恋を知った海は金色に輝く


 何もない。何も見えない。唯一見えるのは、暗闇のなかで不安げに揺れる彼の横顔だけ。さざ波の打ち寄せる音がして、鈍い色をした海水がそれ以外の音をすべて飲み込もうとしていた。まるで僕らの息の根を止めようとしているように。



 僕が山口に恋をして、山口も僕に恋をした。それは、なにもおかしなことではなかった。山口に恋をした僕は、今にも溢れ出てしまいそうなその慕情を彼に伝えた。彼は、はらはらと美しい涙を流しながら、僕の告白を受け入れた。そして中学二年生の冬。僕らは恋人になった。
 山口は、付き合っていることを内緒にしたい、と言った。僕もこの関係を公にするつもりはなかったから二つ返事で了承した。僕らは、それから何年間も秘密を守り続けた。周りのクラスメイトに知られてしまわないように、自分たちの家族に感づかれてしまわないように、僕らは細心の注意を払ってこの関係を続けていた。僕らの関係を続けるためには、秘密を守ることが必要不可欠だと知っていたからだ。
 中学を卒業しても僕らの関係に気が付く人間はいなかった。あたたかくて穏やかな毎日だった。僕はずっとそんな日々が続くと思っていたし、きっと山口もそう思っていたはずだ。あまりに平和な日々が続いたので、年数が経つにつれて、僕は秘密を守ることが難しいことだと思わなくなっていた。きっとそんな油断が今回の出来事を引き起こしたのだ。
 それは、僕らの関係がもうすぐで三年目を数えようとしていたときだった。僕たちは、山口の家で勉強をするという名目のもと、部屋で二人っきりだった。山口の母親がノックもなしにこの部屋へ入ってこないことはわかっていた。否、僕も山口もそう思いこんでいた。僕たちは、二人っきりという空間を心おきなく満喫していたのだった。
 ふとテキストから目を離したとき、二人のあいだに甘ったるい空気が流れた。僕は、吸い込まれるようにしてその花びらのような唇にキスをした。欲しいという欲望のままに、もっととねだられるままに、僕らは深い口づけをした。しばらく経ったらどちらともなく唇を離して、それから少し照れたように頬を染める山口にそっと微笑みかけるはずだった。そして、今日も二人っきりの秘密は守られるはずだった。それなのに。


 それなのに、今まで優しかった運命の女神は、突如僕らに向かって熱く燃え上がる鉄槌を振り下ろした。


「忠、蛍くん……?」
「……あんたたち、何してるの?」
 聞き慣れた声に反応して顔を上げると、先ほどまで閉まっていたはずの部屋のとびらが開いていた。そこにあったのは、山口の母親と僕の母親の姿だった。
 僕らは呆然としたまま、リビングへ向かうことになった。彼女たちは、僕らの秘密を罪だと言った。僕らに向かって静かに話をする母親たちの言葉は、まるで槍のように胸へ突き刺さった。その傷口から溢れる熱とは対象的に、僕の身体はどんどんと冷えていった。わずかに回る頭で言い訳をたくさん考えたが、言い逃れできるだけの言葉を集めることはできなかった。
『これから二人には未来があるのよ』
 僕の母親が、優しく言った。
『……ねぇ、どうして?』
 山口の母親が、泣きじゃくっていた。
 僕は、何も言わなかった。
 山口は、静かに泣いていた。
 僕が黙ったままでいると、僕の母親は意味のない質問をいくつも投げかけた。
『いつからなの?』
 僕は答えなかった。
『蛍、お願い。答えてちょうだい。どうしてこんなことになったの?』
 僕は沈黙を守り続けた。それでも彼女は質問を繰り返した。やがて僕がいずれの質問にも答えないとわかると、僕の母親は最後の質問を投げかけた。
『……まさか二人とも本気じゃないわよね』
 それは問いに見せかけた確認だった。
 僕らは、紛れもなく本気で相手のことを思いやっていた。僕は山口のことを大切に想っていたし、山口もまた同じように僕のことを大切に想ってくれていたはずだ。答えは一つだった。けれども、山口をこれ以上泣かせてしまうのが怖くて、僕は逃げた。「二人とも本気じゃないのよね」という母親の言葉にうなずいたのだ。僕がそう言うと、二人の母親は安心したような表情をした。隣にいる山口の涙も止まっていた。



