第三章 蜂蜜色に溺れる




     ◆



 あっという間に平日は過ぎ、そして週末になった。昨日のうちに掃除は終わったし、両親は朝から出かけていった。つまり準備は完璧だ。「三時くらいに家で」と約束していたから山口ももうすぐ来るだろう。手持ち無沙汰になった月島は、本棚から読みかけの文庫本を何気なく手に取って読むことにした。途中まで読んだけれどなかなかおもしろいので、また山口にも教えてあげるつもりだ。今読んでいる話は、離婚した男女がお互いの元パートナーを幸せにするために奮闘する話だ。恋愛ものに興味なんてないと思っていたが、一度読みはじめるとなかなかおもしろい。

 しかし、どんなにおもしろい物語でさえも、今の月島の集中力では右から左へと流れていってしまう。一分おきに時計を確認しているのだから、当然だ。

ひとりで過ごす部屋はとても静かで、時計の針が動く音だけが部屋に響いていた。

 今思えば、これは初めての恋だった。

 恋をしたのは、きっと出逢ったとき。恋に気付いたのは、それからずっとあとのこと。

 自分らしくないのでこんなことは口に出して言いたくないが、自分たちの出逢いは運命だったのだ、と思う。一億五千万人の日本人がいるなかで、数ヶ月違いで生まれて近くの家に住んでいて同じ小学校に通って、そして出逢って惹かれ合って恋をして。これが運命でなかったら、運命とは一体なんなのだ。月島はそう思う。

 一枚もページを捲らないまま、ピンポーンと玄関のベルが鳴る。どうやら山口が来たようだ。月島は、持っていた本を机の上に置くと、あわてて部屋から飛び出した。

 山口のふにゃっと笑う顔を思い浮かべたら、なんだかとても気分が良くなった。




     ◇



 約束の十分前に月島の自宅前に到着した。何度も来たことがあるのに、いつもこの瞬間は少し緊張してしまう。山口は、大きく息を吸って呼吸を落ち着かせると、インターフォンを押した。部屋のなかから小さなベルの音が聞こえる。インターフォンのテレビ画面に自分の姿が映ることを予想して、無意味に服の裾をいじりつつ、一歩だけ後ろに下がった。月島が画面を覗いたとき、自分のどアップが映っていたなんて間抜けなことはできれば避けたい。

 けれども、いくら待ってもインターフォンから返事はない。おかしいなぁと思って首をかしげていると、前触れもなく扉が開いた。もちろん出てきたのは、月島だった。

「お、おはよう! ツッキー!」

 まさかいきなり扉が開くとは思っていなかったため、あわてて出した声は変に裏返ってしまった。しかも、そもそも今はもうお昼だ。おはよう、と挨拶する時間ではない。

 けれども、月島はそんなことを気にする様子もなく、おはようと小さく返す。そのいつもと変わらない様子に少しだけ山口の緊張がほぐれた。

 今日の月島は、濃いネイビーのジーンズに首回りが大きめのTシャツを合わせている。無防備に晒された鎖骨に目が行ってしまって、思わずあわてて目を逸らした。しみひとつないきめ細やかな肌は、山口の目には毒であった。

 逃げるように視線を落とした先には、彼のすらりとした足があった。細身のジーンズは、彼の綺麗な足を強調しているようだ。山口が思わず見とれていると、それに気付いた月島は、様子をうかがうような表情でこちらを見ていた。

「あっ、ごめんね? ボーっとしてた」

 そう言って照れ隠しに少し笑うと、月島は何か言いたそうに少し口を開こうとしたが、結局何も言わないことにしたらしい。ぷいっとそっぽを向いてしまった。

「………いらっしゃい」

 月島の言葉を合図に家の敷地に足を踏み入れた。

「お邪魔しまぁす」

 月島は自分の足をスリッパに通すと、山口の分も出してくれた。そこで月島と自分のスリッパが色違いであることに気が付いた。月島の家なのだから当たり前なのだが、それが無性に嬉しくて、山口は頬をゆるめた。

「ツッキーありがとう! あのね、おみやげにケーキ持ってきたよ。うちの母さんが買ってきてくれたんだ。前にツッキーと話してた駅前の新しいところのケーキ!」

 自然と弧を描く口端を誤魔化すように、山口はたくさん話しかける。けれども、勘の良い彼にはそんな山口のこともきっとわかっているのだろう。声色などからきっと見抜いてしまうのだ。しかし、月島が山口のことをよく知っているのと同じくらい、山口も月島のことを何年間も見つめてきた。月島の感情の変化には、機敏に反応できる自信があった。

「山口、」

「ふふ、楽しみだね」

 月島からの返事はなかったけど、その代わりにぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜられた。きっとそれが彼の答えだ。




    ◆



「荷物、二階に置く?」

「うん。ツッキーさえよければ」

「じゃあ置いておいで。ケーキの準備しとくよ」

 山口にとっても勝手知ったる月島の家だ。彼は迷うことなく、二階にある月島の部屋へと上がっていった。廊下や階段は音が響くため、階段を上がる軽やかな足音も聞こえてくる。それはまさに音の主である山口の気分を如実に表しているようだった。

 山口の足音にも意識の端っこで耳を傾けながら、月島はキッチンで客人をもてなす準備をはじめる。いつもなら母親がしてくれる作業も、今日は自分がしなくてはいけないのだ。月島がキッチンで飲み物の準備をしていると、身軽になった山口が隣へやってきた。

