第一章 彼だけのヒーロー




      ◇



 山口がまだ小学校一年生だったころ、彼の母はいつも寝る前に物語を読み聞かせてくれた。それは白雪姫であったり、シンデレラであったり、はたまた図書館で探しても見つからないような遠いとおい国のおとぎ話であったり。

 物語に登場する英雄や王子たちの姿は、他の同年代の子どもたちと同じように、山口の目にも憧れの対象として映った。おとぎ話の世界はいつだってきらきらと輝いていた。

 もしも自分があんな風に強いヒーローだったら。

 もしも自分が悪者を退治しにいくことになったら。

 そんな仮定を想像しては、何度もそれを夢に見た。

 母親と過ごした夜の数と同じだけ、山口は物語を知っていった。小学二年生になるころには、自分の部屋を与えられるようになったので、その時間は失われてしまったが、山口のなかでそのヒーローたちはずっと生き続けていた。

 ただし、その数あるおとぎ話のなかで、山口がどうしても好きになれない物語が一つだけあった。

 それは人魚姫、だった。

 最後まで人魚のお姫様は幸せになれないし、人魚姫が一目惚れした王子様はあっけなく魔女に騙されてしまうような、本当にどうしようもないやつだ。山口は、この悲しい物語を好きにはなれなかった。

 初めて人魚姫の話を聞いたとき、その物語の結末を不思議に思った山口は、どうして人魚姫は死んじゃったの? と母親に向かって尋ねた。彼女は少し考えるように首をかしげて、それからすぐに答えをくれた。

「自分よりも王子様の幸せを願ったからよ」と。

 まだ幼かった山口には、その言葉が持つ意味を理解することはできなかった。自分の幸せよりも王子の幸せを願った人魚姫の気持ちは到底わからなかった。だから勝手に想像を膨らませる以外の方法はなかった。山口は、人魚姫が王子様と結ばれなかったのは、きっと人魚姫が悪い魔女に声を奪われていたせいだと考えた。

 そして、漠然と思った。言葉を使って話すことができなければ、自分の気持ちすら伝えることができないのか、と。

 人間である王子と同じ足を持つことを望んだ人魚姫は、魔女によってそのうつくしい声を奪われてしまう。そして、王子と再会することが叶ったものの、それを伝えることができなかった人魚姫は、最後まで王子様に愛されることを知らないまま、儚い泡となって海のなかへ消えてしまう。

 人魚姫に己の気持ちを伝えるすべがあれば、きっと物語は変わっていただろう。そう思わずにはいられなかった。





 ――月島と山口の出逢いは運命だった。

 そう言えば、月島はどんな反応をするだろうか。

 呆れたようにため息をつく? あるいは、子どもみたいなこと言っちゃって、と一蹴する? いや、案外優しいところのある月島だ。お前がそう思うならそうなんじゃない? と言って可笑しそうに眉を上げてくれるかもしれない。

 そもそも山口と月島との出会いは偶然としか言いようのないものだった。現にしばらく経って再会を果たしたときにも、彼は山口のことを記憶していなかったくらいだ。

 けれども、たとえ忘れられていたとしても、確かにあの日から月島は山口にとってのヒーローとなったのだ。

 気が付けばその背中を追っていた。気が付けば、隣にいることが当たり前になっていた。そんな隣にいることが当たり前になったある日、山口はふと月島に問うてみたのだ。

「ねぇ、」

 隣の月島が読んでいた本から顔を上げ、山口のほうを見た。目が合うとすぐにその視線は手元の書籍に戻されてしまうが、その瞳が先ほどまでのように活字を追うことはない。山口の話にきちんと耳を傾けてくれているのだ。

 山口は言葉を続けた。

「どうして人魚姫と王子様は両思いだったはずなのに、幸せになれなかったんだろう?」

 忘れようもない。

 小学六年生の冬、図書室での出来事だった。

「は?」

 月島は、突然投げかけられた質問に面食らったようで、蜂蜜色の瞳をぱちぱちと瞬かせていたが、山口の手に持たれた「アンデルセン童話集」の文字を見てようやく合点がいったようだった。あぁ、と納得したようにつぶやいた。

