第二章 甘やかし上手な彼




      ◇



 入学式の日から一週間ほどが経った。

 始業式の翌日には、月島と一緒に男子バレー部のほうにも顔を出した。そこから思わぬ展開になって、新しい一年生と試合をすることになったのがつい先週のことで、今日はまさにその試合を終えたのだった。

 その結果は、山口たちの負け。

「それにしても日向と影山の速攻すごかったなぁ」

 山口が今日の試合を振り返りながらそう言う。

 試合後、先輩にどうだったか? と問われた月島は、王様相手の試合に庶民である僕らが負けたって不思議じゃない、と言い切った。けれども――。

「やっぱ悔しいね、負けるのは」

 ぽつりと言ったのは紛れもなく山口自身の本心だ。

 今まで月島と一緒にバレーができることがただ嬉しかった。「部活」という限られた枠組みのなかだけでするバレーボールは、気楽で単純に楽しかった。さすがに負けたら悔しかったけど、帰り道にはもうけろっとしていた。

 だけど今日の試合は少し違っていた。

 みるみるうちに精度を増していく影山のトス、瞬きをしていたらもう追いつけなくなってしまうような日向の動き、そして田中の強烈なスパイク。まだヒリヒリと痛む腕がその強さを物語っている。

 試合が終わったあとに感じたのは、紛れもなく負けて悔しいという気持ち。それは試合が終わり、部室に戻ってジャージを脱いだあとにも消えることはなかった。

「……別に」

 そう言ったのは月島だ。

「え?」

「たかがお遊びで負けたぐらいたいして悔しくない」

 けれども、ずっと一緒に過ごしてきた山口には、月島の気持ちが手に取るようによくわかった。ぎりりと唇を噛みしめ、ただ前だけを見つめる月島の横顔には、わずかな悔しさが滲んでいる。

 ――うん、悔しかったよね。当たり前だ。

 山口はそんな月島の横顔に向かって静かに微笑みかけたが、そのことについて言葉をかけるつもりはなかった。

 その代わりにさし当たりない会話を続けた。

「あ、そうだ。せっかく今日は早めに部活終わったし、うちに遊びに来ない?」

「僕は良いけど」

「じゃあ決定ね! ついでに宿題も一緒にしようよ!」

「お前、それが目的でしょ」

「違うちがう! それはついでだもん。あ、でも次の授業当てられてるんだよねぇ」

「やっぱりそれ目当てじゃん」

「ひどいよ、ツッキー……」

 橙色の夕陽に照らされて、いつもは淡い金色に輝く月島の髪が、まるで甘くとろける蜜の色のように見えた。




     ◇



 こういうとき、彼は末っ子なんだなぁ、ってふと思う。

「山口、」

 部屋に入るなり自分の名前を呼び、手を引く彼について行きながら、山口はそんなことを考えていた。

 あのあと、月島と山口はまっすぐ山口家にやってきていた。山口の母親が玄関で二人を出迎え、「忠、蛍くんおかえり」と当たり前のように微笑んだ。週に二日はこうして互いの家を行き来しているし、両親同士も顔見知りなので、月島のほうも慣れたように挨拶を返していた。

 そして、母親との世間話もほどほどにして、二人して山口の部屋に上がってきていたのだった。

 先ほどまでの態度が嘘のように、月島は、神経質そうな瞳を不安に揺らしていた。定位置であるベッドに腰掛け、山口の手をきゅっと控えめな力で引っ張っている。

「ちょっと待ってね、ツッキー」

 けれども、山口はまず部屋にかばんを置いてから、キッチンにいる母親からジュースを受け取りにいかなければならない。そうじゃなければ、彼女は部屋まで上がってきてくれるだろう。それはあまり好ましくない。

「ねぇ、山口」

「あぁ、はいはい。すぐ帰ってくるってばぁ」

 未練がましそうな目で見られると、なぜかこちらが強い罪悪感に駆られるが、これだって仕方ないことだ。なぜなら、まだ息子とその親友がいちゃいちゃしているところを母親に見せるような勇気は備わっていないのだから。

「山口」

 そこまで考えていると、さらにもう一度名前を呼ばれた。なんとなくだが、語尾に怒気まで感じる。

 今日は仕方ないか、と諦めることにした。母親が来たら適当に返事をしておこう。まさかノックもなしに入ってくるようなタイプではないから。

「ん、お待たせツッキー」

 ベッドに座っていた月島の横に座ると、すぐに月島が寝ころび、膝に体重をかけてくる。

「待ちくたびれた」

 まだ家に来てから五分も経ってない。山口は呆れたように笑うしかない。そんな山口の心情を察したのか、月島はジトリとした視線をこちらに寄越してきた。

「ツッキー可愛い」

「可愛くない」

 大きな身体を丸めて山口の膝に顔を埋める月島は、なんだか猫のようだ。そのふわふわとした髪を撫でて、山口は目元をふっと綻ばせた。

 月島は、意外と負けず嫌いだ。それは一番近くで過ごしてきた山口が誰よりも知っている。ただ彼はなりふり構わず必死になることを恐れているように見える。もしかしたら、必死になればなるほど、失敗したときや挫折したときの辛さが増すことを知っているからかもしれない。

「寝る。十五分経ったら教えて」

 一瞬だけ蜂蜜色の瞳と視線がかち合う。レンズを通さないその瞳は、いつもより不安定に見えた。山口が思わずその頬に手を伸ばしてしまいそうになったくらいだ。

「了解、おやすみ」

 山口が最後まで言い終わるよりも前に、月島は山口に眼鏡を手渡し、目を閉じてしまった。綺麗な色をした目が見えなくなってしまったのは残念だ、と思う。けれども、こうして寝ているときの月島は、山口がいくら頭を撫でても嫌がらないことを知っていたので、今はそちらのほうを堪能することに決めた。

「ふわふわだ」

 淡い色をした癖っ毛を指に絡ませながら山口は口元を緩める。

 誰よりも強がりな人がほんの少しだけ弱さを見せてくれる瞬間。この場所に辿り着くまで数年を要した。今の月島は、山口にその弱さの一部分を見せてくれる。本当のことを言えば、すべてを見せてほしいと思っている。しかしながら、それはきっと生涯叶わないだろう。だって誰よりもカッコ悪いことを嫌う彼だから。

