パステルカラーに染まる


 日向翔陽の言葉は、色彩を失った影山飛雄の心にパステルカラーの光をもたらした。そう、まるで仄暗い影を落とす記憶の切れ端を薙払うかのように、一筋の陽光がその場所を照らし、影山の未来に手を差し伸べたのだった。
 ――ここに居るぞ!
 ――でも、ちゃんとボール来た!
 ――おれにトス、持ってこぉぉぉい!
 小さな身体から放たれる生命力溢れた言霊の数々。それらは影山の心をふわりと包み込み、そして重くのしかかっていた王冠までも掬いあげた。ガシャンと音を立てて煌びやかなそれがコートに転がる。それは、影山の身体を離れた瞬間、急速に錆びたように色を失った。その代わりに、影山の世界には、光が、色が、暖かみが帰ってきた。


『もっともっと、影山の特別になりたいんだ』

 そして。綺麗な青空に憧れたのだろうか。まだ夏と呼ぶには早すぎる暦だというのに、季節はずれな一匹の蝉がジージーと鳴き喚いていた陽だまりのなかで、優しい言霊がまた一つ宙を漂った。


   ◆


 二人が築いた特別な関係(相棒)にもう一つの特別(恋人)が加わってからいくらかの日々が巡った。
 無意識のうちに彼を捜し、ぼんやりと眺めていた窓の外。少し離れた先の廊下を歩く日向と目が合ってどちらともなく赤面した。日向の頬がさくら色であるように、きっと影山のそれも同じ色をしていたはずだ。かげやま、と小さく動いた唇を見て、なぜか胸の奥がむずむずとした。また、毎日同じ道を歩いて帰った。黄昏に染まる空の下、自転車を押す日向にそっとキスをしたこともあった。初めて触れた他人の唇は、思ったよりもずっと柔らかで、優しい味がした。
 共に過ごした時間と同じだけ思い出が増えていく。こうして心が淡い色に染まるたび、不器用な恋心は日に日に募っていくのだ。
 見慣れたベッドの上で、これまた見慣れた眩しい色の髪がふわりと広がっている。押し倒した日向の身体は、思った以上に細かった。なにもかもが想像していたものとは違う。目の前で転がる現実は、まるで予想外のことばかりだ。そして、想像よりもずっと色鮮やかで優しい。
 地上を明るく照らす太陽に隠れるようにしてキスを交わす関係から、さらにもう一歩進んだ関係を最初に望んだのはどちらからだったか。そんなことなんてもうわからないけれども、相手に対する狂おしいほどの慕情が彼らを動かしたということはおそらく疑いようもない事実だろう。
 どちらがどちらを抱くか。きっと揉めるだろうと思っていたが、影山が日向を抱きたいと言うと、彼は抵抗することなく、静かにこくんと頷いた。あっさり役割分担が決まり、二人はくすぐったい気持ちのまま、影山のベッドへ向かったのだった。
 そして、彼の洋服を全て奪い去り、一度だけ目を閉じて大きく息を吸い込んだその瞬間。不意に影山の脳内に浮かんだ小さな疑問があった。
 本当に俺でいいのだろうか、と。
 声にならなかった想いは、影山をふと不安にさせる。しかし、それはすぐにぬぐい去られた。
「……影山がいいんだ」
 影山の心情を見透かしたかのように彼が口を開いたのだ。いや、この男のことだ。意図したわけではなかろう。きっと今の発言だって偶然だ。
「は、なにが?」
 だからシラを切った。それなのに、太陽の光は対となる影を見落としはしなかった。陽に照らされた心は、ぬるい熱を浴びる。
「影山さ、”俺でいいのかな”って思ってたでしょ」
 図星、だ。無様に肩が揺れた。どうして日向(コイツ)はこんなときだけ鋭いのだ、と舌打ちをしそうになった。
「それともやっぱり嫌になった?」
 嫌ならやめようよ、彼は言った。明るい声色とは異なり、蜂蜜をぎゅっと煮詰めたような甘い色をした瞳にはわずかな翳りが見える。彼はベッドに散らばった衣服を集めようとして、少しだけ身を起こした。
 しかし、もう逃げるつもりはなかった。逃がすつもりもなかった。
 自分の身体から離れた両手を捕まえて、勢いよく唇を合わせる。カチリと歯がぶつかる音がした。その不格好さは飢えた獣のようで、少しかっこわるいとは思う。けれども、一生懸命になることのなにが悪い、と影山は己の行動を正当化した。
「んん、影山……っ!」
 苦しい! とでも言うように彼が背中をたたいてくる。手加減なしにたたくものだからほんの少し痛かった。しかしながら、今から彼が味わう痛みに比べたらこんなもの虫さされのようなものだ。
「……日向は嫌か?」
 そっと顔を近付ければ、明るい色をした瞳に自分の黒色が映り込む。
「言ったよね。おれはお前を信じてるって」
 陽だまり色の虹彩は瞬きすらせず、まっすぐにそう言った。
「そうか」
 彼は出会ったときからこういうやつだった、と今更ながらに思い出す。日向は、こちらが驚くほどにすぐに他人を信頼する。そうでなければ、よくわからない相手のことを信頼しきって、目を閉じたままフルスイングでボールを打つことなんて到底できなかっただろう。その純粋なほどにまっすぐな瞳が、閉ざしきった影山の心を開くのにそれほど時間はかからなかった。
「それに影山とこうしていられるなんて夢みたい」
 へにゃりと笑った顔はいつものようにのんきな表情だ。けれども、ずっと隣で見てきたからわかる。彼は緊張している。しかも、影山を気遣ってそれを隠そうとしている。