「山口はどう思うの?」

 読んでいた本を閉じて、月島は山口に尋ねた。

「わかんない。でも、なんか怖いなぁって」

「なんで怖いの?」

 今日の月島はやけに食いつく、と思った。不思議に感じたが、長年の漠然とした恐怖を克服する良い機会かもしれないと思った山口は、幼いときから抱えている不安を打ち明けてみることにした。

「もしも、もしもだよ。俺も人魚姫みたいに口が聞けなくなっちゃったら、ツッキーに好きだよって言えなくなっちゃうのかなって。そんなの、悲しいよ……」

 笑われるかな。そう思ったが、月島は真面目な表情を崩さなかった。そしてそのまま小首をかしげて尋ねる。

「山口は僕のことが好き?」

「え? 好きだよ!」

 なぜ月島が突然そんなことを聞いてきたのかわからなかったが、山口は深く考えないまま自信満々に答えた。

 月島は、あっそ、とたいして興味がなさそうに答えたあと、少し考えるような素振りを見せた。そして山口を見る。

 山口は、その不思議な色をした瞳を見つめ返した。

「人間世界にやってきた人魚姫が、憧れの王子に好きだと言えなかったのはなんでだと思う?」

「それは、お姫様が声を魔女に奪われていたから……?」

 月島の問いに対して山口は悩みながらも答えた。

 違うね、と月島が即答する。

「ここで最初の山口の質問に答えるね。両思いであるはずの二人が結ばれなかったのは、人魚姫と王子が言葉以外に好意を伝え合う方法を知らなかったからだよ」

 すらすらと彼の唇から流れ出す言葉は、まるで知らない国の言葉で紡がれた呪文のようだ。正しい意味が理解できないままに、山口の右耳から左耳へと抜けていってしまう。

「へ?」

 思わず間抜けな声を出した山口を見て、月島は少し可笑しそうに笑いながらこう言った。

「声が出なくても好きって気持ちは伝わるってことを人魚姫は知らなかったってワケ」

 月島がにっと唇を引いて意地悪く笑う。山口はますます首をかしげた。

「どういうこと?」

 そう尋ねれば、月島は少し考えたあとで、こう言った。

「試してみる? 僕と山口で」

 山口は何もわからないままうなずいた。

「じゃあ目つぶっててよ。僕が開けていいよ、って言うまで開けちゃだめだからね」

「うん、わかった!」

 そのときの好意の意味を知ったのは、その数ヶ月後のことで。たまたま見たドラマでは、大人の男女が唇と唇をくっつけて、好きだ愛している、などと囁き合っていた。

「もしも山口がしゃべれなくなっても、僕にはちゃんとわかるよ。だからもう怖くないでしょ? あ、でもこれは僕以外にしちゃだめだよ。効果がなくなっちゃうから」

 そんな彼の言葉に対して自分がどのような返答をしたのか。そんなことはすでに記憶の彼方にあって思い出すことはできない。ただ彼がやけに神妙な面持ちをしていたことだけは、はっきりと山口の記憶にも残っていた。


 今となってはひどく懐かしい思い出だ。きっと彼とて、もう覚えていないだろう。それでも山口はその出来事を忘れられずにいた。あの日の言葉は、確かに山口の漠然とした不安を取り除いたのだ。

「俺も案外単純かもなぁ……」

 山口は、そうひとりごちながら、ゆっくりと真新しい学ランに手を通した。

 今日は、烏野高校の入学式だ。

 天気予報によると、今日一日は晴れるらしい。朝起きて窓から見上げた空は雲ひとつなく真っ青で、まるで空までもが山口たちの新しい門出を祝ってくれているようだった。




      ◆



 いつだって周りの人間は、月島蛍のことを過大評価しがちである。しかし、月島自身としては他人から褒められるたび、この人は一体自分の何を見てそう思うのだろう、と単純な疑問を抱いていた。