 しかし、山口はそれで良いと思っていた。一番近い場所で笑っていられるのならそれで良かった。

「ツッキー、お疲れさま」

 ふぁぁと大きなあくびをすると、自分もかなり疲れていたことに気が付いた。月島は十五分経ったら教えて、と言ったが、たとえここで自分が眠ったとしても、月島は文句を言わないだろう。ポケットに入っていた月島の携帯を勝手に取り出して、十五分後にアラームをセットする。ちなみに山口のものはかばんのなかにあって、取り出すことが不可能なので仕方ない。彼の安眠を邪魔するつもりはない。

 アラームをセットし終えると、途端に眠気の波がやってくる。山口はぼんやりしていく思考回路のなか、ゆるく握られている月島の手を取ると、自分のものと丁寧に絡め合わせた。そして、月島と同じように睡魔に誘われるがまま目を閉じた。彼が意識を手放したのはそのすぐあとだった。





 五分後、小さくノックをした彼の母親が、なかから返事がないことを心配して部屋を覗いた。すると、ベッドに座ったまま船を漕いでいる自分の息子と、その息子に膝枕をされながら穏やかな表情で眠る息子の親友の姿を見た。彼女はふふっと小さく微笑むと、音を立てないように慎重に部屋の扉を閉めた。部屋からは物音ひとつしなかった。




     ◆



 身体に伝わる微かな振動で月島は目を覚ました。どうやら音の主は、山口の手に握られている月島の携帯らしい。携帯が震えているにも関わらずまったく起きる気配のない山口。月島は寝転んだまま、その手からそっと携帯電話を抜き取った。そして、携帯の画面を覗きこみ、軽く操作するとその振動を止めた。どうやらアラームがセットされていたようだ。もちろん月島がこんな時間にアラームをセットした記憶なんてない。おそらく目の前で眠りこけているこの幼なじみが気をきかせてセットしてくれたのだろう。ただし、その本人は未だ夢のなかではあるのだが。

「山口」

 小さな声で名前を呼んでみる。もちろん寝起きの悪い彼から返事は来ない。それを見越しての行動だった。

「あと五分だけだからね」

 月島は寝ている彼にそう言って、横に向けていた身体を仰向けにしようとした。そこで自分の左手と彼の右手がしっかりと繋れていることに気が付いた。月島は、手を離してしまわないように慎重に身体を動かした。頭は山口のひざに預けたままだ。こうすれば、やや俯きがちになって眠っている山口の顔がよく見えるようになった。

 眠っている彼をじっと見つめても、すっかり意識を手放している彼はまったく起きる気配がない。普段から月島のことをじっと見るくせに、彼は自分が月島に見られることをひどく恥ずかしがる。いつも人のことを散々見ているくせに、と言いたいところだが、月島が気付いていないと思ってちらちらとこちらを見上げる姿を気に入っていることも事実なので、わざわざ文句を言うつもりはなかった。

 それゆえに、彼が無防備に寝ているときこそが、月島が山口をじっくりと観察できる唯一の機会なのだ。

 こくりこくり、と船を漕ぐ様子を見ながらまるで振り子のような動きだなとその顔を見上げた。本当はそばかすの散った頬を撫でて、薄らと開いている唇にキスをしたいところだが、月島にすやすやと眠っている彼を邪魔する気は毛頭ない。その寝顔を見ながら、時間を過ごしていると、不意に意図せず自分の頬が緩んでいたことに気が付く。自分も変わったものだな、と思った。どう考えても、目の前にいる山口が原因だ。

 そんなことを考えていた月島は、それまで山口に対して特にプラスの感情を抱いていなかった自分が、山口への気持ちを自覚したときのことを思い出した。

 あれは中学一年生のことだ。中学に上がり、急に女子が色めき立つようになって、元々容姿端麗だった月島は告白されることが多くなった。正直そのような恋愛ごとに興味がなかった月島にとっては迷惑このうえない話であるのだが、月島以上にその不利益を被ったものがいた。それは山口だった。

「ツッキー、三組の女の子から手紙もらったよ」

 しとしと、と降り続く雨が鬱陶しい梅雨のある日だった。昼休みに呼び出されていた山口が花柄の手紙を手に持って帰ってきた。見ただけで「それの類」だとわかるものだった。

「あ、そう。よかったね」

「俺のじゃないよ、ツッキーのだってば」

 興味がなかったので冷たくあしらうと、山口はそんなことを言って月島に手紙を差し出してきた。そのとき、なぜだかわからないが、ひどい不快感が胸のうちを占めた。そうはいうものの、受け取らないわけにいかないので一応は受け取ったが、山口はその雰囲気だけで月島の機嫌が急降下したことに気付いたようだった。

「ツッキー怒ってる?」

 恐るおそる聞いてくる様子が余計に癪に触った。そんな顔をするくらいなら最初からラブレターの仲介など請け負わなければ良いのに、と思った。しかし、それをきちんと言葉にして伝えることができるほど、月島もまだ大人ではなかった。

「別に」

「……そっか。今日、天気悪いもんなー」

 何をどう解釈したらそうなるのか月島には微塵もわからないが、そのときの山口は月島の機嫌が悪い理由をなぜか天気のせいだと思ったらしい。特に否定する理由もなかったので否定しなかった。けれども、今思えばとても幼稚な理由だったと思う。あのときの不快感は、ただ単純な嫉妬だったのだ。「なんでお前は僕宛のラブレターを見てそんなにへらへら笑っていられるの? お前のいちばんは僕でしょ。その僕が他の知らない女子に取られてもいいの?」という自分勝手な嫉妬だ。ただそのときの月島は、まるで自分の不快感の理由に気が付いていなかった。

 月島自身が山口に対して恋愛という意味で心惹かれていることに気付いたのは、へらへらと笑う彼からピンクや黄色のかわいい便箋を五枚か六枚ほど受け取ったころだった。もう季節は夏へと変わろうとしていた。

 ここで追記しておくが、この日生じた「月島蛍は雨の日が嫌いである」という彼の勘違いは、今もなお続いている。




     ◇



 今朝はあいにくの雨。桜のつぼみを揺らし落としてしまうのではないかと思われるような強い雨だった。山口自身は、けっして雨が嫌いなわけではないのだけれど、やはり晴れているほうが気持ちは穏やかになるというものである。夕方になった今でこそ雨は止んでいるが、地面にはまだそこらじゅうに水たまりが残っていた。つい先ほど、そのひとつに思いきりつま先を突っ込んでしまったところだ。

