親指の腹で押し上げるたびにカチリカチリと音が鳴る。スライダーを固定すると、柔らかな白い肌に赤の一筋が浮かび上がった。
空気に触れた傷口から滲んだ生温い液体が伝ったとき、内側の取手が取り外された扉が開いて灯りひとつない部屋に月明かりが差し込んだ。
来訪者の存在に気付くとまだ幼い少女は大きな瞳を煌めかせて玄関口に駆け寄る。

「おねえちゃん…!」

開いた扉の向こうから現れた制服姿にしがみ付くと、耳の高さで両サイドに結わえられたシニヨンから無造作に跳ねた髪が揺れる。
"おねえちゃん"と呼ばれた少女は八重歯を見せて目を細めた。

「いい子にしてましたか?なまえちゃん」



茜色に染まった教室の一席に腰掛けたまま、なまえはただ夕陽を眺めていた。
就業を報せる鐘が鳴ってから一時間は経っていたが、未だ力の入らない脚は雑に投げ出したままだ。
完全下校の鐘が鳴るまであと残り僅か。壁掛け時計を一瞥しながら溜息を吐く物憂げな表情は、まるで十一歳の少女のそれではなかった。
机に手をついて気怠げに腰を上げ、拒む脚に体重をかける。机の上に置いていたランドセルの中に、本日配布された書類と暗色をした簡素な筆箱を詰め込むと肩に背負う。
中身はほぼ空だというのにずっしりと重たく感じるのは、彼女の鬱々とした気分のせいだ。

この放課後の時間が、少女はなによりも嫌いだった。強い西陽に当てられながらその実、一層濃く長く地面に伸びた影は彼女そのものである。
慣れた道順で進む帰路は代わり映えがなく退屈で、けれどその憂鬱な帰り道に在るただひとつの細やかな楽しみはといえば、電気屋の表に置かれたテレビを眺めることだった。
今日も彼女は店先で立ち止まって、五分の短なアニメーションをその瞳に映した。
画面の中の時刻が17:59から18:00に移り変わる頃、それは報道番組に切り替わる。
何処其処でヒーローが事件を解決しただのというニュースを目にするたび、彼女にはそれがどこか別の世界での出来事のように思えてならなかった。

ヒーローなんて嘘つきだ。

野晒しのテレビを店主が店内に仕舞い始める頃、彼女はまた家への道を歩き出す。
一軒家の閉ざされたカーテンの隙間からは灯りが漏れていて、車庫に納められた自動車の横を彼女は通り過ぎる。
ポケットから取り出した鍵を差し込んで玄関扉のノブに手を掛けると、小さな声は自らの帰宅を主張した。

リビングを覗き込むと、姿勢良くキッチンに立つ母親の姿が目に入る。ダイニングテーブルでグラスを握る父親がこちらを向いた瞬間、彼女の足裏は床に縫い付けられたかのように動けなくなった。
鋭い双眸が睨みを利かせて琥珀色を煽ると、氷がからりと鳴るのがまるでなにかの合図のようで、少女は肩を震わせる。
いつものように不機嫌な足取りでこちらへやって来る大きな体躯は、少女目掛けて拳を振りかぶった。



お父さんがヒーローだなんて羨ましいわね。

近所でよく見かける顔に言われた言葉に、なんと返したのだったか。
まだ開けぬ夜を自室の窓から眺めながら彼女は物思いに耽る。ヒーローの父親を誇らしく思っていた自分もどこかには居たのかもしれないが、それはきっともう遠い昔の話。
いつからだったかは定かでないが、ヒーローとして活躍する一方で彼女の父親は仕事の鬱憤を酒に酔うことで発散していた。
初めこそ家族に手などあげなかったが、次第に泥酔するまで飲むようになり、暴言を吐き散らすようになり、そして母親を殴るようになった。

日に日に痣が増えて行く母が涙を流して謝るのを、彼女は毎日怯えた瞳で見ていて。
ある時、母親に当たるだけでは気が収まらなかったのだろう父親はなにかとんでもない名案を思いついたとでも言うかのように、彼女を甚振り始めたのだ。なぜなら。
彼女の個性は一晩寝れば傷も痣も忽ち癒えてしまう"超回復"だった。
さすがに折れた骨までは一晩で治らなかったが、それに目を付けた父親はそれから暴力の対象を彼女に変更して毎晩気を失うまで殴り続けていた。

彼女にとって家というのは休まるところのない地獄のような場所だ。
父親の暴力を証明する立場である彼女自身が証拠を隠蔽しているのであるから、誰も虐待になど気付くわけがなかったのだ。