 勉強ができてかっこいい? 授業を真面目に聞いているのだから当たり前だ。

 背が高くて羨ましい? そんなの遺伝子の問題だろ。

 わざわざ口に出すような無礼なことはしないが、これが月島の考えであり、かつ、これからも変わることはないであろう主義主張だ。

 そんな人間のなかに時々おもしろいほどに月島を褒めて褒めて褒めちぎるようなもの好きもいる。

 その最たるものが幼なじみである山口だった。

 小学生のころに出逢って、なぜか仲良くなって、一日の大半をともに過ごすようになった。彼と出逢ってもう数年が経つが、彼の悪癖はなおるどころか年々ひどくなっている気がするくらいだ。

 最初は、背が小さくておどおどしてて何だか変なやつだな、というなんとも失礼な印象くらいしかなかった。昔から周りより頭ひとつ分背が高くて、背の順で並べば必ずいちばん後ろだった月島。それに比べて小学生のころの山口は、真ん中よりも少し前にいるくらいだった。最も月島と山口の身長差がいちばん大きかったのは、おそらく小学生のころだろう。

 なぜなら中学に入った途端、急に山口の身長が伸び始めて、その差がみるみるうちに小さくなっていったのだ。山口の背が高くなるように、月島のほうも年々成長していたため、身長を抜かれるということはなかったが、出逢ったばかりのころよりも顔の高さがぐんと近づいたのは事実だった。そして、気が付けばクラスでトップ2の高身長コンビになっていた。

 視線を交わす物理的距離が縮まっても、山口は相変わらず月島に羨望の眼差しを投げかけ続けた。昔より近いところから浴びせかけられるその視線は、ほんの少し気恥ずかしく感じられるくらいだった。そんな中学生活も二年目を数えるころになると、まっすぐすぎる彼の視線にも慣れ、それが心地良く感じるようになってきた。

 そんな山口に知らぬ間に絆ほだされていった月島が「山口の思う理想の月島蛍であるため」により一層の努力をしていることを彼は知っているのだろうか。

 例えば、それは出逢って初めての夏のある日のこと。

 山口は、月島の家に泊まりで遊びに来ていた。その翌朝、朝の七時頃から一斉に鳴きはじめる蝉たちのせいで月島は起きる予定時刻よりもかなりはやく起きてしまった。目が覚めてしまったものはしょうがないので、月島はひとりで先に着替えや身支度を済ませることにした。そのときに知ったのだが、どうやら山口は朝が弱いらしい。月島がごそごそと身支度をしていても、全く起きる気配を見せなかった。

 結局約束していた七時すぎに彼を起こした。ようやく起きてきた山口は、しばらく眠たそうに布団のうえで座っていたが、すっかり着替えを終えている月島の姿を見て、驚いたように目をぱちぱちとさせた。

「あれ、ツッキーもう着替えたの? あれ、俺寝坊した!?」

 いや大丈夫、と返事をすれば、山口はほっと安心したようだ。そして、ひとりで考え込んでからこう言った。

「ツッキーは早起きも得意なんだね!」

 寝ぼけた頭で考えた結果、山口は、月島が早起きなのだという考えに行き着いたらしい。

 月島からしてみれば、蝉で安眠が妨害されただけに過ぎないのだが、そうと信じてやまない山口は顔いっぱいに尊敬の念を浮かべている。あまりにきらきらとした目で見るものだから、蝉に起こされたとは言えず、月島は「まぁね」と曖昧にうなずいた。