 そんな山口にトドメを刺す出来事が起こった。

「あ、やばい」

 山口は、独り言のようにそう言って思わず足を止める。

「……数学のプリント、忘れた」

 小さくつぶやいた声は、誰にも聞こえなかったようだ。

 ついさっきまでの山口は、まるで弾むように歩く日向やその隣で何やら文句を言いながら騒いでいる影山の背中を見つめつつ、いつものように月島の隣をゆっくりと歩いていた。時折、その端正な横顔をちらりと見てみたりしながら(その結果、水たまりにはまった)。さらに前のほうへ目線を向けると、主将である澤村を先頭にして他の部員たちがざっくばらんに散って歩いているのも見えた。

 それは、いつもと何も変わらない平凡な一日だった。いつもと違うことが起こったのは、そんな平和な日常の一場面でのことで、ちょうど坂ノ下商店を過ぎたあたりで、山口は部室に忘れ物をしていることに気が付いたのだ。

「山口?」

 突然立ち止まった山口に気付いた月島が、視線だけで振り返る。一歩先で驚いたように首をかしげている彼は、高校生になってまた背が伸びたらしい。早く追いつけるように頑張らなければ、と心に決めると同時に、彼を追い抜かすなんてことは不可能だろうなぁ、ともぼんやりと思った。

「山口、聞いてる?」

 そこからうっかり自分の世界に入りかけていた山口だが、月島にもう一度名前を呼ばれて、ようやくはっと我に返った。山口の不審としか言いようのない行動に、いよいよ月島の眉間のしわは深くなって怪訝そうな表情になる。

「えっと……、忘れものしちゃった」

 こういうときは、さっさと白状してしまうのが吉だ。ぽりぽりと頬をかきながらそう言うと、月島の眉間のしわがわずかに緩んで、今度は右眉がきゅっと斜めに上がる。

 少々わかりにくいが、どうやら呆れているらしい。あえて台詞をつけるなら、何やってんのさって感じ。山口は、彼が不機嫌になっているわけではないのがわかって安心した。

「俺、取りに戻るね」

 顔の前で手を合わせ、ごめんね! と謝る。そうすればきっと月島は、「あ、そう。じゃあね」と言って自分に背を向けるだろう。山口は、そう思っていた。それなのになぜか彼はそうしなかった。山口は違和感を持ちつつも「だから先に帰ってて?」と月島に言った。すると、目の前にいる彼の表情が明らかに曇る。先ほどまでとは違ってこれは明らかに不機嫌になっているサインだった。どうやらどこかで選択を間違えたらしい。どこで何を間違えたのか。山口は自分の言動を振り返ってみたが、思い当たる節はなかった。

「えーっとツッキー? どうかした?」

 何も言わずにただ目を眇める月島の視線から逃れるように視線を彷徨わせて、読めない彼の心情を慮って眉を下げる。彼の顔を下から覗きこむと、不機嫌そうに細められた瞳とレンズ越しに視線が交わった。

「ちょっと来て」

「え?」

 不機嫌な表情のまま、月島が山口の学ランを引く。袖を引かれた山口は思わず素っ頓狂な声を上げた。場所が場所であることもあってすぐにその手は元の位置に戻っていったが、山口に月島の意思を伝えるには十分だった。

 もしかして一緒に行こうとしてくれているのか、と山口は思った。それならば不機嫌な理由も納得がいく。先に帰ってて、と言ったのが気にくわなかったのだろう。そうは言っても、山口の選択肢のなかにたかが忘れ物くらいで月島の手を煩わせるというものはなかった。

 だから山口は、あわててその背中を追いかけながら「一人で行くからツッキーは先に帰ってていいよ!」と叫んだのだ。けれども、月島はちょっと眉をしかめて「早く」と山口を急かすだけで、それ以上何かを言おうとはしなかった。

 しかし、月島の足が向かう方向を見て、山口は異変に気付く。なぜか学校とは反対のほうへ歩みを進めようとしているのだ。よくわからないままに山口はそのあとを追い続けた。

「ねぇ、ツッキーどこ行くの?」

 いくら話かけても月島は足を止めようとせず、そのまま日向達の横を通りすぎた。あれ、月島どこ行くんだ? って日向が後ろから大きな声で呼んでいるが、それも今は知らんぷりだ。後ろを振り返ろうとする気配すら見せない。

「あの、ツッキー?」

 遠慮がちに月島の後ろ姿に問いかけるが、やっぱり知らん顔を決め込んでいる。

 そんな月島は、ようやく目的の人物の元へ到着したらしい。キャプテン、と先輩に話しかけた。

「どうした、月島」

 澤村が立ち止まって不思議そうに問う。

「ちょっと部室に忘れ物したんで鍵借りてもいいですか」

 月島の言葉を聞いてあっ、と山口は思った。

「へっ、学校に取りに戻るのか」

 横から東峰が訊ねると、月島はうなずいた。

「もうじき暗くなるから気をつけなよ」と菅原。

「……ありがとうございます。ホラ、山口行くよ」

 月島はそう言うと、さも当たり前のように山口を手招きする仕草を見せてからそのまま足早に歩いて行ってしまう。月島はそう言ってしまえば、山口にはあとを追いかけるという選択肢はなかった。

「え、あ、うん? すみません、失礼します!」

 山口は、状況が上手く把握できないまま、とりあえず先輩たちに頭を下げ、すでに学校へ足を向けている月島の背中を追いかける。やはり先ほどの自分の考えは間違いではなかったらしい。たたっと小走りで月島に駆け寄って、もう一度名前を呼んだ。月島からの返事はなかったけど、彼は歩くスピードをゆるめて、山口に歩調を合わせてくれた。

「ねぇツッキーってば!」

 まっすぐ前を見つめているその横顔を見上げながら、同じ言葉を繰り返した。

「何? そんなに呼ばなくても聞こえるんだけど」

「ごめん! でも」

 学ランの裾を引っ張って月島に笑いかけた。

「ありがとう」

 月島は、大きなため息をひとつ零すと、無言のまま部室の鍵を山口に差し出した。

「なくさないでよね」というおまけ付きで。

 それが月島の照れ隠しであることはなんとなくわかった。彼は、同年代の人間に比べたら大人びた態度を取りがちだ。そのため、他人には無関心だと思われてしまうことも多いのだが、それが大きな間違いであることを山口は知っている。気を許した相手には人並みの気遣いだってする。表現の仕方が不器用で少々歪曲しているだけだ。




