放課後のHRの時間。担任の相澤が教壇の隅に立って必要事項だけを簡潔に生徒達へ連絡していた。
「そんじゃ」
解散。そう続けようとした時、不機嫌そうな雲に覆われた空が地響きにも似た低音を轟かせた。

「きゃっ」

一斉にクラスメイト達の視線がその声の主に集まる。
その短い悲鳴と共にびくりと大袈裟な程肩を震わせ耳を塞ぐように頭を抱えるのは、普段の感情を表に出さないみょうじとはまるで別人だった。
過剰なほど雷鳴に怯える姿を見て、相澤は今まで戦闘訓練で見ていたみょうじの不可解な行動に合点がいったような気がした。
みょうじは明らかに上鳴を避けている。
自覚があるのか、無自覚なのかは本人にしか分からないが、戦闘訓練で上鳴を相手にする時だけ必要以上に間合いを取ろうとして防戦一方になってしまうのが目に付いた時から、相澤はそれを確信していた。

「大丈夫か」

無感情に掛けられた相澤の声に、はっと現在の状況を思い出したみょうじは落ち着き払ったいつもの声で居心地悪そうに「すみません」と謝罪した。いや、いい。後頭部をひとつ撫で付けてから、相澤は先ほど言い損ねた言葉を発した。



HRの終了後すぐ教材をリュックに詰めて下校準備を始めるみょうじの背を遠慮がちに見る人物がいた。彼女の後方左斜めの席に位置する上鳴である。
以前より、もしかしたら"そう"なのではないかと推測しては居たのだが、やはりみょうじから避けられていると上鳴は感じていた。
教室でも、何故か自分が横を通り抜けるだけでみょうじの肩が揺れるのだ。
初めて挨拶を交わした時から、あまりに警戒され過ぎているような感触はあった。
よろしくと差し出した手。彼女の揺れる瞳に宿された数秒の逡巡ののち、彼女の華奢な手が合わされる事は遂になかった。
何度か何気ない会話をしようと試みてはみたもののいつも目を合わせて貰えず、他のクラスメイトとは至って普通に会話をしているところを見ると、どうやら自分だけ苦手意識を抱かれているようだと判った。
特別なにか気に障ることをした覚えは無かったが、先ほどの出来事から、さして学力が高くはない上鳴にもある程度の推察はついた。
上鳴がみょうじから避けられているのは、自分ではどうしようもない持って生まれた個性由来のものであったのだ。
少々物寂しい気持ちにもなったが、上鳴はそういうことならと、もう一度だけ彼女との接触を試みようとした。

「みょうじ」

身体を強張らせるみょうじに、やはりかとほんの少し肩を落とす上鳴だったが、思いのほか精神的に食らったダメージの大きさに我ながら驚きが隠せずにいた。
恐る恐るといった表現があまりに似合い過ぎるほどゆっくりとその双眸は上鳴を振り返り、視線がぶつかり合ったと思えば彼女のそれは床に落とされた。

「あのさ、一緒に帰んない?」
「え……」

いつも一緒に帰っている耳郎の席を見たがそこにはもう姿はなく、みょうじは彼女が昼食時、「用事があるから今日は先に帰る」と言っていたのを思い出す。
今まで散々避けてきた相手に、急に一緒に帰ろうなどと誘われてどうしたら良いのかと考えを巡らした。
それでも上手い断りの文句が思い付かず、それに何より、未だ機嫌の悪い空はまたいつ咆哮するか判らなかった。みょうじにとって、たった今共に下校しようと誘ってくれた上鳴の存在は一人よりはずっと心強いことだろう。
ちらと上鳴の顔を覗き込むように伺うと、不安の色を浮かべた瞳がこちらを見詰めていて、みょうじは控えめに応の意を示した。



傘立てに差しておいた透明なビニール傘を引き抜いて広げた上鳴は、隣を気にする。
リュックから折り畳み傘を取り出して柄を伸ばすみょうじがたった今広げた其れは、淡い赤色のギンガムチェックで、なんとなくモノトーンの私物をイメージしていた上鳴にとっては意外な発見である。