「そっかぁ、すごいなぁ! 俺、早起き苦手なんだ……」

 あほ毛は嬉しそうに飛び上がったり、しょんぼりと萎れたり、朝から忙しいやつだと思った。けれども、不思議とイライラとはしなかった。

 そして、その日から月島の得意なことのひとつに「早起き」が付け足されることになった。本当のことを言えば、月島が朝に強いのは蝉がうるさく鳴き喚いている真夏の間だけだったし、むしろ寒いのが苦手なので冬などはなかなか布団から出てこないタイプだったのに、日々の努力を積み重ね、高校生となった今ではすっかり朝型人間になっている。もう真冬の早起きだってまったくもって苦ではない。これもすべて山口が一方的に抱いている理想の「月島蛍」像を追い求めた結果なのだ。

 しかしながら、山口が「山口の思う理想の月島蛍」になるための月島の努力のすべてを知らないわけではない。実際、彼は月島の重ねてきた小さな努力の大半を知っているだろう。そして彼はそんな月島に「ツッキーは努力家だね」と言って微笑みかけるのだ。そう言われると、月島は柄にもなく舞い上がってまた勉強やその他のことに精を出す。言霊とはまさにこのこと。

 小学生のころ、兄の話を喜々として話していた月島に、山口は「明光君はツッキーのヒーローなんだね!」と嬉しそうに笑っていたが、月島からしてみれば、本当のヒーローは山口だった。月島蛍がアイデンティティーを保っていられるのも、山口忠という人間の存在があってこそ、なのかもしれない。


 月島は、頭のなかで持ち物リストを確認してから、下ろしたばかりのローファーに足を入れる。自分の足にぴったりと合ったそれに満足しながら腕時計を見れば、山口と待ち合わせしている時間のおよそ三十分前だった。今から家を出れば、きっと山口の家に着くころには、彼の準備も終わっているだろう。

「いってきます」

 真新しい学ランに身を包み、愛用しているヘッドフォンをつけて家を出た。今から月島が目指すのは、学校でもなく待ち合わせ場所の公園でもない。それは、学校とは反対方向にある幼なじみの家だった。

 今日は烏野高校の入学式だ。

 玄関を出て空を見上げれば、雲ひとつない青空が広がっている。肌に感じる温度はあたたかいが、日差しはあまり強くない。今日はとても過ごしやすい一日になりそうだ。





「ちょっと待ってね。忠ったら、今朝からそわそわしすぎて全然用意終わってないの」

 そう言って、山口と同じ真っ黒な瞳を細めて困ったように笑うのは、山口の母親だった。その表情は息子にそっくりだった。いや、逆か。山口が母親に似ているのだ。

 ただ頬に散るそばかすは、彼の父親から受け継いだものであることを月島は知っていた。あと、ちょっと三白眼なところも。元々の顔の作りは父親に似ているのだが、全体的な雰囲気は母親にとてもよく似ているのだ。

「いえ、大丈夫です。まだ入学式までは時間があるので」

 そもそも中学と高校は逆の方向にある。だから高校入学にあたって、月島と山口は新しい待ち合わせ場所を決めなくてはいけなかった。二人で相談して考えた結果、二人の自宅の中間距離にある公園の前で待ち合わせすることが決まった。本当なら入学式である今日からそこで待ち合わせするつもりだったのだが、いつもよりも三十分はやく家を出た月島は、待ち合わせ場所を通り過ぎ、そして山口の自宅まで来ていた。

 なんでそんなことをしたのか? と問われれば、なんとなく思いついたから、としか答えようがない。もちろん今朝ふいに思い立ったうえでの行動だったので、山口本人はこうして月島が迎えに来ることなど知るよしもなかった。 

 自分と彼が待ち合わせをしている時間から逆算して、月島は、山口が家を出ると思われる時間の五分前に山口家の前に着いた。けれども、十分経っても彼が出てくる気配がないので、痺れを切らしてチャイムを鳴らしたという次第だ。