     ◇



「思ったより暗いね。ツッキーが一緒に来てくれてほんとうに良かった……」

 部室のある建物のほうへ行くと、どの部屋もすでに人気はなくてひっそりとしていた。そこは想像していた以上に薄気味悪く、今更ながらに月島が一緒に来てくれたことをとても感謝した。まったく我ながら現金なやつだ。

「誰かさんは鍵を持たずに行こうとするしね」

 月島が皮肉めいた口調で言うが、まさしく彼の言う通りであった。彼がいなければ、部室の鍵を持っていない自分はどうにもすることができなかっただろう。

「うぅ、あれはごめんね。……じゃあ取りに行ってくる」

 少しでもはやく帰れるように、と月島を階段の下に残してひとりで部室に向かうことにした。けれども、山口が駆け出そうとすると、その腕を月島がぎゅっと掴んだ。

「ツッキー?」

「そんなに急がなくて良い。というか一緒に上がれば良いじゃん。ここで待つのも寒いし」

「あぁ、そっか寒いよね。ごめん!」

 心なしか早口でそう言う月島の耳が赤くなっているのが見えた。見るからに冷えていて寒そうだと思った。

「いいって。僕が好きでついてきたんだから」

 そうでしょ? と優しい声色で言われ、頭部に感じる柔らかな振動。そんな風に優しい顔で頭を撫でられてしまえば、ボンと音を立てる勢いで顔が赤くなってしまうのも仕方のないことだった。

「つ、つつツッキー……!」

 茹でだこのように赤くなった頬を見られていないことを願う。けれども、くすくすと機嫌良さそうに笑っている月島の様子を見る限り、それは叶わぬ願いであるようだ。

 昔からそうだ。二人きりになった途端、彼は甘やかな恋人としての顔を覗かせる。そのたびに初恋を知ったばかりの少女のように心を揺さぶられて、山口は何も言えなくなってしまうのだ。今日も今日とて、真っ赤になって黙りこくってしまった山口を見て、月島は猫のように満足げに蜂蜜色の虹彩を揺らしていた。

 預かった部室の鍵を鍵穴に差し込んで無機質で重たい扉を開く。山口が入り口で靴を脱ごうとしてかがんでいると、すぐあとから入ってきた月島が電気をつけてくれた。

 人の気配がない部室はひどく殺風景だ。部屋を出る前の片付けが徹底されていることもあって、普段よりも全体的にものが少なく感じられた。

 山口は入り口に荷物を置いてから、部屋のなかに足を踏み入れる。最初に探すのは、さっきまで着替えていたあたりだ。月島は、入口で待つつもりであるようだった。

「あれ、ここにあると思ってたんだけどなぁ」

 けれども、目的のものがなかなか見当たらない。これでもない、あれでもない、と言いながら探していると、入り口で立っていた月島がローファーを脱いで畳に上がってきた。どうやら山口の姿を見て痺れを切らしたらしい。

「何探してるの?」

 ひょいと後ろから手元を覗き込まれる。

「うーん、明日提出のプリント」

 山口が答えると、月島はふらっと離れていってしまった。

「もしかして数学のやつ?」

 少し離れたところから月島がそう尋ねる。

「うん。部室に忘れたと思ってたんだけどなくって」

 山口がなおも探し続けていると、「ねぇ、山口」と月島に呼ばれた。

「なに、ツッキー?」

 そう答えて振り返ると、さっきまで遠くにいた月島は山口のすぐ近くにいた。

「わっ、」

 山口が驚いて声を上げる。対する月島は、一瞬だけ怪訝そうな表情をしたが、わざわざ深く追及しようとはせず、その代わりに山口に一枚のプリントを差し出した。

「これじゃない?」

「あっ、これだ!」

「数学のノートに挟まってた。今朝入れてたよね」

「えぇ、そうだっけ! すっかり忘れてた!」

 山口が「ありがとうツッキー」と泣き言のように言えば、月島は「どういたしまして」と涼しげな顔。

 そして、そのままの表情でこう言った。

「ねぇ、ご褒美ちょうだい」

「え、どういうこと?」

 きょとんとする山口。月島はそんな山口のすぐ近くでひざをかかえてしゃがみこんだ。楽しげに口端を上げる月島を見て、山口はおや? と思った。なぜなら月島がこのように悪い顔をしているときは、だいたい山口にとって良いことはほとんど起こらないからだ。長い付き合いのなかでそれはなんとなくわかっていた。淡い色をした瞳が電灯に反射しているのをぼんやりと見ていると、月島がふわりと唇を開いた。

「……こういうこと」

 ふっと月島が目を閉じる。山口は、艶やかな蜜を纏ったようにうつくしい瞳が隠れてしまったことに少なからず動揺した。けれども、そんな山口にも構わず、月島は次の行動を起こした。そう、まるでキスをねだるように綺麗な形の顎を突き出したのだ。

「つ、ツッキー?」

「早く。悪いと思ってるんだろ」

 薄く片目を開けた月島が挑発するようにこちらを一瞥した。二人とも座っているからいつもより少しだけ近い場所に月島の顔がある。なんだか不敵に笑うその表情がかっこよく思われて仕方なかった。何かに操られるように月島の学ランの袖を掴む。そして、緊張で震える唇を開いた。

「じゃあ目瞑って……」

「ん、」

 了解、と月島はもう一度しっかりと目を閉じた。

 とくとく、と鼓動が鳴る音が聞こえる。目の前には緩くまぶたを下ろした恋人の姿。自然と上を向いたまつげがちょっとだけ震えている。もしかしたら彼も緊張しているのかもしれない。そう思うと、ほんの少しだけ緊張が和らいだ。そして、改めて「好きだなぁ」と言葉にしても足りないほどの愛おしさがこみ上げてくる。きゅんっと胸の奥が高鳴り、余計に緊張が増した。