 その晩、僕はこっそりと山口の部屋の窓をたたいた。彼は真っ赤な目をしていたけれど、僕が誘うとすぐに部屋を抜け出してきた。
 僕らは近くの海岸に来た。真夜中の海岸に人がいるはずもなく、僕らは二人っきりでぼんやりと海を見つめ続けていた。
 いったい何時間が経っただろうか。時計を持っていなかったから正確な時間はわからなかった。
「ねぇ、山口」
 僕は、ゆっくりと口を開いた。思ったよりも口の中がからからに乾いてしまっていた。
「なぁにツッキー」
 さざ波の音は絶えることなく流れている。山口の少し低めの声がじんわりと鼓膜に響いて心地よかった。
「このまま駆け落ちしちゃおうよ」
「……ツッキー」
 僕の名前を呼ぶ山口の声が震えた。彼は何とも言えない表情でこちらを見つめていた。僕だってわかっていた、自分がひどく馬鹿らしいことを言っていることくらい。高校生の僕らにとって、親の庇護なしでは生きていくことすら困難なのだ。
「なんてね。嘘だよ」
 僕はたまらなくなって、視線を真っ暗な海へ戻した。
「うん」
「…山口への気持ちは本気じゃない、ってさっき言ったけど」
「うん」
「……それも嘘。大嘘」
「っ、うん。わかってるよ」
 山口の声が少しだけ詰まった。もしかしたら、また彼を泣かせてしまったのかもしれない。
 このまま世界が二人っきりになってしまえば良いのに、と思った。朝日がのぼれば、この時間も終わりを迎えてしまう。恋人である僕らに残された時間は、あと一時間にも満たないだろう。それ以降は、友達に戻らなくてはいけない。
 唯一の家族を捨ててしまえば、僕らは生きていけない。そして、何よりも山口が自分の家族や僕の家族を大切に想ってくれていることを知っている。そう思えば、選択肢はひとつしかなかった。

 ――鉛色をした海にこの気持ちを沈めてしまおう。

 大人になったら海の底からこの気持ちを引き揚げることができるかもしれない。けれども、今の僕にそんな遠い未来のことはわからなかった。
「山口、」
 僕がいつもより優しい声で名前を呼ぶと、たったそれだけのことで、彼は僕の決心に気付いたらしい。山口が僕の言葉を遮った。
「ねぇ、ツッキー。……その前にもう一度だけキスしたい」
 僕は、山口の手を握ってうなずいた。山口もぎゅっと手を握り返してくれた。
 最後のキスは甘くて、少しだけ塩辛かった。最後だと思うと名残惜しくて、僕は口づけを止めることができなかった。それを止めたのは、山口が僕の頬を優しく撫でたあとでそっと離れていったからであった。
「ツッキー、俺たち友達に戻ろう」
 数分前の僕が言おうとしていた言葉を、山口の薄い唇が言う。少し口角の上がったそこの甘さを僕は知っている。まだ濡れたそこの柔らかさを僕は知っている。けれども、もう二度と味わうことはできないのだ。
 ゆっくりと顔を上げて緑褐色の瞳に目を向けると、山口は目を細めて笑っていた。そこで僕は気付いた。山口は、僕が一番口にするのが辛いであろう言葉を僕の代わりに言ってくれたのだ。
「……帰ろうか」
 それだけ言うと、僕は立ち上がった。それから山口に背中を向ける。山口のほうから僕に背を向けるのは、きっと彼にとって一番辛いことだと思ったから。山口は返事をしなかったが、後ろから砂の擦れる音がしていたから、彼が僕のすぐ後ろにいることはわかった。
 僕らが歩きはじめると、まるでそれを待っていたかのようににわかに周囲が明るくなった。朝日が地平線の奥から顔を出しはじめたのだ。つまり僕たちはもう恋人ではなくなった。
 ずっと後ろから波の音が聞こえる。淡い恋の渦を抱いた水面は、朝日に反射してきらきらと輝いているのだろう。僕らの恋を飲み込んで、今日も海は美しく輝いているのだ。けれども、僕は振り返らない。きっと山口も振り返っていない。もしも振り返ってしまえば、海に沈めた恋心を今すぐにでも取り戻しに行ってしまいそうだった。すべてをなげうって「僕らの恋を返してよ」と海の底へと行ってしまいそうだった。


 僕らの恋。今はもうさようなら――。


 金色に輝いているであろう海に背を向けて、僕らは小さな一歩を踏み出した。山口との思い出が走馬燈のように脳裏を駆け巡っていた。


【終】
20150720

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