「忠〜、蛍くん来てくれてるわよ」

 母親が階段の下から二階の自室にいる息子に声をかける。どうやら月島が来ていることを知らせる母親の声に山口自身はひどく面食らったようだ。えっ! と驚いた声がしたあとに上の部屋からバタバタとあわてている音がしてきた。ガン、と大きな音もしたので何かを落としたらしい。

 あわてふためいているであろう彼の姿を想像して、さすがの月島もあのときばかりは彼の母親と顔を見合わせて笑ってしまった。母親は、少し困ったように眉を下げて、「ごめんね、うちの忠が」と笑っていた。


「ツッキー! 迎えに来てくれるなら連絡してよぉ」

 びっくりして新しい携帯落としちゃった! と嘆く山口に適当な相槌を打ってまだ通い慣れぬ通学路をのんびりとした足取りで歩く。

 あのあと、すごい勢いで階段から降りてくる彼の驚いた表情はなかなかの見物だった。まさに早起きした甲斐があったというものだ。

 ただ階段を二段飛ばしに降りてくるその姿にヒヤヒヤしたのも事実であったから、これから迎えに行くときはなるべくチャイムを鳴らさずに外で待っていようと思った。

「わかった」

「あ、それ絶対する気ないでしょ!」

 隣で怒ったふりをする幼なじみが歩くたび、かばんに付けられたお揃いのキーホルダーがかちゃかちゃと揺れる。

 彼の足取りは、心なしかいつもより軽いようだ。それにいつもより三割増しでおしゃべりだ。

 しかし、月島は、そんな彼の目の下には薄らと隈ができていることに気が付いた。おそらく今日が楽しみすぎて昨晩はなかなか寝つけなかったのだろう。

 月島は、思わずそこに手を伸ばした。

「ちゃんと寝なよ。隈できてるし」

 そう言って目の下をなぞれば、びくっと驚いたように身体を揺らし、首まで真っ赤になる山口。予想外の反応に少し驚いた月島は、あわてて手を引っ込めるが、山口の頬の火照りはすぐには引かなかった。

「ばか、」

 月島は苦し紛れにそう言うと、彼の額を指先でぱちんと弾いた。それに対して山口は「痛い!」と大げさな文句を言いながら、月島のほうを恨めしそうに見上げた。

 月島は、自分の動揺が悟られないように、彼から顔を隠すように前を向いて、その歩くスピードを速めた。やけに心臓がドキドキしている。新しい季節の始まりに浮かれていたのは、山口だけではなかったようだ。知らぬ間に自分も浮かれ気分に巻き込まれていたらしい。

 学校に着くまであと十五分。それまでにこの頬の熱さと鼓動の速さがどうにかなってくれるように願うしかない。




      ◇



 今日で山口は晴れて高校生になる。入学式の前に正門で配られたクラス分けのプリントを見ると、同じ高校に進学した幼なじみも同じクラスであったことがわかって、山口はほっと安堵のため息をついた。

「ねぇツッキー! 俺たち、同じクラスだよ!」

 嬉しいなぁ、と頬を綻ばせる山口。一方、話しかけられた月島のほうは、嬉しいのか嬉しくないのか、なんとも微妙な表情になる。けれども、山口はそれを少しも気にしていなかった。こういう表情をしているときの幼なじみの考えていることは、だいたい予想がつく。

 どうやら新入生は入学式の前にひとまず各自の教室に集まるらしい。山口たちも在校生の案内にしたがって自分たちの教室を目指す。

 しかしながら、思った以上に人が多い。

 わりと背の高い山口ですら人の波に流されるがままだ。おしゃべりに夢中になって油断していたら、うっかりはぐれてしまいそうだった。

 それでも入学式ということで浮き足立っている山口は、一歩前を歩く月島に話しかけずにはいられなかった。

「ねぇねぇ、担任の先生どんな人だろ?」

 かばんにしまうタイミングを失ったクラス分けのプリントを手に握り締めたまま、山口は隣の月島を少しだけ見上げる。その姿を月島が視線だけでチラリと見返した。

「さぁね。ていうかはぐれないでよ」

 背の高さをうまく生かして飄々と歩く月島。それとは対照的に山口は人混みをかき分けるのに苦労していた。それが月島の目には不安要素として映ったのだろうか。それでも山口には大丈夫だ、という揺るぎない自信があった。