「なんか手伝おうか?」

「じゃあケーキの準備お願い」

「わかった」

 山口がこのお皿でいい? と尋ねる声にうなずき、自分はティーカップにお湯を注ぐ。その瞬間、紅茶の良い香りが部屋に漂った。

「ねぇ、今日はツッキーのおばちゃんいないの?」

 いつもならキッチンかあるいはリビングにいるはずのその姿がないことにようやく気が付いたようだ。

「言ってなかったっけ」

「なにが?」

 しれっと答える。予想通り、山口は首をかしげた。

「明日の夜まで、母さんも父さんもいないんだよね」

 言うの忘れてた、ととぼけるふりをすれば、先ほどまでてきぱきと動いていた山口の手が止まる。本当にわかりやすいやつだ、と月島は心のなかで微笑んだ。

「えっ。聞いてないよ!」

 こ、心の準備が……! とぶつぶつ独り言を言っている彼の考えていることはだいたいわかる。だからもう少しだけ、からかってみたくなってしまった。

「何、僕と二人っきりは嫌なの?」

 わざと拗ねたような声色で。

 その途端、山口がはっとこちらに向き直る。

「違うよ! すっごく嬉しい! あ、俺ってば、なに言ってるんだろ。でも本当だよ、ツッキー」

 真っ赤になった山口がこぶしを握って力説をする。

「僕もだよ」

 ぽんっと音を立てて、山口の顔がもっと赤くなった。




     ◇



 月島は角砂糖を二つ、山口は一つだけ。いつもは彼の母親が淹れてくれるそれだけれど、今日は不在である彼女の代わりに月島本人が紅茶を淹れてくれたのだ。じっとリビングで待っているのは性に合わないので、山口もお皿を出したりフォークを出したり、ちょっとだけお手伝いをした。

「なんか一緒にこうしていると、新婚さんみたいだね」

 向かい合わせ、テーブルの反対側に座っている月島を見つめながら、ふと思いついたことを口にしてみた。

 すると、月島からは「あ、うん」と何とも歯切れの悪い返事が返ってきた。

「あっ、ごめん! 恥ずかしいこと言っちゃって!」

 何とも言えない月島の表情を見て、自分の発言が大胆であったことに気が付く。山口は、火照った顔を手でぱたぱたとあおいで少しでも熱を誤魔化そうとした。

「いや、謝らなくていい」

 月島が口をつけていた紅茶のカップをゆっくりとソーサーに戻した。

「へ、」

 思わぬ返答に山口が戸惑っていると、月島がさらに口を開く。

「僕も、ちょっと同じこと……考えてたから」

 山口は、ぱちくりと目を瞬かせる。そして、正面に座る月島を凝視してしまった。よくよく見れば、ちょっとだけ彼の首元が赤くなっている。

「ツッキーかわいい!」

「うるさい山口」

 思わずフォークを握ったまま声を震わせれば、すぐさまいつもの言葉が返ってくる。しかしながら、今日はそれだけでは終わらなかった。

 手に持っていたものを置いた月島が机越しに軽くキスをしてきたのだ。驚きすぎて握っていたフォークが手から離れていってしまう。けれども、金属が落下する音は聞こえなかった。

「山口、かわいい」

 すぐに唇を離した月島はそう言って笑うと、山口が落としかけたフォークを差し出す。どうやら月島が受け止めてくれたらしい。

「ツッキーかっこいい……」

 ぽーっとした頭で思ったままのことを口にする。そうすると、月島は驚いた顔をした。

「……うるさいよ」

 そう言ってデコピンしたのはきっと照れ隠しだ。

 山口が持ってきたケーキは、月島の家族の分も含めて全部で四つ。そのなかで月島はショートケーキを選んだ。山口はガトーショコラ。ショートケーキを二つとガトーショコラを二つ買ってきた山口が、月島とは違うガトーショコラを選んだ理由は、非常に単純だ。何だかすごく美味しそうに見えたから。それに彼と一緒に食べるなら別々のものを選んで分け合いっこしたほうが絶対に美味しいと思う。

「どう? おいしい?」

 月島の表情を見ていたら聞くまでもなくわかるけれど、彼自身の言葉が欲しくって山口はつい問いかけてしまう。

「ん、美味しい」

 視線はケーキに釘付けのまま、甘ったるい声が返ってきた。二人っきりでいるときの月島は、時折生クリームたっぷりのケーキにも負けないくらい甘い声を出すことがある。その声は少しだけ心臓に悪かった。

「良かった。ここね、カフェもやってるみたいだから今度一緒に行ってみない?」

「うん」

 月島が嬉しそうに返事をしてくれたから、山口も嬉しくなってご機嫌なままガトーショコラを口に運んだ。フォークを差し込むとほろほろと崩れるそれは、口のなかでもあっという間に溶けていった。少しほろ苦いが、それがまたとてもおいしくて山口の表情も綻んだ。

「ねぇ、こっちも美味しいよ!」

 一口どうぞ、とフォークを差し出すと、月島がぱくりとそれを食べる。すぐに月島の目元が綻んで、あぁ喜んでくれているなってわかった。月島が嬉しそうに目元を緩めると、涙袋がぷっくりと膨らんでとても可愛いのだ。その表情が山口は大好きだった。だから彼が喜んでくれることをたくさんしたくなってしまう。

「山口も一口いる?」

「いいの?」

「ん、どうぞ」

 お返しにもらったショートケーキは、あっさり甘くって、ふわっと香るいちごの酸味が美味しかった。けれども、彼と一緒に食べるケーキがこんなにも美味しく感じられるのは、きっと自分が彼のことを大好きだからなのだと思う。

