君と一線を越えるまであと一歩


「おう。好きだ」

 それは口にしてみればあまりにも陳腐な言葉で、けれども俺の心臓は大きく揺らいでいた。バクバク、と心臓の音がうるさい。そんな俺のうなじを海辺の太陽がジリジリと焼いている。すぐ目の前ではその太陽よりもずっと熱くて、焦げ付くような視線が、俺を今にも射抜こうとしていた。
 茶色がかった大きな瞳がぱちぱちとまたたいて、色素の薄い睫毛の先から小さな光の粒が飛び散った。真夏の太陽に反射する茶色のそれは、俺をじっと見つめて、それからもう一度ぱちぱちと瞬きをした。俺がじっと見つめ返していれば、夜久は戸惑ったように瞳をさまよわせつつも、ためらいがちに薄い唇を開く。その声は普段の様子と少しも変わらなかった。
「黒尾も夏好きなんだな……!」

 ――夏、好きか?
 ――おう、好きだ。

 それは口にしてみればあまりにも飾り気のないもので、俺はただ夜久の質問に答えただけだ。そう、ただそれだけ。
 二人で防波堤に腰掛けて、海を眺めていた。少し離れたところにある砂浜では、後輩たちが炎天下のもとで楽しそうに走り回っていた。夜久の視線も俺と同じものを追いかけているようだ。「あいつらはしゃいでんなぁ」と独り言のように言っていた。
「……あれ、でもお前って暑いの苦手じゃなかった?」
 夜久がこちらに向き直って問いを投げかけてくる。あまりにもまっすぐな視線を感じて、何となくそちらをみることができなかったので、俺はずっと海と砂浜を交互にみつめることしかできなかった。
 わずかに濁った東京の海でさえも、この距離から見ればきらきらと太陽に反射していて綺麗だと思った。
「それとこれとは別だ」
「はぁ、なんだそれ」
「夏は海と祭りがある。それだけで儲けもんだろ」
「うわぁ、頭悪そうな発言」
「うるせぇ」
 そう言って軽く頭を小突くと、夜久はぱぁっと耳を染めた。淡い紅色に染まった小さな両耳は、まるで波によって打ち上げられた桜貝のようだ。それを見た俺は、彼の髪をかき混ぜながら小さく笑った。もちろん彼が気付かない程度に小さく。
 あぁ本当にたまらない。こうして俺が何かひとつ仕掛けるたびに馬鹿正直なくらい素直な反応を見せる彼のことが、いじらしく思えて仕方ないのだ。
「あと夜久の誕生日もあるしな」
 ごく当たり前のことのように言えば、今度こそ彼のほおが真っ赤に色づいていく。
「あっ、えっ。……えっ?」
 口からは意味のない言葉がぽろぽろと落ちていく。その吐息のひとつひとつを飲み込んでしまいたいとさえ思う。
 俺はすんでのところでその衝動をおさえて、そしてニヤリと笑った。そこまですれば、ようやく自分がからかわれていたことに気付いたのだろう。夜久がはっと肩を揺らした。
「口開いてるけど」
 夜久の肩がもう一度大きく跳ねた。それが合図であったように、大きな目が細まってこちらをギリッとにらみつけた。
「なっ、お前がらしくないこと言うからだろうが!」
 そんな彼を見ていると、自分でも意地の悪い笑みを浮かべている自覚はあるが、ゆるゆると上がる口角を下げることはできなかった。
 負けず嫌いな俺たちがにらみ合いを続けていると、先に目を逸らしたのは相手のほうだった。俺から視線を逸らした夜久は、悔しそうに唇をとがらせて、眼下に広がる大海原をにらみつけている。俺がしばらくその横顔を眺めていると、いじけたようにとがっていた唇がふわりと開いた。
「……まぁ俺も好きだけどな」
 夜久が波の向こうに向かってつぶやく。
「は?」
 その音色があまりにも甘い響きをもっているものだから、俺は驚いて瞳をまたたいた。夜久の言葉はまるで愛の告白のようで、彼から想いを告げられている錯覚におちいったのだ。そして時間が止まったように呼吸ができなくなる。胸が苦しい。
 そんな俺をあざ笑うように、ゆらりと揺れる茶色の瞳が俺を覗きこんだ。
「夏、俺も好きだよ」
「……そーですか」
 友達以上恋人未満。今日この日まではそんな関係がいちばん心地良いと思っていた。だから夜久に自分の想いを伝えるつもりもなかったし、夜久から向けられる好意に対しても見て見ぬふりをしていた。
 けれども、今日彼の唇から零れる「好き」という言葉がはらむ甘さを知ってしまった。至近距離でみつめる瞳の美しさに、あるいはふわふわと揺れる癖っ毛の柔らかさに気が付いてしまった。
 そんな彼の「好き」を独占できるのならば、もう少しだけ欲張りになってしまっていいのではないだろうか。そう思ったのだ。
「なぁ、夜久」
「ん?」
「俺さ――」

 君と越える一線まであと一歩。

【e】

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -