ける。
それにしても意識していることを他者から指摘されるというのはそれだけで気恥ずかしいもので、飯田は誤魔化すようにこほんと咳払いをした。
「それは、…あまり言わないでくれ」
「んふふ」
何が嬉しいのか、はたまた彼をからかうのが楽しいのか、みょうじはにんまりと口元をつり上げて満足げに腕白な笑みを浮かべる。
その子供っぽい弓形の眼を見ていると、理由などなくとも飯田に笑みが伝染する。
その途端テーブルに手をついて身を乗り出した彼女が飯田との距離を詰めて、それは唇を中点としてゼロになった。
一秒か二秒、あるいはもっと短い一刹那。
触れ合った感触はその温もりが離れても余韻として残って、暫く呆気に取られていた飯田が反応を示したのはみょうじが着席した後だった。
「…い…一体みょうじくん何を…」
「何って、キス」
「なっ、ななななぜ」
「かわいいから」
見る見るうちに顔を赤くして耳まで林檎のように熟れた飯田の頬をつつきながら、ホラかわいい。と平然としているみょうじの態度に、飯田は戦慄いた。
「…っ、からかわないでくれ!」
テーブルの上で握りしめた両拳が微かに震えているのを見つけて、彼女の華奢な手が重ねられる。
ぴくりと跳ねる肩と同時に彼の目がみょうじを睨むと、愚直なまでに真っ直ぐな瞳が飯田を捉えた。
「好きだからかわいいんじゃん」
次の瞬間ふわりと真顔を崩したみょうじに、飯田はまたも呆然とさせられる。
握りしめた自身の拳は、いつの間にか力が抜けていた。
「それは、どういう…」
答えを求める飯田の声に、みょうじはただ自らの唇へ人差し指を当てて静粛にするよう求める。
平行線だけが敷かれた真っ白な頁の片隅に何やら書き込むと、それは飯田の前へ滑り込んできた。
以下の問いに答えよ。
Q.付き合って下さい。
止め跳ねなど知らぬと言わんばかりの雑な字形。
罫線など全く無視して右肩上がりに傾いた文字の羅列に平行になるように、彼は回答を書き込んだ。
如何の問いに答えよ