「大好きだなぁ」

「は?」

 思わず口をついて出た言葉。

 その脈絡のない言葉に月島が怪訝な顔をする。

「あ、えっと! ここのケーキ好きだなぁって」

 あわてて弁解すると、月島が可笑しそうにくすくすと笑った。口元に手を当てるその仕草すら様になっている。

「何をそんなにあわててるの。そんなに気に入ったなら明日のお昼にでも行く?」

 月島からの誘いはレアだ。山口は、嬉しくてつい前のめりになりながら返事をした。

「うん、行きたい! 楽しみだね、ツッキー!」

「うん。ショートケーキ以外も食べてみたいかも」

 ふわりと柔らかく笑った月島。それは惚れ惚れするほど綺麗な表情だった。この表情はきっと自分だけに見せてくれているのだ。そう思うと、余計に胸がドキドキしてしまった。まだ家に来て一時間も経ってないのに。




     ◆



 玄関に現れたときはひどく緊張している様子を見せた山口だったが、世間話をしているうちにその緊張も解けたようだ。ただ、ちょっとからかうだけでいつも以上に大きな反応が返ってくるのがおもしろくて、ついからかいすぎてしまった。

 夕食を食べ終えたあと、先に風呂に入るよう勧めた。月島の想像通り一度は遠慮した山口であったが、「客人なのだから」と言って着替えとともに部屋を追い出せば、意外と強情な山口もすんなり諦めてくれたらしい。

 そんな山口が風呂場に行ったのが十五分前。そろそろ戻ってくるだろう。月島は、先ほどから手に持っていたものの、まったく読み進めていない文庫本を閉じた。月島が本を机の上に置くと、自室の扉ががちゃりと開いた。

「ただいま〜」

 もちろん、山口だ。

 首にタオルをかけ、髪はまだ濡れたままである。反射的に「おかえり」と返せば、薄らと頬を染めて「お風呂、お先でした」と微笑んだ。

「髪、乾かしておきなよ」

 対する月島は、無愛想にそれだけ言うと、その横をするりと通り抜ける。そして、山口の頭をぽん、と撫でた。





「ほんとあいつ無防備すぎる……」

 足早に脱衣所へと向かった月島は、洗面所の縁に手をかけてそう独り言をつぶやく。ここは合宿所ではないのだ。あんなに無防備な姿を見せられてしまえば、月島とて少々変な気分になってしまうというものだ。

 けれども、自分も風呂に入っていないし、彼だって髪が濡れたまま。このままなし崩しに手を出すわけにもないだろう、と自分に言い聞かせた。その甲斐あって何とか冷静な足取りで脱衣所に向かうことはできた。

しかしながら、眼鏡を外す前に鏡越しに見た自分の頬は、運動をしたあとのように上気し、よく色白だと言われる肌は、首筋まで薄らと桃色に染まっていた。

 さっきまでこんなに風になっていたなんて最悪だ。その顔を彼に見られていないことだけを切に願った。




      ◇



 一方、そのころ。月島が出て行ったあとの部屋で、山口はへなへなと座り込んでいた。自分の手のひらを頭に乗せてみる。そこは先ほどまで月島の手が触れていた場所だ。

「ずるいよ、ツッキー……」

 顔が燃えるように熱い。それが風呂に入ったせいだけではないことはよくわかっていた。山口は、思わず両手で頬を覆って、あまりの恥ずかしさに目を瞑った。

 あえて考えないようにしていたが、今までのお泊まりで月島の家族が不在にしていることなど一度もなかった。付き合っているとは言っても家族が階下にいるので、恋人らしいこととするにしても軽いキスをするくらいのことしかしたことがなかった。

 だから月島の家に泊まるということを特別意識したことはなかったのだが、今回は話がまったく別だ。

先日部室で感じた「あの気持ち」が再び湧き上がってくる。わしわしと髪をかき混ぜたら、しずくがぽたり、と首もとに落ちてきた。濡れた髪からは、彼と同じ香りもした。




     ◆



 月島が風呂から上がり部屋に戻ると、山口はベッドを背もたれにして腰掛けていた。月島に気が付くと、三角座りを崩し、ぱっとこちらを見上げる。

「あっ、おかえりツッキー」

 山口の動きに合わせて、さらさらと緑褐色の髪が揺れた。

「うん、ただいま」

 髪の毛を乾かすように言っていたおかげか、山口の髪は綺麗に乾いている。すん、と鼻を埋めれば清潔な香りがしてきそうだ。髪をタオルで拭きながら、月島もベッドの端に腰を下ろした。ぎし、とわずかにスプリングが沈んだ。

「あの、ツッキー!」

 真っ赤になった山口に名前を呼ばれる。

「なに?」

「隣に行ってもいいかな?」

 なんだそんなことか、と月島は思う。だから特に気にするでもなく「どうぞ」と言えば、なぜか山口はとても嬉しそうだった。いそいそと移動してくる彼。月島も少しだけ山口のほうへ身体を向ける。そうすれば、月島が山口のほうへ向いたときに、たまたま二人の手が触れ合って、山口がびくっと大きく肩を揺らした。

 可愛い。そう思ったが、それを表情には出さなかった。

「あっ、えっと髪の毛乾かしてあげる!」

 逃げたな、と直感的にわかった。それでも山口が自分からしてくれると言っているのだ。断る理由はなかった。

「じゃあお願いしようかな」

「うん、任せて」

 そう言って山口は膝でベッドの上を移動する。いちいち可愛い仕草をしないで欲しいと思う月島だが、そんなことを口に出すのは自分の印象にも関わるのでやめておいた。

 ベッドに座った月島のつむじを後ろから見下ろすように、山口がベッドの上で膝立ちになる。

「ツッキー、眼鏡危ないから外してね」

 そう言われて大人しく眼鏡を外し、山口に手渡す。山口は当たり前のように受け取って、月島が寝る前にいつも眼鏡を置いている場所、つまりは目覚まし時計の隣へとそれを置いてくれた。