「任せろ、ツッキー。ツッキーは背が高いし、目立つから絶対にはぐれないって! 大丈夫だよ!」

 自信満々に言ってのけた山口であったが、なぜか月島は呆れたようにため息をついてしまう。なんで? と首をかしげるが、山口にはさっぱりわからなかった。

「それはお前もだから心配してないけど。……まぁいいや、ぺらぺらしゃべってたらおいてくよ」

「えっ、待ってよツッキー!」

 あわてた山口が月島の左肩に勢いよくぶつかる。鼻先をぶつけ、思わず「痛い……」とつぶやいた。

「……何してんの?」

「っ、ごめん!」

 だから言っただろ、と言わんばかりの視線を投げつけてくる。目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。

「ほんとお前は、」

 そう言うと、月島が山口の学ランの袖を掴んだ。山口は驚いて「っ!」と小さな声を漏らすが、月島自身が動揺する様子はまったく見られない。また、顔色ひとつ変えず行われた行動に周りの人が気付くこともなかった。そもそもこの混雑具合だ。いくら月島と山口の背が高く目立つとは言っても、その手元までははっきりと見える状況ではなかっただろう。ただそれらを考慮したとしても、普段の彼らしかぬ大胆な行動であることに変わりはなかった。

「つ、ツッキー?」

 山口は思わず月島の名前を呼ぶ。あわてたような山口の声に反応した月島がこちらを振り返るが、その表情は無に等しく、また手を離す気配もなかった。

「あの、て……」

「黙ってて」

 そう言われれば、山口に黙る以外の選択肢はなかった。

 月島の一歩後ろを歩く山口から見えるのは、短く切り揃えた髪から覗くうなじだけ。首元は糊のきいた学ランの襟に覆われている。真っ白なうなじが黒い襟に隠されていて、なんだか見てはいけないものを見ている気分になった山口は、わずかに頬を赤らめる。そして、その動揺を誤魔化すためにじっと俯き、自分のつま先を見つめることで、なんとかその場をやりすごした。

 月島に引っ張られるままに歩みを進めて、ようやく二人は自分たちの教室に辿り着いた。その間、月島は一度も指を離そうとしなかった。そして、人の波が少し落ち着いたところで、月島は何食わぬ顔のままその手を離した。あまりに自然な動作であったため、山口も一瞬月島の指が離れていったことに気が付かなかった。

 一連の大胆な行動が月島なりの配慮であったことは、山口にもよくわかっていた。おそらくは山口がはぐれないように、とのことだったのだろう。だからこそ文句を言うつもりなんて少しもなかったし、むしろ月島に対してお礼を言おうと思っていた。

「あの、ツッキー……!」

 開け放たれた教室の扉をくぐる寸前、山口はその背中に向かって呼びかけた。けれども、思ったよりも騒がしい教室において、その控えめな声は、月島の元まで届かなかったようだ。月島は振り返る様子もなく、そのまま愛用しているヘッドフォンをつけてしまった。山口は、自身の不甲斐なさにうなだれる。そして、仕方なくその後ろ姿を見送り、さっさと自分の座席を探すことにした。

 名前の順で並べられた座席で、「つ」きしまと「や」まぐちではとても遠くに離れてしまったことは言うまでもない。ただ月島よりも三列分後ろにある山口の席からは、窓の外を見る月島の横顔がよく見えたので、たったそれだけで山口はとても満足していた。

 山口と月島がそれぞれの座席に座ると、ほどなくして担任教師が教室にやってきた。

 教師が来たのを見た月島は、先ほどつけたばかりのヘッドフォンを渋々外していた。山口もあわただしく身の回りを整理した。ずっと手に持っていたプリントは、ようやくかばんのなかにしまわれた。

