吐く息は白く、頬は微かに上気しているが触れてみれば冷んやりとしていた。体温を失った耳は氷のように冷たく、それはありふれたいつも通りの師走の朝のことだった。
空が白み始める頃、毎朝続けているランニングを終えて自宅マンションへと帰って来た。ライフワークの一貫、ポストを確認すると一通のエアメールが目に付く。差出元は日本からだ。
普段日本からの連絡は電子メールなどでやり取りをしている為、その手紙を物珍しく見つめる。
差出人を確認しようと、丁寧に記されたブロック体のアルファベットに目を落として、瞬間息が詰まるような想いが押し寄せた。



7年前の秋のことだった。
A組の面々が己の進路を固めている中、みょうじだけは最後まで進路が定まらず決めあぐねていた。そんな彼女を見兼ねてか、担任の職務としてかは判らないが、その頃は毎日と言って良い頻度で放課後は相澤から進路相談という名の説教を食らっていたのだった。

「みょうじ。もう9月下旬だぞ」
「はい………」
「おまえならどこでもやってけんだろ」

何を迷っているんだ。そう言いたげに彼女を見遣る相澤の瞳は、その頃のみょうじにとってはまるで訊問でもされているかのように居心地が悪く感じられた。進学も就職も、近い未来だというのにヴィジョンが何ひとつ見えずにいた。
ヒーローになる為三年間しっかり学んで来たが、同級生たちと同じように活躍する未来は、みょうじには想像が付かなかった。
暫く口を開けずにいると、たまたま進路相談室を通り掛かる人影が扉の隙間から顔を覗かせた。

「おいおいイレイザー。そう怖い顔してたら話せるもんも話せねぇだろ」
「…マイク。勝手に覗くな」
「なら鍵掛けとけよ」

ハッハと陽気な笑い声を上げる山田を、その時までみょうじは色眼鏡で見ていた。ヒーロー業の傍らラジオDJも務める上に高校教師という三足の草鞋。器用な人なのだろう。眉を顰める相澤に構わず話し続ける空気の読まなさ。少しは自分も見習った方が良いのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、それじゃそろそろ行くわ。と山田は告げながら、思い出したようにみょうじを振り返った。

「世界は広いぜ、女子リスナー」
「…せかい」

そんなきっと何の気なしに投げ掛けられたたった一言で、みょうじは天啓を受けたかのように心が軽くなった。



学生寮の一階広間に集まり雑談をする数人の輪の中にみょうじの姿は在った。
切島、芦戸、爆豪が各々ソファに腰掛ける中、話題はみょうじの進路の話に移りかけていた。そんな時上階から降りて来た人影は会話に気が付き、耳をそばだてて声を拾おうとした。

「そういやみょうじ、おまえ進路決まったのか?」
「うん。まぁね」
「えっ気になる教えてー!」

テーブルに身を乗り出して向かいのみょうじに顔を近づける芦戸に、みょうじは少々答えづらそうにしながらも続ける。

「アメリカの事務所受けるよ」

え、という秘かな驚嘆を含んだ声は、磁器と床がぶつかり合う音と共にみょうじの耳へと届いた。
彼女が階段の方を振り返ると、そこには慌てふためく麗日が居た。その姿を認めるとみょうじはすぐさま駆けて行き、手と足元を見て怪我のないことを確認する。

「麗日!大丈夫?怪我はない?」
「う、うん…!ぜんぜん大丈夫!」

少し困ったようにはにかむ麗日に、みょうじはほっと胸を撫で下ろす。彼女に対してみょうじがここまで気を遣うのは、並みではない感情を抱いているからであった。
気を利かせた芦戸が箒と塵取りを手に壊れたティーカップを掃き集めて行く。「ほんまにごめん…」と謝罪する麗日に対して、芦戸は全く気にせぬ素振りで快活に返事をした。

「けどまぁ驚くのも無理ねぇよ。な、爆豪だって正直驚いたろ」

話を振られた本人は、暫く仇でも睨み付けるかのような鋭い眼をみょうじに向けていたが、ふん、と鼻を鳴らすと乱暴に立ち上がり自室へ向かってしまった。素直じゃねぇ奴、とその背に向けて苦笑する切島だったが、みょうじに向き直ると「俺、応援してっからよ。頑張れな」と清々しい程爽やかな言葉を投げ掛けた。
夜も遅く解散するといって芦戸と切島は先に自室へと戻って行くが、部屋へ戻ろうとする気配なく未だコーヒーカップを啜っているみょうじの隣に足を抱え込むようにして腰掛け、麗日が口を開いた。

「なまえちゃん、アメリカ行っちゃうんだ…」

麗日の落胆に満ちた声音に、嬉しいような寂しいような感情がみょうじの胸を覆って行く。二文字で短く肯定すると、「死ぬ訳じゃないよ」と彼女にしては珍しい軽口を叩いた。そんな言葉にふっと顔を綻ばせた麗日に、みょうじも同じように静かに微笑んだ。

「なまえちゃんなら絶対、どこでだってなれるよ!みんなを救けるヒーロー!わたしが保証する!」

笑って拳を前に突き出した麗日の激励に、みょうじは胸が熱くなるのを感じた。その熱は徐々に上昇してはみょうじの喉を締める。視界がぼやけ始めたと思えば、頬に生温い感触が伝っている。隣で動揺を隠せずにいる麗日の頭に手を置いて、みょうじは精一杯明るい声で努めた。

「ありがと。麗日が言うなら絶対だ」



つい一週間前までは肌を刺すような寒気に包まれて居たにも関わらず、その日はやけに空が青く、どこまでも晴れ渡って居た。髪を纏め上げているせいかいつもより首筋が寒く感じた。普段は好んで着ない膝下丈のドレスの裾が、一歩進むたび脛を掠めて擽ったい。

チャペルで微笑むふたりがあまりに眩しくて、みょうじは目を細めた。
挙式の後に行われたアフターセレモニー。フラワーシャワーに包まれる彼女は、みょうじの瞳には誰よりも美しく映ったに違いないだろう。乗り気でなかったブーケトスに半ば無理矢理参加させられ、自分は取るまいと一番後ろでぼんやりしていたみょうじだったが、新婦が放ったブーケが自分目掛けて飛んで来た為に反射的に受け取ってしまう。
思わず彼女を見れば、ふわりと優しく微笑まれた。

「結婚おめでとう。お幸せに」

本当は、ずっときみのことを。

麗らかな日和の中、音にすらならなかった呟きはどこまでも続く青に溶けていった。

はるうらら、きみと訣れ

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