 けれども、今度は緊張だけではない感情が鼓動を速くしているのも事実であった。

 はやく彼とキスがしたい。自然とそう思っていた。

 山口は、月島の両腕をそっと掴み、その唇を重ねる。音もなく、それは重なり合った。

 寒い夜道を歩いてきたせいか、そこはわずかに乾燥していた。冷たい月島の唇と、緊張のせいで熱くなっている山口の唇が触れ合ってゆっくりと体温が混ざっていく。それはまるでアイスクリームがとろりと溶けていくようだ。

 柔らかな弾力に押し返されて、山口はすぐに唇を離した。数字で表せばたかが数秒程度の出来事であったのに、脳の奥が焼ききれそうなほどに身体全体が熱かった。

「ねぇ、ツッキー」

 キスしたよ、と小さく言えば、不満そうな瞳と視線が合う。蜂蜜の海の奥にある感情の名は、激情。あるいは。

「それだけ?」

 桃色の薄い唇を尖らせる月島。山口の目には、わがままを言う子どものように映った。しかしながら、その瞳が訴える「物足りない」という言葉の底に揺らめくは、大人になりかけた彼が抱く紛れもない欲望を孕んだ愛情の色だ。

 それでも、自分にしか見せないであろう可愛らしい仕草を見れば、山口の頬はだらしなく緩む。それを見てさらに不満げな表情をした月島が彼らしくない少し乱暴な手つきで眼鏡を外す。そんなさりげない仕草でさえもうつくしく、山口はひゅっと小さく息を飲んだ。

 そんなことをしていたから月島の手のひらが後頭部を引き寄せたときにも反応が遅れてしまったのだ。

「へ、ツッキー?」

 上半身がぐらりと月島のほうへ傾くのと、情熱的なキスを受けたのは、ほぼ同時だった。

「ん、っんむむ」

 月島は、いつの間にか畳のうえにぺたりと座り込んでいたらしい。そして、遠慮なく不安定な山口の身体を引き寄せた。腰のあたりを抱かれて否応なく月島にキスを強請るような体勢になってしまい、山口はかっと頬を火照らせる。

 彼とのキスは、まるで自分が被食者になったような気分になる。文字通り、彼に食べられてしまっているような感じ。はむ、はむっと月島が山口の唇を自分のもので挟む。遠慮なく加わる圧力のせいで窒息してしまいそうになって、風邪をひいたときのように頭がくらくらした。

「はぁっ、つっき、」

 離れたそのときに大きく息を吸おうとしても、その時間すら奪われて呼吸が月島によって貪りつくされてしまう。

「もうすこし口あけて」

 白んでいく意識のなか、言われるがままに口を開く。そうすれば熱くて柔らかい何かが舌に絡みついてくる。それが相手の舌先であることはすぐにわかった。

 二人分の濡れた吐息が室内に湿り気を帯びさせる。また、部室という色恋とは縁遠い場所であるということも、山口の羞恥心と背徳心を煽り、より一層その気持ちを高ぶらせた。激しくなる口づけに比例して、身体の温度がどんどんと高くなっていった。

「ぁ、んふ……っきぃ」

 まるで眩しいほどに色鮮やかなキャンパスに、ぽたり、ぽたりと濃紺を垂らすように、徐々に山口の思考が塗りつぶされていく。目の前にいる彼のことしか考えられなくなる。いっそこのまま彼のことで頭がいっぱいになったまま眠りにつけたら幸せだなぁ、と思った。

「なに、考えてるの、」

「ふぁ、え?」

 一瞬だけ唇が離れて極々近い距離で視線がぶつかる。その瞳は、金色と言うにはあまりにも透き通っていて、黄色と表現するにはいささか艶やかすぎる。山口は、うつくしい色の瞳に囚われて目が離せなくなった。そして、その色に囚われて数秒後、山口はふと気が付く。

「今、なんか別のこと考えてたでしょ」

 それは、月島が発した言葉によって確信に変わる。丸くも涼やかな瞳には、先ほどまでとはまた違うまったく別の色が含まれていた。嫉妬、だ。

 僕とのキスのあいだに他のことを考えるなんていい度胸だね、とでも言いたげな視線だ。しかしながら、それは誤解だ。なぜなら山口の頭のなかは、四六時中月島のことでいっぱいなのだから。

「違うよ」

 そう言って微笑むと、月島は毒気が抜かれたように首をかしげた。

「このままツッキーでいっぱいになったら幸せだなって」

 思わずへにゃっと笑う。それを見た月島は、嬉しいような、困っているような微妙な表情をした。

「馬鹿」

 こつんと頭をぶつけられて文句を言おうとしたけれど、かち合った視線がたっぷりと熱を孕んでいて何も言えなかった。言葉を忘れてしまったかのように彼を見つめ続けていると、言葉の代わりにもう一度キスをされた。

 月島と触れ合うと、熱に浮かされたように身体全体がふわふわと頼りないものになってしまう。

 まるで大空に浮かぶ、ちぎれ雲のように。

 濡れた舌が絡まってきて、はしたない音が鳴らされるのを遠くに聞きながら、山口はひたすらに月島のキスに応えようとした。それを繰り返していたら、次第に頭のなかが馬鹿になったみたいに目の前の行為のことしか考えられなくなっていった。発そうとする言葉のほとんどは、月島によっていとも簡単に飲み込まれてしまう。それでも短い息継ぎのあいだに、まるでまじないのように月島の名前を呼んだ。言葉と言うにはあまりにも頼りないものであったが、たまに彼がそれに応えて名を呼び返してくれることが嬉しくてたまらなかった。

「つっき、くるし、い」

 けれども、いつになっても深いキスには慣れない。ずっと息を止めているせいか、すぐに酸素が足りなくなってしまうのだ。口を塞がれているのだから仕方ない、というのがもっぱら山口の主張だ。月島は鼻で呼吸をすれば良いと色気のないことを言うけれど、いつまで経ってもそれが山口にはうまくできなかった。

 酸欠で山口が軽く意識を手放しそうになる直前、月島の唇が山口のものから離れていった。焦点が合わず、ぼんやりとする視界のなかで、月島の舌先から伸びる透明の糸を見つめていたら、それが目の前でぷつんと切れた。それと同時にその糸が今しがたまで行われていた破廉恥な行為の名残であることに気付き、山口はひどく赤面した。