「お客さん熱いところはありませんかぁ」

 そんなことを言っている山口は楽しそうだ。頭に心地良い温風がかかり、山口が髪を丁寧な仕草でかき混ぜる。その微妙な温度と力加減が気持ちよくて、山口がぺらぺらとしゃべっていなかったらうっかり眠ってしまいそうだ。

「いえ、大丈夫です」

 何だかんだ言って返事をしてしまう自分は、もう末期かもしれない。こんな姿、山口以外の誰にも見せられない、と月島は思う。日向とかに見られた日にはドン引きされてしまいそうだし、黒尾や木兎たちに見られた日には末代まで笑われることになるだろう。

 けれども、この状況を少し楽しんでいる自分がいることも確かだった。日常のなかに埋もれる小さな非日常。それがたまらなくこそばゆく、また気分がふっと和らぐのだ

 ツッキーの毛ってふわふわで気持ちいいよね! と山口がにこにこして言うものだから、昔から苦しめられていたこの癖っ毛も案外悪くはないかなって思った。

 しかし、その心地良い時間もあっという間に終わってしまう。短い髪の毛は、すぐに乾かし終わるのだ。

「はい、おしまいだよ。眼鏡どうぞ」

 渡したときと同じく当たり前のように返されたそれを受け取る。言わなくても当たり前のようにされる気遣いがなんだかくすぐったい。そんなことを思いながら彼をちらりと見上げれば、なぁにツッキー? と彼は首をかしげた。

「何もない。ありがと、山口」

 少し微笑んでそう言った。まだ不思議そうな顔をしている山口もそれに答えるようにふわっと笑った。身体はほかほかと温まり、胸の奥が優しく握られたように締め付けられる。たまらなくなった月島は、身体を捻って向きを変えてからそっとその細い腕を引いた。

「ふへっ?」驚いた山口が変な声を上げる。

 不安定な場所に膝立ちしていた山口の身体は、ぽすんと月島の腕のなかに収まった。あわてて身体を離そうとするから、逃げられてしまう前に「お礼、」とだけ言って額に軽いキスをした。たったそれだけで山口は頭から湯気が出るのではないかってくらい顔を真っ赤にする。そんな彼を見ていると、身体の奥がぞわぞわと落ち着かなくなった。

 へにゃっと情けなく笑う顔が好きだ。けれども、照れている顔も困っている顔も泣いている顔も、すべて自分のものにしてしまいたい。前触れなく、そう思った。

 それは世間一般的には、紛れもなく「独占欲」と名付けられるものだろう。好きだから独占したくなる、当たり前の感情だ。それは、月島が山口だけに対して抱く感情だ。

 しばらく抱き合って自分より高い山口の体温を満喫していると、山口が月島の名前を小さな声で呼んだ。なに? と返答する代わりに少し身体を離して山口の顔を覗き込んだ。すると、あのねと山口が決心したように口を開いた。

 何となく言おうとしていることがわかった。きっとそれは、ここのところ月島が山口に対している感情とも大きく関係しているであろうことは容易に想像がついた。

「……俺達もそろそろ、ほら、付き合って、その……」

 まだわからないふりをして、首を少しかしげる。少しわざとらしいかもしれないが、自分のことでいっぱいいっぱいな山口は違和感を覚えなかったようだ。バレたら確信犯だって怒られてしまうかもしれないが、どうしても山口の口から言葉を聞きたいのだからしょうがない。恥ずかしそうに目を逸らしながら、それでも時折伏せ目がちにこちらをチラチラと見る山口に胸の奥が締め付けられ、再びよく知っている衝動が身のうちを駆けた。

「ツッキーのこと、もっと知りたい」

 上目遣いのそれは、きっと無意識だろう。濁りひとつない綺麗な白目に薄らと涙の膜が張っている。目の縁もいつもより鮮やかな色になっていてすごく色っぽかった。

 この表情を月島は知っている。キスをしたあとの彼は、いつもこんな表情をしていた。

 これは山口がそういう気分になっているときの、顔。

「でも、山口は僕のこといっぱい知ってるでしょ?」

 決定的な言葉を聞きたくて月島は焦らす。

「うぅ、そうじゃなくって」

 これ以上の言葉を言うのはさすがに恥ずかしいのか、より一層涙目になる山口。その姿がいじらしく見えて、月島はもう我慢できなかった。

「ごめん、意地悪しすぎた」

 くっ、と腰を抱き寄せるとよく知った細さが腕にまとわりつく。なんの抵抗もなくこちらに引き寄せられる痩躯に思わず目を細める。思わず舌なめずりをしそうになったが、すんでのところで止めた。その身体から唇を奪うのは容易かった。左手で腰を引き寄せ、右手で顎を掬いあげる。深い色の瞳に吸い込まれそうになってしまいつつも、その下でいじらしく名前を呼ぼうとする唇にキスを落とした。唇を重ね合わせるだけでは物足りず、さらにその奥へと侵入する。山口は、口を開けてと言葉にしなくても、月島の意を汲んでそっとその閉ざした場所を明け渡した。

 従順、そしてどこまでも素直。きゅっと衣服を掴むその指先にさらなる劣情を覚えた。

「んふぁ、ツッキー、……」

 月島は、思わず喉を上下させた。他の人は山口がこんな顔をするなんてこと知らない。

 家族も、チームメイトも、兄ちゃんも嶋田さんも――。

 自分だけだ、と月島は満足げに喉を鳴らした。

「ねぇ、山口」

 そう問うた己の声色は、ぞっとするほど甘ったるかった。それはきっと山口の耳にもまとわりついて離れないだろう。月島の意図を汲み取ったらしい山口は、恥ずかしそうにうなずいた。触れた身体は、少しだけ震えていた。