「日向のくせに……」
「え、なに?」
 問いかけは聞こえなかったふりをして、昂ぶった熱をそこへゆっくりとあてがう。日向の身体が逃げるように一度だけ跳ねたが、それでも彼は腰を引かなかった。
「んん、けっこ、きっつ……」
 ぎゅっと目を閉じた彼が、苦しそうに呻く。もう少し、もう少し。彼の皮膚を傷つけてしまうことがないように、焦らずに少しずつその最奥を目指した。
「かげや……まぁ、」
 たまらず日向が影山の名前を呼ぶ。喉の奥から絞り出したような声はあまりに甘ったるくて、こちらの劣情をさらに呼び起こすようだ。
「あんまこっちを煽んな」
「煽ってない……あっ」
 初めて聞くような高い嬌声がその唇から零れ、鼓膜を震わせる鈴の音は影山の心をひどくかき乱す。当の本人は戸惑ったように自分の口を手のひらで覆ってしまったが、そんな日向の表情とは反対に、影山の口角はゆるりと微かな弧を描いた。
「い、今のなしに……「なしにするわけねぇだろ」
 ガツン、と一気に腰を打ち付ければ、全てが彼の中に埋め込まれた。内部はキツすぎるほどだが、それ以上に彼と身体を重ねているという事実に心が満たされた。打ち付けた瞬間、日向の顔にも隠しようもないほどの苦悶の色が現れるが、こちらが視線を合わせるとそれは控えめな笑みに変わった。
「へへっ、嬉しい」
「無理すんな」
 額の汗を拭ってやると、擦り寄るような素振りを見せる。そんな姿はまるで愛らしい小犬のようで、つい手を伸ばしてふわふわとその頭を撫でた。微塵も曇りを見せない双眸は、影山に対する何よりもの信頼の証だ。
「無理してないよ。すげー嬉しいんだ」
 少し気怠げに持ち上げられた日向の指先が、影山の髪をゆっくりとした仕草で梳く。あまりに穏やかな表情を浮かべるものだから、胸の奥がくすぐったくて仕方なくなってしまう。
「……一緒に」
 影山が呟く。日向は、言葉の端に隠された感情に対しても敏感に反応し、今の影山が一番望む言葉を与えてくれるのだ。
「うん、二人で。おれ、影山と一緒がいい」
 腰を使って、彼のなかを行き来する。そこに必要なのは荒れ狂う激情ではなく、穏やかに揺れる愛情だ。繋がった部分から気持ちを伝えるように、ゆっくりゆっくりと動いた。彼が少しでも気持ち良くなってくれるように、お互いの気持ちを重ね合わせられるように、至極優しく触れ合った。合間に唇を慰めて言葉の代わりに想いを伝える。同じように彼の気持ちも心のなかにじんわりと流れ込んできて、その穏やかな慕情と触れ合った粘膜から感じる劣情とが身体の奥でぐちゃぐちゃに混ざった。
「はっ、んんっ、かげやっ……」
「……とびお、だ」
 幼子のように名前を呼び続ける彼の耳へと囁く。ぎゅっと瞳を閉じたままだった日向は、驚いたように目を見開いた。
「俺の名前知ってるだろ、翔陽?」
 日向が息を飲み、自分のものより未発達な喉元からひゅっと音がした。同時に打ち込んだ杭を握りしめるかのように、なかが強く締まった。
「……飛雄」
 カッと頬を染めるその姿はいつになく可愛らしいではないか。
「ん、上手」
 返事をして、もう一度腰を引く。粘膜を擦るその動きに、くぅと彼の喉奥が甘えるように鳴った。
「とび、おっ……」
 まるで呪文のように名前を呼ばれ、その一つ一つが解けない縄のように心を縛っていく。それは、感じたこともない感覚だった。特有の甘ったるさに胸焼けを起こしてしまいそうなのに、その甘さに手を伸ばすのをやめることはできそうにもない。
「あぁっ、もうだめかも……」
 常よりも掠れて熱を孕んだ声。濡れた声色に自分の心臓が大きく脈打つ。続いて涙の膜が張った瞳がこちらを見上げると、影山は呼吸をするのが難しくなったが、それでも絞り出すように言の葉を紡いだ。
「しょうよ、う……」
「と、びおぉ、ひゃぁ」
 パートナーを求め合う切なげな音が共鳴する。こんなにも余裕のない自分の声など知らなかった。太陽に愛された彼と出会わなければ、他人を愛おしいと思うことも、その喜びを知ることもなかっただろう。独りではなく彼と一緒だったから、今の自分がここにいるのだ。
 最後は一緒に。そして陽だまり色の瞳に自分だけを映してほしい。
 そんな欲望を口に出すことができなくて、名前を呼ぶだけで精いっぱいだった。熱で火照った頬、こちらを見つめる潤んだ瞳。全てが感情を高ぶらせた。好きだ、好きだ、と譫言のように喘ぎながら律動を繰り返す。日向の体温が上がり、それに伴って繋がった部分もより一層熱を帯びていった。腰を振るリズムに合わせて、ちゅぷちゅぷと卑猥な音が鳴る。その間もずっと日向の唇からは、断続的に嬌声が溢れ出していた。
 徐々に高まる熱に鼓動を預け、あまりの快感に痙攣するような動きを見せる日向を頂上へ連れて行く。身体が最高潮のところまで昇りつめれば、奥を締めた日向は小さな吐息を零して、それからほのかに上気した肌を揺らした。それにつられるように影山もまた高まりきった熱情を日向の内側へと解放した。
 真っ白になった影山の脳内では、出会ったばかりの懐かしい記憶が蘇っていた。それはいつだって、優しい色に包まれていた。