「顔真っ赤」

 くすくすと笑う月島は、いつもと比べると微かに頬を火照らせてはいるものの、ほとんど呼吸を乱してはいなかった。その様子がまた山口には魅力的に映った。自分にはもったいないくらい素敵な人だ、と山口は思う。

 月島と交わすキスは、まるで自分が自分でなくなってしまうかのように甘くって、ひたり、と触れ合った部分から溶けてしまうのではないかと思うくらい身体の芯が熱くなる。頭のなかがふわふわとして、彼のことしか考えられなくなる。それは少しだけ怖くって、でもとても魅力的だ。

 月島の唇が離れていってしまって、なぜか「物足りない」と思った。もっと上を求めてしまったのだ。今までだってこうして唇を重ね合わせてきたのに、このような気持ちが生じたことはなかった。けれども、これまで感じなかったことのほうが不思議だったのかもしれない。

 瞳の奥で揺らめく感情に直接この手で触れてみたいと思った。きっと一度そこへ手を伸ばしてしまえば、もう後戻りはできないだろう。しかし言葉よりも、口づけよりも、もっと深いところにいる彼に近づきたいと思ったのだ。

 こうして山口は、この日を境にして月島と文字通りひとつになることを望むようになった。もっと欲しい。もっと深いところで彼を感じたい。それはいわば一種の本能のようなものだった。彼に恋をして初めて感じた感情だった。




     ◆



 ――ねぇ、ご褒美ちょうだい。

 だなんて。本当に自分らしくない。月島は思った。

 けれども、ころころと変わる山口の表情を見ていると、いてもたってもいられなかったのだ。しかも、なぜかその日は帰宅してからも胸の奥で燻る火が消えそうになかった。ゆっくりと唇を離して見つめ合ったときの山口の瞳の色が忘れられないのだ。

 月島とは違って濃い色の虹彩を持つ山口の瞳。その濡れたように艶やかな瞳が部屋の明かりに反射して、きらきらと星のしずくを全体に纏っているようだった。

 小学生のころから無自覚とはいえ山口に慕情を抱いていた月島であったが、付き合いはじめるまで月島は山口のことを特別性的な目線で見ていたわけではなかった。小学六年生のときのキスだって、あまりにも純粋な山口にちょっとした悪戯心が湧いて、何も知らないであろう山口の唇を気まぐれに奪ってみただけだ。ただ思った以上に山口の唇が柔らかく、他の誰にも触れさせたくないと思ったのは、月島にとっても計算外のことであったのも事実だった。

 しかし、心身の成長とともに、彼を見る目がどうしても色気を孕んでしまうのは、仕方のないことだった。





 中学二年生のとき、山口から告白されて二人は付き合うようになった。

 付き合って初めてのキスは、月島の部屋で、した。

 彼と付き合いはじめてから一週間ほどが経った日、付き合って初めて山口を家に招いた。それまで勉強会と称して何度も二人っきりの時間を過ごしてきたし、お泊まりだってしたことがあったのに、その日月島の家にやってきた山口はわかりやすいほどに緊張していた。リビングで彼を出迎えた月島の母親を見て明らかにほっとした顔をするものだから、つい自分の母親にまで嫉妬してしまって、すぐに彼を自分の部屋に連れて行ったことは、記憶にもよく残っている。今思えば、あの行動はひどく大人げなかったかもしれない。

 いつもならリビングでケーキやお菓子を食べながら月島の母と少し話をしてから二階に上がるのが普通だった。だから山口はいつもと違う月島の行動に驚いたようだった。部屋に来てからも「どうしたの、ツッキー?」と不思議そうに顔を覗き込んでくる山口に「勉強するんでしょ」と言ってはぐらかした。そして、常よりも少し速いペースで流れる心音は、ペンケースをいじる音で誤魔化した。

 しばらくしたら心臓も落ち着いてきて、月島にもいつもの余裕が戻ってきていた。しかし、山口は月島を落ち着かなくさせる天才だったようだ。黙々と勉強していた山口が「わからないところがあるから教えてほしい」と月島の隣に移動してきたのだ。

 山口が近づいた瞬間、ふわりと良い香りがした。それは例えるならば、まるで春の花のように柔らかな香りだった。

「お前、香水つけてる?」

「え? つけてないよ?」

 思わずそう聞けば、不思議そうに山口が首をかしげる。そのたびにふわふわと甘い香りがするような気がして、月島は眩暈がした。再び、心臓が壊れてしまうのではないか、と思うほど月島のものが激しく脈打ちはじめた。

「そっか。で、ここの公式だけど」

 公式の説明をするふりをしながら、山口にバレないように小さく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。それから改めて山口のほうを盗み見てみれば、彼のほうもなんだか上の空であることに気が付いた。

「ねぇ、聞いてた?」

 そう問いかけると、はっとした山口が月島を見る。

「はっ、うぅごめん。もう一回教えてもらえる?」

 ごめん、と視線を上げた山口が思ったよりも近くにいた。目が合うと、山口はあわてて顔を逸らそうとした。

「ん、いいけど。……でもその前に」

 たまらなくなって気が付けば手を伸ばしていた。

 山口が家に来たときからずっとそわそわしていたのは、山口だけでなく月島も同じだった。そして、いつもより近い距離にいる彼を見て我慢できなくなってしまった。

 月島が肌に触れた途端、山口は驚いたように瞳を瞬かせた。


 ――どうしよう、かわいすぎる。


 月島は、ごくりと生唾を飲んだ。そのままそっと顔のラインに手のひらを添わせ、親指でそばかすの散った頬をなでると、そこはぽんっと桜色に染まった。目元までほんのり同じ色に染めているのは、わざとなのか、たまたまなのか。明らかに後者であることは間違いないが、そんなこと今はどうだって良い。だって、目の前では山口がキスを待ってくれているのだから。

「やまぐち、」

 ぎゅっと目を瞑った山口を見ていると、柄にもなく緊張して手が震えた。近いその距離では、目の前で震えている山口のまつげの先まで見えるようだった。手元がぶれてしまわないように親指で唇をそっとなぞる。そして、ゆっくりと顔を近付けた。

 柔らかくてわずかに湿った感触。記憶と相違ない柔らかさ。けれども、それは記憶よりもずっと甘かった。一瞬感じたその甘さに驚いて月島が思わずその身を揺らすと、月島の眼鏡が彼の鼻先に当たってしまい、視界がぶれた。