「……じゃあ大事なことの確認」

「……?」

 山口は首をかしげる。月島だってスマートに彼のことを押し倒してしまいたい、というのが本音だ。しかしながら、それ以上に山口のことを大切に思っているのだ。

「どっちが上?」

「う、上って、ひゃっ」

 ほんのちょっと悪戯心が働いて、Tシャツに手を差し入れ、その贅肉のない脇腹を撫でてみた。山口は、たったそれだけで驚いたようにびくっと身体をしならせた。

そういえばくすぐったがりだったなぁ、と月島は思い出して口元をゆるめた。

「あ、意味わからない? どっちがどっちに突っ……」

「わかってるよ!」

 山口が珍しく声を張り上げる。いよいよ可哀想なほどに真っ赤だ。また意地悪しすぎてしまったらしいが、残念ながら反省するつもりはなかった。

「お、俺が下、でいいよ」

 山口が殊勝な態度でそう言う。しかも月島のシャツはしっかり握ったままなのが、何ともいじらしい。

けれども、こんなにあっさり決まるとは思っていなかった月島は、え? と聞き返した。

「だってツッキーに怖い思いさせたくないし」

「それは僕も同じなんだけど」

 少し眉をひそめて言うと、山口はあわてて弁解するように言った。

「……ひっ、ごめん。でもさ、ツッキーは優しいから俺の嫌がることなんてしないってわかってるから怖くないよ。はじめてのことだから不安がないって言ったらさすがに嘘になるけど、俺の全部がツッキーでいっぱいになったら嬉しいなぁ、なんて思ったり、ってうぇ?」

 えへへと照れ隠しに首をかたむける山口の手をぐいと掴み、山口をベッドへ押し倒した。山口の言葉は、疑問符に飲み込まれた。

「え、ツッキー、え?」

 あまりに突然のことに山口は驚いたらしい。目をぱちくりさせて言葉にならない声を発していた。

「うるさい山口」

「ひぇぇごめんツッキー。……んん!」

 Tシャツの下から手を入れ、指先だけで先ほど触れた脇腹に触れる。そうすれば、山口はやっぱりビクリと身体を揺らした。さっとバラ色に染まる頬が愛おしい。きっと無意識とはいえ、声を上げてしまったのが恥ずかしかったのだろう。

「じゃあ僕が山口を抱いてもいいの?」

 まるで二人だけの秘密ごとを話すように耳元で囁きかければ、山口はこくりとうなずいた。

「あのツッキー、」

「……?」 

「俺のはじめてもらってください……」

 恥ずかしそうに伏せられたまつげが、ふるふると小さく震える。たまらなくなった月島は、彼に顔を近づけた。




      ◆



 視線が絡まり、どちらともなく唇を重ねた。唇の角度を変えようとしたら意図せずリップ音が鳴った。その音に反応して山口が大げさに肩を跳ねさせたが、月島は素知らぬ顔で行為を続けた。けれども、その心臓は今にも壊れてしまいそうなほど、激しく心音を立てていた。

「っふ、つっき……ぃぃ、」

 キスを続けていくと、山口の身体の力が徐々に抜けていくのがわかった。苦しそうに息を弾ませているが、それでも口づけを止めようとはしない。また、身体の力は抜けているのに、縋るように月島の洋服を握っている右手にはぎゅっと力がこもっていた。それはいじらしく見えた。

 ぴちゃぴちゃ、と水音が響く。

 身体の横でおざなりにされている彼の左手を掬い上げて、自分の指先と絡めさせた。山口はまつげをぴくりと揺すったが、目を開こうとはしなかった。

「山口、」

 月島がキスもそこそこに唇を離すと、山口もゆっくりと瞳を開く。そして、二人の舌先から伝った糸をもの欲しげに見つめた。その表情を食い入るように見つめ返していると、視線に気付いた山口が恥ずかしそうに目を逸らす。

 次にどうすれば良いかわからなかった。だからとりあえずいろんなところに触れてみるか、と月島は山口のシャツをたくし上げた。そこから見える薄い腹を撫でると、山口がくすぐったそうに身を捩った。

「つ、ツッキーくすぐったいよぉ」

 まるで日向たちとじゃれているときと変わらない反応。少しむっとなった月島は、男の胸にも性感帯があると以前聞いたことを思い出して、少しずつ身体を撫でる手のひらを上へと移動させてみた。山口は今からされることへの危機感がないのか始終くすぐったそうに身を捩らせている。

 Tシャツを脱がせてもまだ危機感を持つ気配はない。少し恥ずかしそうにはしているが、まだ余裕がありそうだ。

だから月島は、わざと桃色をした尖がりの先を指の腹で揉んでみた。山口が「……っ!」と声になりきっていないような声を出す。月島は、気分が良くなって少し硬くなっていた先端を口に含んだ。

「っ! ツッキー……っ!」

 上目遣いで山口の様子を伺いながらの行動だったから、山口がはっとして息を飲んだ様子もよくわかった。

「まだくすぐったい?」

「え、っとなんか変な感じ。ぞわぞわって……?」

 山口は、「へ?」と腑抜けた声を出すが、それでもこちらの質問に答えてくれた。チラリと見た山口の脚の間では、硬くなっているであろうものが少しだけ存在感を増しているのが洋服ごしに確認できた。本人が気付いているかは微妙だが、少なくとも山口も興奮してくれている。それだけで月島が次の行動を起こすための理由は十分だった。

「あっそ、」

 舌先で右側の粒を転がすのも程々にして、すぐに左のそれへと舌を伸ばす。触っていなかったのにそれはすでにわずかな硬さを持っている。小さな粒を舌で押しつぶしながら、右側にも指先を伸ばした。先ほどまで口に含んでいたそこは、少し濡れて光っていた。そこをきゅっと指先で摘むと、山口の腰がぎゅんと勢いよく跳ね上がる。その反動でわずかにベッドが軋んだ。その軋んだ音を聞いて自分の身体の変化に気が付いたのか、山口がさらに顔を赤くしてぎゅっと目を瞑った。手の甲で口を覆っている姿が、月島の目にはまたひどく官能的に映った。