「皆さん、入学おめでとうございます」

 人好きのする笑みを浮かべて挨拶をしたのは、一年三組の担任教師らしい。

第一印象としては、山口たちとも年が近そうな男性だった。彼がよく通る声で挨拶をすると、黒板に名前を書いて自己紹介をする。教師らしい綺麗な文字だ。

 よくよく話を聞いていると、どうやら今年二年目の若い教師らしい。その見た目から体育教師かと思ったが、意外にも彼の担当は物理だった。

 彼は簡単な自己紹介を終えると、今日一日の流れについて説明をしはじめた。そんななか、山口は、入学式の段取りを説明する声を遠くに聞きながら、自分が烏野高校に入ることを決めた日のことを思い出していた。




      ◇



 山口がこの高校に決めた一番の理由は、月島の存在だ。

「ツッキーはどこの高校行くの?」

 ある日の放課後、山口は何気なくそう尋ねた。その日、進路調査票が三年生全員に配られた。自分の行きたい学校を第三希望まで書くという非常に単純なものだ。これを来週の懇談までに担任に提出しなければならなかった。けれども、山口はまだ自分が高校生になるということに実感が沸いていなかったため、その用紙に記入できないでいた。

 そしてふと思った。

 そうだ、彼はどこの高校を志望しているのだろう、と。

「烏野」

 月島は、顔色ひとつ変えずに答えた。

「烏野って明光君が通ってたとこ?」

「そ、」

 それを聞いた瞬間、山口は内心とても嬉しく思った。

 小学生のときに起こったとある出来事により、月島は兄に対してコンプレックスのようなもの、あるいは罪悪感のようなものを抱いている。

 あまり多くを語りたがらない彼の抱えているものがなんなのか、山口には正直わからない。けれども、その月島が兄と同じ烏野高校を選択したということは、彼がけっしてバレーを嫌っているわけではない、ということだ。

 その事実が山口にとっては非常に嬉しかった。

「じゃあ俺も烏野にしよ」

 当時の山口にとって、月島がこの高校を選ぶということは、すなわち山口自身が烏野高校を選択するということと同義であった。

「はぁ? お前は自分の意思をきちんと持ちなよ」

「これが俺の意思だよ!」

 月島と同じ高校で勉強をし、そしてバレーがしたい。彼の隣にいたい。紛れもなくそれが山口の意思であるのだから、山口は意見を変えるつもりはなかった。

「後悔しても知らないから」

 月島はそう言うが、山口本人からしてみればそれはとんだ杞憂だった。なぜなら山口にとって、月島のそばにいないことを選択すること以上に悔いの残るような選択はなかったのだから。

「ツッキーがいるから烏野にするんじゃないよ。ツッキーと烏野でバレーをしたいから烏野に決めたんだ」

 繰り返しになるが、山口が烏野を選択したのは、紛れもなく彼本人の意思表示であったのだ。

「は、何それ意味わかんないんだけど」

 呆れたように目を回す月島だが、ついてくるなと言わない月島の優しさに山口は頬を緩めた。

「だから一緒に烏野に行こうね!」

「一緒に受験してお前だけ落ちるとかナシだからね」

 それが月島なりのエールであることを知っていたから、山口は大きくうなずいてにっこりと笑った。

 その日から山口の進路は、明確なものとなった。そんな山口がより一層勉学に励んだことは言うまでもない。

 そして、そのおよそ十ヶ月後。二人は揃って見事第一志望の高校に合格したのだった。


 山口は、黒板の前に立つ教師のほうに意識を戻すが、まだ担任の話は終わっていないようだ。あくびを押し殺そうとしたが、うまくいかなかった。大あくびをしたあとにチラリと月島のほうを見てみると、彼も退屈そうに窓の外にある青空を見上げていた。

それを見た山口の口元には、淡い笑みが浮かんだ。

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