下校途中や通学時に何度か同じ電車で見掛けたことがあった為、みょうじの自宅が自分と同じ方面であることだけは把握していた。
先程から一定の距離を保って濡れた歩道を会話もなく歩いていく。傘と雨がぶつかり合う継続的な音に混じって、浅い水溜りを踏みつければぴしゃりと跳ねるような音がした。
誘ったからには何か話さなければ。けれど、何を話せば。自分のことを避けていたのは雷が怖いからか、などと直球に聞いて良いものか上鳴には判断がつかなかった。
雷だけに留まらず電気系個性を持つ自分にすら近寄り難いほどの恐怖心とは、異常性を感じざるを得なかったからだ。

ちらと隣の彼女を覗き見た時、前方からトラックが走ってくるのが見えた。あまり広い道ではないというのに、その速度は緩められる気配がない。
ガードレールがあるとは言え、車道側を歩いていたみょうじが車輪に跳ね飛ばされた雨水を被る可能性を危惧した上鳴は、咄嗟にその肩を自分のほうへと抱き寄せた。
勢いの良いトラックは案の定、水飛沫を上げて過ぎ去って行く。そこで漸く上鳴は、みょうじの青ざめた顔に気が付いて手を離した。

「ご、ごめん!」

ううん、私こそ。その声はあまりに弱々しく、やはり自分は誘わなければ良かっただろうかと後悔した。
離れようとする体温が名残惜しく思えた。
そんな上鳴の思いが届いたのか、シャッターが切られたかのように空が閃光すると獰猛な咆哮が轟いた。
今度は悲鳴こそあげはしなかったが、先程まで手にしていた折り畳み傘は瞬間地面へと放り出され、人肌を求めるように上鳴に縋り付くみょうじは未だぎゅっと固く目を閉ざして震えている。
あ、睫毛なが。
本来ならば目の前で女子が恐怖に震えている時に思うようなことではないのかもしれないが、上鳴の頭に真っ先に浮かんだのはそんな呑気な感想であった。

みょうじは目立つことは少ないが、これといって悪いところの見当たらない優等生だ。筆記試験では毎回五本の指に入り、頭が切れる為チーム戦では特にその頭脳を使って皆の個性を活かす策略家。
普段は、クラスメイトでもあまり男子と親しげに話しているところは見かけない。耳郎と仲が良くていつも一緒にいる。直接見たことはないが稀に見せる笑顔がかわいいと瀬呂が言っていた。登下校時はよく同じ電車で見掛ける。
それから、かみなりが苦手。

みょうじについて上鳴が知っていることと言えば、それくらいだった。
今まで避けられていた自分がこの瞬間頼りにされている。そんな状況に少なからず愉悦を感じている自分に気が付いて、心臓がどくりと大袈裟に脈打ち始めるような気がする。
彼女の瞳からはきらりと光る雫が今にも溢れ落ちようとしていた。
其れはみょうじの整った下睫毛が最後の足掻きをしてぎりぎり踏み留まっていたに過ぎず、事実次の瞬間には重力に勝てず右の頬を伝って落ちた。
けれど左の頬にはいくら経っても涙が伝う感覚は与えられなかった。
その代わりに左眼を目掛けて落ちてきた影に反射的に瞼を閉じたみょうじであったが、その正体が一体何なのか理解したのは左瞼への温い感触と重みが離れ、ゆっくりと瞬いてからであった。
事態に頭の整理が追いつかず、もう一度瞬きをした。目の前にいる、苦手だった筈のクラスメイトから向けられる熱い視線に、濡れた唇に気が付いて鼓動が速くなる。つい火照ってしまいそうな頬に、堪らずみょうじは上鳴から逃げ出した。

呆然と走り去って行く彼女の背を見詰めつつ、いつの間にか止んでいた雨にふと空を見上げる。
忘れ去られた淡色の折り畳み傘を拾い上げた上鳴は、明日からもまた避けられる日々が続くことを思いながらも自然と綻んでしまう口許を隠すのだった。

雲翳りの向こうから

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