 自分のなかで緊張とは別の感情が高まっていく。いよいよ心臓のポンプ機能は故障してしまいそうだ。その別の感情が何であるかなんか明白だった。自分は、山口に欲情している。もっと気持ちよくなった顔が見たい。もっと感じた彼はどんな反応を見せてくれるのだろうか。

「山口?」

 名前を呼べば、目を閉じたままふるふると首を振る。恥ずかしくてどうやらこちらを見ることができないらしい。首から上の肌はすでに淡く桜色に色づいている。それを見て、月島のスイッチも完全に入ってしまった。

「山口、」

 もう一度名前を呼んでまぶたにキスをすれば、おずおずと山口が顔を上げる。

 あぁ、すごくぞくぞくする。

 今の彼はきっと月島のことで頭がいっぱいだ。それがたまらなく嬉しかった。

「僕のこと見ててよ」

 目を逸らさずにそう言った。山口の瞳が少しだけ見開かれた。それでも見つめ続ければ、その控えめに輝く褐色の瞳に、月島の明るい色の虹彩が映りこんでいた。山口の瞳は、まるで蜂蜜のようにうつくしい色に染まっていて、その視線からは甘い香りすらしてきそうだ。

 うん、と小さくうなずいて月島の服を指先で握る山口に言葉ではうまく言い表せないような感情が芽生えた。




     ◇



 絶え間なく与えられる愛撫に視界が涙で滲む。それでも月島は山口が目を逸らし、まぶたを下ろすことを許してはくれなかった。泣きたいくらいに恥ずかしくて、彼が触るところすべてを気持ち良いと感じてしまう自分の身体が怖くってたまらなくなる。けれども、それ以上に月島が自分の名前をたくさん呼んでくれることが嬉しかった。山口の心臓は、とくとくとく、と細かな鼓動を刻んでいた。

 月島の甘やかな愛撫が止んで、彼の身体が少しだけ遠くなる。――あ、きた。山口は、そう思った。

 月島はいつの間に用意していたのか、枕の下から淡いピンク色の液体が入ったボトルを取り出した。男同士のセックスでそれが必要だということは、予備知識として知っていた。月島が神妙な面持ちでボトルをかたむける。少し身体を起こして月島のほうを見ると、彼がそれを指先で温めるようにこすっているのが見えた。

 くちゅくちゅ、とやけに生々しい音が鳴っている。

「ねぇ、怖い?」

 山口の視線に気付いたのか、月島がそう尋ねる。山口は考える間もなく、首を横に振った。それは本音だった。緊張や恥ずかしいという気持ちはあれど、今からする行為に対して不思議と不安はなかった。月島は、山口の言葉を聞いて安心したように笑った。月島も緊張しているのかもしれない。その様子が可愛らしくてふっと笑みが零れた。

「ツッキー好きだよ。世界一大好き」

「……僕も」

 月島が「愛おしい」とその瞳いっぱいで語っていた。 




      ◆



 好きだよ、という山口の言葉に同じ言葉を返すことはできなくて、ただ「……僕も」と便乗することしかできなかった。それでも山口は幸せいっぱいだと言わんばかりの顔で笑って月島にキスを強請ってきた。そして唇が腫れるのではないかと思われるくらいキスをしながら、たっぷりとローションをまとわせた中指をゆっくりと差し入れてみた。

「っ、」

 山口が息を詰め、月島のスウェットを握る。苦しそうな顔は見たくなくて宥めるように繰り返しキスをした。身体は相変わらずこわばっているが、思ったよりもスムーズに指は飲み込まれていった。それでも焦らず少しずつ入り口を広げていく。人より長い中指を根元まで埋めて入口や内壁を撫でるように解す。中指が自由に動くようになれば、続いて人差し指も後孔に差し入れた。

「ん、っふ」

 山口が苦しそうに息を漏らす。その呼吸を助けるように月島は山口の唇にかぶりついた。山口は、はくはくと浅い呼吸になりながらも月島のキスに対して懸命に応えようとしていた。月島と山口は、互いの呼吸を奪い合った。

「ここ、すきなの?」

 キスを繰り返しているうちに気が付いたことを問うてみる。言葉とともに上顎の粘膜を舌でなぞれば、山口のなかがぴくぴくと蠢いた。山口は、涙に潤んだ瞳で首を振るが、尋ねた瞬間に身体が反応したことを隠すことはできなかった。

 そうか、身体を繋げるということはこういうことなのか。

 月島はようやくわかってきたような気がした。

「いつもよりもっと山口のことがわかって嬉しい、かも」

 素直に思ったことを述べれば、山口がびくっと身体を震わせ、その肌をぱぁっと淡く染め上げる。ぱくぱくと金魚のように開いたり閉じたりしている唇にキスをすれば、口内は非常に熱かった。もうお互いに余裕なんてなかった。




    ◇



 スウェットを脱いだ月島が下着もすべて取り払う。そこをまじまじと見てしまった山口に月島が「エッチ、」と言って軽く鼻で笑った。言い返すことができずに口をぱくぱくさせていると、「そんな山口に欲情してる僕も人のことなんて言えないけどね」と穏やかな笑みが返ってきた。