「あ、いて」

「いたっ、」

 二人がそう声を上げたのも同時で、目を開いたのも同時だった。そして、クスクスと視線を交わして笑いはじめるのも同じタイミングだった。想像していたように上手くはいかなかった。けれども、彼が嬉しそうに笑っていたから、ただそれだけで良いと思った。

「もういっかい、したい」

「うん、いいよ。ツッキー」

 山口が目を閉じたから、月島もゆっくりと顔を近づけた。今度は眼鏡を外したから失敗しなかった。恋人として初めてのキスをした直後はなんだか照れくさくて、お互いに見つめ合ってからすぐに視線を逸らした。

 山口は見たこともないような表情をしていた。

「勉強、しよっか」

 山口が真っ赤な顔でそう言うので仕方なく教科書と向き合うことにした。部屋のなかには、照れくさいようなむずがゆいような甘ったるい空気が流れていた。

 まさか山口があんな色っぽい顔をするなんて思わなかった、と月島は心のなかで独り言を言う。心臓が大きな音を立ててうるさくて、その日はもう勉強になんて全然集中できなかった。





 そんな懐かしい思い出に浸っていると、その顔つきが記憶よりも大人びて、そして今の山口の顔に変化していく。

少し上がった息。可哀想なほど真っ赤になった頬。息を止めていたせいか、黒っぽい瞳には涙の膜が張っていて、ツッキー、と自分の名前を呼ぶ声はあまりにも甘ったるい。

 ぞくり、と再び月島の背筋を何かが走った。

 それは慕情と呼ぶには、あまりにも衝動的で熱情的だ。

 今日の口づけをきっかけに、月島のなかで今までとは異なるある想いが生まれていた。

「……あんな表情するなんて反則でしょ」

 キスをしたあとの山口は、いつもひどく色っぽい表情をする。それはいつものことだ。けれども、あの日の山口の表情は、今まで見たよりも群を抜いて色気に満ちていた。

 何が彼をそうさせたのか、月島にはわからない。ただその表情を見て、もっと彼の別の表情を見てみたい、とそう思ってしまったのだ。

 例えば、身体を繋いだとしたら?

 彼はどんな表情で自分を見つめるのだろう。

 彼のことをもっと知りたい、と思った。




     ◇



 すっかり冬の風は北国へ行ってしまって、ここ東北の地にも春がやってきていた。これまで枯れ木が並んでいた土手でも桜の花が満開になっていて、生暖かい風が吹くたびに薄紅色の花弁がひらひらと宙を舞う。春は好きだ。桜が舞うなかを歩く月島の姿がとても綺麗だから。

 坂ノ下商店へ向かうまでの坂道でもちょっと目を向ければ黄色や桃色、藍色その他様々な色を纏った名も知れぬ花たちがたくさん咲いているのを見つけることができるだろう。

 ただ山口に今までと違う想いが芽生えたからといって、突然月島と山口の関係が変化したかといえば、そうでもなかった。

 いつものように毎日一緒に登校して、部室では隣で着替えて朝練に参加して、またくだらないことを言いながら着替えて、一緒に並んで教室へ向かう。教室の座席は離れているから授業中だけは月島から遠くなってしまうが、たまに廊下側の自分の座席から窓際の彼のほうを見てみるという楽しみもある。こっそり見ていると目が合うこともあれば、まったく月島が気付かないこともある。月島が気付いたときは口パクで一言二言会話を交わしてから授業に戻る。目が合わなかったときは、ドキドキしながらその横顔を見つめてみる。黒板をまっすぐ見る視線だとか、少しけだるげなその姿勢がとても好きだった。シャーペンを握る白い指は、今日もぞくりとするほど綺麗だ。

 午前の授業が終われば、当然のように一緒に食事をする。いつも誘うのは山口のほうから。それは、日常と化していたから何も気にならなかった。ここでもくだらない話や部活のことを話す。運がよければ、月島がおかずを分けてくれることもあった。そういうときは、山口も自分の弁当箱から月島の好きなものを選んで、弁当箱のふたに乗せてあげるのだ。彼のお気に入りは、甘く煮詰めた芋煮だ。

 午後の授業は、眠たいことも多くてウトウトしてしまうこともある。足をつねったり、手の甲をつねったり、色々と戦いながら山口は授業を受ける。ふと眠気が遠のいたときに月島のほうを見ると、彼はいつでも眠たそうな素振りなんて少しも見せず、まっすぐに黒板を見ている。それは出逢ったころから変わらなくて、いつでもすごいなぁと思って山口はその姿を見ていた。

 今は、午後授業のなかでも強敵なもののひとつに入る英文法の時間だ。新しく習ったそれに悪戦苦闘しながらふと無意識に月島のほうを見てみた。英語が得意な彼は、すでに問題を解き終わったらしく、いつものように涼しい顔で窓の外を眺めていた。ただあの顔は何も考えていないときの顔だ。単に暇だから外を眺めているのだろう。

 これまでどれだけ月島の横顔を見てきただろうか。

 いつでもまっすぐに前を向く横顔に憧れて蜂蜜色をした瞳と同じ景色を見てみたいと思ってしまった。その願望を抱いたときにはすで山口の恋は芽吹いていたのだろう。その花が小さなつぼみを膨らませるまで、山口自身はてんでその存在に気が付かなかったわけだけれど。

「お、月島はもう解き終わったか? じゃあ問1をお願いしようか」

 山口が思い出に耽っていると、窓の外を見ていた月島を目ざとく見つけた先生が彼を指名する。すると、ぱっと前を向いた月島がげっという表情で先生のほうを見た。その表情がおかしくって、山口もついひとりで笑ってしまう。もちろんこっそり、だ。けれども、それは自分で思っているほど「こっそり」ではなかったようだ。

「山口、にやにやしてる」

「え、嘘!」

 隣に座るクラスメイトに言われ、山口はさっと表情を引き締める。しかし、その話し声は運悪く教師の元にも届いてしまったらしい。

「お、そこの二人も余裕そうだなぁ。じゃあ問2と3を頼んだぞ」

 うわぁ、まだ解いてる途中なのに。山口の悲痛な叫び声は届くわけもなく、教師は残りの問題を別の生徒に当てていく。山口は、へなへなと机にうなだれた。それでも気持ちを入れ替えて、とりあえず問題を解こう、とテキストと向かい合おうとした。その瞬間、ふと視線を感じて顔を上げれば、にやにやと楽しげに笑う月島と目が合った。