今日は、気を失う振りで乗り切ることが出来た。眠らずに朝を迎えることが出来たならきっと何かが変わると信じて、彼女は腫れた瞼を押さえる。
新聞配達員が朝刊をポストに投函して行く音が聞こえて来ると、それと同時に悪夢の再来を告げる音が聴こえた。

がちゃり。
扉が開くと同時に廊下の灯りが射し込む。やはり今日もなにひとつ変わりやしないのだ。絶望を宿した瞳は、しかし次の瞬間大きく見開かれた。

「こんばんはぁ。迎えにきたよ、なまえちゃん」

赤い液体に白い肌を汚して、少女の前に現れたのは"ヒーロー"だった。



救世主の名は渡我被身子という。
対象者の血液を摂取することで変身できるという個性を持つ彼女は、少女の母親になって父親を殺し更に自殺に見せかけて母親を殺害した。
どれほど酷い暴行を受けていたとはいえ、血の繋がった両親を一息に失った穴を埋めるようになまえは自らを救った存在に全てを委ねることにしたのだ。

葬儀を終えた後、表向きは遠い親戚に引き取られたとされている彼女は、渡我に与えられたこの部屋で日々を過ごしている。
最低限の設備以外には何もない殺風景な部屋。窓はビニールシートで覆われ、内側からは外へ出られぬよう取手が取り外されたワンルーム。
其処は誰に侵されることのないなまえの砦だったが、たった一人渡我だけが足を踏み入れることの出来るふたりぼっちの城だった。

なまえの細い腕に無数の傷が刻まれているのを見つけると、渡我は吸い寄せられるように唇を這わせる。
リップ音と共に染まって行く彼女の唇を彩っているのが他ならぬ自身の一部であるという事実に、胸が満たされて行くのを感じながらなまえは擽ったいとはにかんだ。
渡我に触れられれば、不思議と痛みすらこそばゆく感ぜられてしまうのだ。

唇で舌で一頻り傷跡をなぞったあと、渡我は薄い小さな唇にかぶりついた。
漂う鉄の匂いに頭が痺れてしまいそうになるのは、それがなまえのものだから。舌先に触れる血液すら甘美に思えるのは、自分の好みに必死で合わせようと朝から晩まで傷を作っている幼気な彼女のものだからだ。

渡我が初めて少女を目にしたのは、日暮れの公園。ブランコを漕ぐ孤独な背中が目に付いてなんとなく遠目に眺めていた。
物憂げに地面を見つめていた瞳が急に上向いて、ブランコを勢い付けて立ち漕ぎし始めたかと思えば少女は思い切り自分の身体を投げ出した。
受け身も取ろうとせずに地面に打ち付けられた姿は、まるで車に轢かれた猫の死骸だ。
立ち上がって、まだ何か足りないらしい彼女は何度か同じことを繰り返していたが、やがてブランコを漕ぐことも出来ないほどぼろほろになって、それこそ死骸のように地面に這いつくばっている姿が渡我の目に焼きついたのだ。
日が落ちて周囲が暗かったから誰も気が付かないかもしれないと、渡我は公衆電話から通報だけしてその場を立ち去ったが、名も知らぬ少女のことを思うと胸が高鳴った。
身体もボロ雑巾のようだったが、それ以上に彼女の心が痛いほどにぼろぼろで、あの憐れな姿を思い出すたびに高揚した。

これが俗に言う一目惚れだと自覚したのも早いもので、相手が同性であることや、子どもであることなど渡我には取るに足らないことであった。
彼女のことを知ってゆく内、ヒーローの父を親に持ち、しかもそれが人知れず娘に暴力を振るっているというのだからそれを利用しない手はないと考え、そして排除したのだ。
決して、なにも悲惨な家庭環境に同情してヒーローよろしく救ってやろうなどという考えは渡我の頭には一ミリもなかった。
ただ、なまえの世界には自分一人だけで充分だったから。彼らは渡我となまえとの間には不必要なものであったから。

そんなエゴイズムの結果として、少女はいま渡我の手中に収まってしまっている。
彼女が用意した食物を口にして、彼女が宛てがった衣服を身に付け、この狭い部屋の中でひとり主人の帰りを待つペットのように、毎日彼女の帰りだけを待ち望んでいる。
ここでは善も悪も白も黒も無意味に等しい。
渡我が彼女のすべてで、なまえが彼女のすべて。
身勝手な法で築き上げた城の中、ふたりは歪な愛の夢に微睡んだ。

天使は今宵檻の中

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