 今日の月島は、山口には破壊力がありすぎて頭がついていけない。山口が苦し紛れに「ツッキーのばかぁ」とぼやけば、月島は優しく頭を撫でてくれた。

 身体のなかに月島が入ってきた瞬間は、息が止まるかと思った。けれども、一度奥まで入ってしまえば、少しの違和感や圧迫感はあるものの、山口のほうにも余裕が出てきた。だからこそ気が付いてしまったのだ。ぺたりと自分の胸元に身体を預けた月島。その心臓が山口にも負けないくらいすごい勢いで動いていたということに。

「つっきー、心臓すごい……」

 思わず言えば、月島がぎくりと伏せていた顔を上げる。

「……当たり前デショ。緊張してるし…、」

 ――すごく興奮もしてる。月島はそう言った。

「……嬉しい」

 あの月島が自分に欲求を覚えてくれている。それだけで胸の奥がきゅーと締め付けられる気がした。二人分の鼓動の音が聞こえた。月島に対する気持ちをぎゅっと詰め込んでその頭を抱いた。心のなかで大好き、と何度も囁いた。

「……好きだよ、山口のことが」

 それは、とろりとした甘さを纏って鼓膜を揺する。幸せに浸っていた山口は、心のさざなみがより一層大きな音を立てていくのを感じた。月島がはっきりと「すき」と口にすることは、平常において滅多にない。山口を高めるには、その言葉だけでも十分であった。

「えっ、」

 耳から届いた信号は、一瞬遅れて脳にも情報を伝える。その言葉を理解した途端、ぬるま湯のような快感に浸かっていた身体が大きく揺れる。頭の奥でフラッシュのような強い光が弾け、思考が真っ白になる。それに一歩遅れて目の奥にも星が散った。身体がどこか遠くに落ちていく感覚がある。あぁ、だめ。そう思うと同時に、ずっと動かなかった月島がゆっくりと腰を揺すりはじめる。

「あ、ツッキー、ちょっと待って……っ、」

 今そんなに動かれてしまったら、と山口は白くぼやけた意識のなかでそう思う。しかし月島の動きは止まらない。

濡れた山口のそれは、月島の腹に擦り上げられ、山口はまたひぃっと息を飲む。

「だめ、つっき……っっ」

 感じたことのない感覚が背中の奥から湧き上がる。まるで自分の身体と意識が分離してしまいそうだ。繋がった部分が熱い、熱くてたまらない。

「何が……だめなの……っっ」

 月島が一際深くその杭を打ち込む。

「ひゃぁぁっ! んんん」

 感じたことのない衝撃に、何も知らなかったはずの身体が本能的に震えを帯びる。自分のものとは思えないようなあられもない声が飛び出して、山口は思わず口を抑えた。

「やま……、か……ね」

月島が何かを言ったが、山口の耳には届かない。月島は山口の額にキスをすると、再び律動をはじめた。

ぼやける視界と、その先で揺れる淡い色彩。絶え間なくやってくる快楽の波は、山口の正常な思考を徐々に奪っていく。あまりの気持ちよさに、さらにその奥にあるであろう新たな快感を求め、ぐっと手を伸ばしてしまいそうになる。そんな山口に応えるように月島が奥を穿つ。求めていた強い衝撃を身体全体に感じてまたもや上擦った声をあげてしまう。あわてて両手で口を押さえるが、その奥でくぐもった声が零れるのを止めることはできなかった。

時折身体が自分の意思とは関係なく、ぴくぴくっと波打つ。スプリングの軋む音がその行為の激しさを物語っているようだ。月島の律動が一層激しくなり、山口を追い立てるような動きになっていく。互いに余裕はない。ただひたすらに「正」の衝動のままに突き進むだけだ。

ちらりとこちらを見上げた淡い色をした瞳のうつくしさに、ゾクリと劣情が湧き上がる。その瞳に閉じ込められてしまいたい、と欲求が顔を出す。惚けたように彼を見つめていると、彼は山口の両手を取ってキスをしてきた。

 知らない、こんな顔をする彼のことなんて知らない。

けれども、不思議と怖いとは思わなくて、むしろその瞳に囚えられてしまうことをどこか喜んでいる自分がいた。

もっと求めて欲しい。いっそ溶け合って繋がった部分からひとつになってしまいたいくらいだ。山口は、貪るような月島のキスに一生懸命くらいついた。




      ◆



 好きな人を繋がることがこんなにも心満たされるものだとは思ってもみなかった。

キスのあとに目が合うと、無意識なのかへにゃりと頬を緩める山口。いつも以上にくるくると変わる表情から目が離せない。いつもより余裕がなく上擦った鳴き声がもっと聞きたくて。回らない舌で懸命に名前を呼ぶ姿が見たくて。月島は、彼を欲する感情のままに行為を続けた。

「つっきぃ、眼鏡危な、い……」

 月島が眼鏡を片手で上げたのを見ていたのだろう。山口がふらふらと手を伸ばしてくる。月島も一度動きを止めた。

「別に大丈夫だし」

 それに眼鏡を外してしまえば、視力の悪い月島には、山口の表情が見えなくなってしまう。もっと山口を見ていたいのに、それができなくなってしまう。

「ツッキーが怪我したら嫌だもん」

 けれども山口のほうも譲らない。頬を火照らせ、浅い息をしているにも関わらず、その赤く腫れた唇で鳴く。

「……でもお前のこと見えなくなるじゃん」

 言い訳のように目を逸らしながら言えば、山口が驚いたようにぽかんと口を開けてこちらを見ているのがわかった。そして、そのあと優しく微笑んだ。

「だいじょうぶ、」

 山口が月島の元から眼鏡を奪う。優しい仕草で差し出された両手に抵抗はできなかった。視界がぼやけた。

 山口は、それを月島に差し出す。彼の言わんとしていることはよくわかったので、無言でそれを受け取って、割れてしまわないように目覚まし時計の横に置いた。そうすれば、山口が満足そうに笑ったように感じた。