 自業自得とか思ってるんでしょ、もう! と心のなかでぼやく。でもツッキーのせいでもあるんだからね、と盛大に罪をなすりつけていると、彼の口が小さく開いた。

「ん?」

 じっと見ていれば、それはゆっくりと動きはじめる。

 ――がんばれ。

 そう薄い唇が聞こえない言葉を紡いだのだ。柔らかな笑顔を見せる月島を見て、今度は先生に問題を当てられたときとは違うドキドキで心臓がはやく脈を打つ。

「……ツッキーずるいよ」

 声にならないつぶやきは教室の喧騒に紛れてしまった。




     ◆



 一週間のうちで肌寒いと感じる日がぐっと減って、東北にも遅い春がやってきていた。春はわりと好きなほうだ。桜が舞うなかを歩く山口がとても嬉しそうに笑うから。

 そんなある日、両親が母親の実家に帰省する話が上がった。わざわざ言うまでもなく、月島は部活があるのでひとりで留守番することになる。

 これはチャンスだと思った。そこで月島は両親が帰省する日を狙って、山口を泊まりに誘うことにした。

 もちろん山口を泊まらせることについては両親にも了承をもらったので何ひとつ問題はない。昔から変わらず息子と仲良くしてくれている山口に対して、両親は良い印象を持っているらしく、特に山口を可愛がっている母親に関して言えば「今度は私がいるときにもおいで、って忠くんに言っておいてね」とまで言い出す始末だ。

 あとは月島が山口をきちんと誘えるかどうかだけが問題だった。ちなみに言っておくが、こちらの意味の「誘う」という単語に不埒な意味はまったく含まれていない。





 両親の帰省が決まった次の日。さっそく月島は山口に泊まりの件を言い出すタイミングを見計らっていた。目標は二人きりで昼食を食べているときだ。あくまでもさりげなく、と月島は自身に再度そう言い聞かせて、こっそり深呼吸した。

 チャイムが鳴り、午前の授業が終わったことを告げる。数学教師が今日はここまで、と言うのを合図にして、クラスの皆が一斉に騒がしい音を立てて教科書やノートを机にしまいはじめる。ちらりと盗み見た山口もそれは同じだった。先ほどまで眠たそうにあくびをしていたのに、今は背筋をしゃんと伸ばして鞄をがさごそと触っていた。月島もノートと教科書をのんびりとしまいながら、山口が自分の席に来るのを待った。ツッキーご飯食べよ! と嬉しそうに駆け寄ってくる姿を想像して少し気分が和らぐ。

 それからほどなくして想像したとおり、ツッキーご飯食べよ! と騒がしい声が聞こえてくる。一瞥して、うんと返事をしただけで山口はとても嬉しそうに笑っていた。

 山口はいつものように月島の前の席に座る。弁当を開きながら話しかけてくる山口に相槌を打ちながら、月島は話を切り出すタイミングを見計らっていた。身体を捻るようにして月島と向かい合って座っている山口は、月島の心のなかの葛藤を知るはずもなくて、いつものようにぺらぺらと話をしている。変人コンビの片割れほどではないにしても大袈裟な身振り手振りで話をするものだから、まるで山口の機嫌に合わせててっぺんの一束の毛も楽しそうに揺れているように見えた。

 いつも不思議に思うのだが、この毛は持ち主の心情で表しているのだろうか。ツッキー、と彼が駆け寄るときにふわふわと揺れるそれが嫌いではなかった。

 山口は食べるのもそっちのけで話をするものだから、先ほどから全く箸が進んでいない。つまんではまた弁当に戻されているミートボールにそろそろ同情してしまうくらいだ。まぁ、その原因が自分の存在なのだから、決して悪い気はしていないし、それを注意する気もない。

「ねぇ、」

「なぁに、ツッキー」

 会話の流れを無視して唐突に話しかけた月島に対して、山口は少し意外そうな顔をする。けれども、今の月島にはそれを心配するだけの余裕なんてなかった。それでも月島は何気ない風を装って、「うち、泊まりにくる?」と口にしてみた。いつも遊ぶときは山口から誘われることが多いので、こんな些細なことでも心臓はバクバクと暴れていた。それでもそれを勘付かれないように涼しい顔を崩さないように努力した。だって、自分ばかりドキドキしているなんてちょっと悔しいじゃないか、というのが月島の主張。

「えっ、お泊り? ツッキーの家に?」

 山口は、突然の誘いに驚いているようだった。小学生のころからよく互いの家で遊んでいた月島たちだけれど、実際に泊まった数はさほど多くはない。山口が珍しがるのも不思議なことではなかった。ぽかんと口を開けて間抜けな顔をしているので、そこに未だ同情を誘っている例のミートボールを詰め込んでやったら、あわてて顔を赤くしていた。それを誤魔化すようにちょっと俯いているけれどまったく隠せていないところが彼らしくて、月島はつい笑ってしまいそうになる。恥ずかしそうに頬を染めている姿を見て満足したので、自分もおかずを口に運びながらこっそり口端を上げた。

「最近来てなかったでしょ」

 一度口にしてしまえば、するすると言葉が出てくる。先ほどまでの緊張はどうしたのか、というくらい。弁当箱の空白部分を見つめながら、もぐもぐと口を動かしている山口は、なんだかハムスターやリスの類のように見える。にっと笑ったときに見える前歯もそれっぽいから、もしかしたら前世はげっ歯類だったのかもしれない。

というのは冗談にしても、そんな山口を見ながら食べる食事はなかなか悪くなかった。

「そうだね。ツッキーの家にお泊りなんていつぶりだろ」

 口にものがなくなってから、山口はへらっと笑う。わくわくした声で言う山口を見る限り、泊まりが嫌ではないらしい。彼にバレないようにほっと息をついた。そして、どうやら赤くなった頬には気付かない体でいくようなので、こちらから深くは突っ込まないことにした。

「今週末とかどう?」

「うん、空いてるよ!」

 楽しみだなぁ、と頬を緩ませている山口。あまりにも能天気なのが悔しくて、両親が家にいないことは、当日まで黙っておいてやろうと思った。

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