   ◆


 あれはまだ影山が自分の気持ちに気づいていなかった頃のことだ。
 最近、日向の様子がおかしい。何かを思い詰めているのか、溜め息ばかり零しているのだ。練習中はそうでもないのだが、たまに会う休み時間や部活の休憩中などもこちらが気持ち悪く感じるほど静かだった。
 今日の朝練のときだってそうだ。けれども、彼があまりにも塞ぎ込んでいるようだったから、何か聞こうにも聞けない雰囲気があった。そもそも自分は他人の相談ごとに乗るのは得意ではない。ああいうのは菅原のように優しくて包容力のある人間や、主将(キャプテン)のようにしっかり話を聞いてくれて、かつ頼りになる人間のほうが適しているのだ。
 他人とのコミュニケーションが得意ではない自分には、どうすることもできない。大丈夫か? という一言すらかけることができず、ただ遠くから見ていることしかできないのだ。
 彼のことは頭から追い出して、いつものように昼食後の飲み物を買いに行った。自動販売機へ飲み物を買いに行っただけのはずなのに、ふと我に返れば、そのかげから一人で練習をしている彼の姿を見ていた。そして、左手には彼がいつも好んで飲んでいる牛乳のパックをしっかりと握っていた。
「おい、バカ日向」
 トスに失敗してボールがめちゃくちゃな方向に飛んでいったタイミングで、影山はそっとかげから姿を現した。五分も前からずっとそこにいたことは言わない。
「か、影山?」
 影山の声を聞き取った日向は、ぎくりと肩を揺らして振り返る。それから「どうしたの、めっずらしい」と不思議そうな顔をした。けれども、無理に笑顔をつくっているのが見え見えだ。
「……差し入れ」
 影山がそう言って手に持ったものを差し出すと、日向は遠慮なく怪訝な表情を浮かべてこちらを観察していたが、すぐに他意はないと判断したのか、二カッと笑ってそれを受け取った。もう嘘っこの笑顔は消えていた。
「なんか今日の影山、優しい!」
 笑顔のまばゆさに眩暈がした。そんな動揺を隠すように本音半分嘘半分の言葉達がすらすらと口をついて出てくる。
「有能な”オトリ”にバテられたら困るからな」
「ゆ、有能? やった! おれ、有能だ!」
 日向は、影山の些細な動揺には全く勘付かないまま、嬉しそうに飛び跳ねていた。それを横目に、小学生のようにはしゃいでいる彼にくるりと背を向ける。もう行っちゃうのか? と後ろから声がしたが、聞こえないふりをした。日向の全てが眩しく思われて仕方なくて、あの空間にこれ以上いられる気がしなかったのだ。
 後ろから何度も自分を呼ぶ声がしたが、追いかけてくるつもりはないようだ。ほっとしたような、少し残念な気持ちになりながら、その場をあとにした。そして、自分の姿が彼の視界から消えたであろう場所まで来ると、影山はずるずるとその場に座り込んだ。日陰で冷えたコンクリートの壁がいつの間にか火照っていた背中を冷やしてくれる。
「……俺も疲れてるのか」
 五月、天気は快晴。真っ赤になった頬とか、有り得ないほどドクドクと脈を打つ心臓とか、全てをこの初夏の暑さのせいにした。


   ◆


 達した途端、襲いかかる疲労感。そのまま目の前にある薄い胸に倒れ込んで、誰にも聞こえないように「好きだ」と呟く。頬から感じる体温が心地良くて、そっと目を閉じてみた。
 彼のことをいつから好きなの。そう問われても影山には答えられない。しかし、これだけは言えるだろう。あの五月晴れの太陽のもとで輝く笑顔を見たときには、もうすでに恋に落ちていた、と。

【了】


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