「それにね、こうして近づけば見えるでしょ」

 月島の首に手を回し、へらっと山口が笑った。顔を近づけていたので、山口の言うように彼の表情は、よく見えた。

一方山口は、自分に埋め込まれたものの質量が増したのがわかったのだろう。恥ずかしそうに目を逸らし、「続きしよ、」と小さな声で言った。

 顎をとって、視線が交わるようにする。山口はまだ恥ずかしそうにしていたが、目を逸らそうとはしなかった。山口の目は、熱に浮かされているせいで涙の膜が張っていて、一度でも瞬きをすれば、しずくがはらはらと散ってしまいそうだった。よく見えないから、と心のなかで不要な言い訳をして彼をぐっと覗き込む。そんな山口の瞳のなかには、月島の姿がぼんやりと映っていた。

 濃い色をした虹彩に淡い色がちろちろと揺らめく。その色はまるで蜂蜜のようだった。月島は、喉を焼くような甘さに酔い痺れた。甘い蜂蜜色の海に飲み込まれてしまいそうだ。溺れてしまそうだ。

 月島がそのまぶたにキスをしようとすると、山口が目を閉じた。丸い透明の玉が目尻から溢れ出す。そこから流れるように零れ落ちたしずくを舐めてみると、それはまるで砂糖水であるかのように甘かった。しずくをついばむようになおもキスを落とす。そして、焦点すらうまく合わないくらい近くで何度も視線を交わし合った。

「じゃあ動くよ、」

 小さく山口がうなずいたのを確認してから彼の薄い腰を片手で引き寄せた。再び口を抑えようとする両手を捕まえて、その両手首を頭のうえでシーツに縫い付けた。

 たかが片手で押さえつけているだけだ。けれども、彼は手を振りほどこうとせず、従順なままだった。本当に山口は――、と月島は口端を左右対称につり上げた。

 そして、随分と柔らかくなった肉壁に向かって腰を打ち付ける。それはまるで月島に絡みつくように蠢く。

「あぁっ、」

 控えめな嬌声が部屋に落ちた。その音色の甘さに思わず目を眇め、激しい律動を再開させた。スプリングの揺すられる音に合わせて、山口が断続的に声を上げる。もはや口を閉ざすことすら忘れたようだ。

 甘い声を上げるたびに恥ずかしそうに頬を染めるのに、月島が与える快感からは逃げられないらしい。羞恥と欲望のあいだで揺れる彼の表情はひどく魅力的だった。

「あ、つっきぃ……っっ、や、だめ……っ」

 うわごとのように鳴きながらも自分を求めるように名前を呼ぶ姿に、さらなる熱情が湧き上がっていった。

肉を叩く音と熱の篭った吐息、そして、結合部分から発せられるくちゅくちゅとした濡れた音。そのすべてが山口と月島の劣情を煽る要素にしかならなかった。

 余裕のない声で彼の名前を呼んだ――。




      ◇



「やまぐち……っ、」

 余裕なさげな声で名前を呼ばれる。いつも聞いているよりも少しだけ上擦ったような声だ。言葉の続きはなくとも山口には痛いほどに月島の気持ちが伝わってきた。これが繋がるということか、と山口は思う。揺すられ、ひっきりなしに溢れる自分の嬌声をどこか遠くで他人事のように聞きながら、いつの日か月島と語った話を思い出した。

あれは小学生のときだ。「ねぇ、なんで人魚姫と王子様は幸せになれなかったんだろう?」小学生だった山口はそう問うた。そんな山口に対して、彼は薄く微笑みながら答えた。「人魚姫と王子が言葉以外に好意を伝え合う方法を知らなかったからだよ」と。あのときはまったくわからなかったが、今ならその意味がほんの少しだけわかるようになったかもしれない。

 ちょうどそこまで考えたとき、身体全体ががくりと落ちていくような感覚があって、一気に思考が吹き飛んだ。あまりに急なことだったので声を上げる間もなかった。

 自分の身体に起こったことが頭では理解できず、また身体の奥に感じる新たな熱を自覚してはじめて、月島の動きが止まっていることに気が付いたくらいだ。彼が注ぎ込むのに合わせてぴくぴくっと身体が揺れる。はしたなく揺れる身体が恥ずかしくてたまらなかった。

 けれども、彼が気持ちよさそうな表情をしていたからそれだけで満足だ、という思いも同時にあった。彼がこうして優しい眼差しで見つめてくれるなら、山口にとってこれくらいの恥ずかしさくらいなんてことはない。





「ねぇ、ツッキー……。いっぱいツッキーの気持ちが伝わってきてとっても嬉しかったよ」

 すべて出し切った月島がくたりと山口の胸に倒れこむと、山口はそのなめらかな背中を抱きながらそう言った。

月島は、最初から最後まで山口をいたわるように抱いてくれた。この人になら抱かれたって良い、と思った自分の気持ちは間違っていなかったのだと嬉しくなった。

 普段なら見せないような余裕のない表情や、欲情に溺れる雄の表情。たくさんの知らない彼の姿を見せてくれた。

 そして、何よりも優しい彼が愛おしくて仕方なかった。

 顔を上げた月島は、驚いたように瞳を瞬いていたが、そのあとすぐにふわっと目元を細めた。山口は、そこから目が離せなかった。

 しばらく見つめ合っていると、月島はたまらなくなったように山口を抱きしめる。大きく息を吸ったら身体中が彼の香りでいっぱいになった。彼は何も言わなかった。山口も何も言わなかった。けれども、互いの心情ははっきりと伝わり合っているとわかっていた。

 山口の脳裏では、月島の淡い色をした瞳が揺れていた。






【人魚は蜂蜜色の海に溺れる・完】

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -