最近接距離


 部屋の中央にある机のうえには、教科書やノートがざっくばらんに広がっており、さらにその周囲にも色違いのシャーペン二本と赤・青・黄緑のボールペンが一本ずつ散っていた。そこは山口の自室。しんと静まり返った室内でどちらのものかわからないが、ごくり、と喉を鳴らす音が聞こえた。



side A

 焦げ茶の猫目が戸惑いの色を見せる。月島はそれを見つめ返しながら、これほどに顔を近付けたのはいつ以来だろう、と細やかな疑問を抱く。小学生だった頃、一緒になって宇宙図鑑を覗きこんだとき? それとも、中学生だった頃、肩を並べ二人で一つの傘に入ったとき? あるいは――。様々な記憶が月島の頭のなかを巡るが、最終的に導かれた結論はこれほどに近い距離で山口を見つめたことなどなかったであろう、ということだった。月島がいつになく真面目な表情で山口の腕を掴めば、山口は大袈裟に肩を揺らした。山口の足がテーブルを蹴ってガタンと音がする。それでも月島はそんなことを気にすることもなく、眼鏡を外すとさらに顔を近付けた。その瞬間、さっと山口の首筋が赤みを帯びた。顔より皮膚が薄いせいか、それは視力の悪い月島にもはっきりとわかるくらいであった。
「つ、ツッキー」
「うるさい、山口。ちょっと黙ってて」
「あ、ぅでも……っ!」
 山口の声にも動揺は現れていた。距離を詰める月島を制止しようとしたのか、山口が空いていた右手を胸の前に伸ばすが、それさえも月島には好都合でしかなかった。その手も一緒に捕まえて、じっと見つめてみた。今の山口は顔まで真っ赤だ。自分の顔も熱いので少なからず自分も赤面しているであろうことは、月島もわかっていた。
「山口」
 もう一度名前を呼んだ。するとその瞬間。
 ガシャン――。背後で大きな音がした。
 今度は先ほどよりも勢い良くテーブルが蹴り上げられたようだ。もちろん犯人は目の前にいる彼以外にはいない。折り畳み式のそれが衝撃に耐えられるわけもなく、それは月島の背後で蹴倒されている気配がした。月島が後ろを振り返る間もなく、続いてバサバサと教科書が床に散らばる音もしたので、この推測はおそらく間違っていないはずだ。
「……山口」
「ひぃ、ごめんツッキー」
 いらだちを隠せないでいると、山口は怯えた子犬のように肩を震わせる。それを見た月島は大きくため息をついた。仕方なく距離を離すと、山口がほっと息をつくのがわかって余計に苛ついてしまう。
「ねぇ、お前……」
「ちょ、ちょっと飲み物取ってくるね」
 月島の言葉に山口の言葉が被せられる。山口は、するりと月島の手をすり抜けて立ち上がった。月島が止めるよりも早く彼は逃げていってしまう。月島が何も言えずにいると、山口は扉へ向かい、あっという間に手の届かないところへ行ってしまう。山口が出ていったそのあとには、勢い良く閉められた扉の音だけがやけに耳に残っていた。階段を駆け下りる音が聞こえたから、おそらくはリビングにでも行ったのだろう。
「はぁ……」
 もう一度重々しいため息が零れる。
 最近いつもこうなのだ。
 山口に告白をして、まさかみたいに上手くいって、付き合い始めて早一ヶ月。これまでも何度か良い雰囲気になることもあったが、そのたびに山口は恥ずかしがって逃げてしまう。最初のほうこそ、こうなることも仕方ないかと思っていたものの、ここまでこうして避けられてしまうと男としてのプライドが傷つけられた気分になってしまう。山口に対する好意は態度で示しているつもりであるし、山口の反応を見る限り自分の気持ちは十分に伝わっていると見て良いだろう。先ほどだって真っ赤な顔をしていた。けれども、いざ恋人らしいことをしようとすると、山口は慌てて逃げていってしまうのだ。
 では一体どうすれば良いのだ。月島は、ここ数週間ずっと頭を抱えていた。だから今日彼が勉強会をしようと言ってきたとき、これはチャンスだと思ったのだ。
 けれども上手くはいかなかった。
「ってかさっき飲み物もらったばっかりだし。もうちょっとマシな言い訳しなよ……」
 その場にはいない部屋主に向かってぶつぶつと文句を言いながら、とりあえず思いきり蹴り上げられてかわいそうなことになっているテーブルを定位置に戻す。それから散らばった教科書を拾い上げ、綺麗に端を揃えてテーブルに並べた。お揃いのシャーペンも同じように拾い上げ、それぞれまとめた教科書のうえに乗せておく。
「……はぁ」
 急に静かになった部屋を見渡して、無意識のうちに本日三度目となるため息をついた。そのため息を聞いて心配してくれるはずの恋人も今はその場にいないので、それはひっそりとした室内に消えていった。
 いつものように勉強をして山口を待つ気にもならず、月島は遠慮なく山口のベッドへ寝そべる。普段なら制服が皺だらけになるのが嫌で絶対にそんなことはしないのに、そうでもしないと自分の情けなさにやるせなくなってしまいそうだった。ぽすん、と枕に頭を預けると、先ほど感じた彼の香りが鼻先を掠めて、神経を逆なでされた気持ちになった。
「……山口のバカ」
 思ってもみないことを口にして、気分を少し紛らわせようとする。それでもあまり気分は晴れなくて、じわじわとにじりよる眠気に抵抗もせず、月島はそっとまぶたを下ろした。



side B

 ずっとずっと憧れの人だった。そんな月島から告白されたとき、山口はこれが夢ではないかと疑って、こっそり頬をつねってみたくらいだ。それはもちろん目の前にいた月島にも丸見えで、「何してるの」と怪訝そうな表情で言われてしまったのは言うまでもない。
 そして、その気がないならさっさと断ってよ、と珍しく弱気な態度を見せた月島に、なんだか母性本能のようなものをくすぐられて、掴みかかるようにオーケーを出したあの日からおよそ一ヶ月が経った。そんなこんなでずっと片想いをしていると思っていた月島と付き合い始めた山口であったが、そんな山口には一つだけ重大な悩みがあった。
 先ほどまでの光景を思い出す。確か直前までは月島に数学の問題の解き方を教えてもらっていたはずだ。応用問題が解けなくて白旗を上げた山口に、月島は丁寧に解法を解説してくれていた。その姿はいつも教室で見ているものとなんら大差なかった。そんな月島の纏う雰囲気が変わったのは、不意に視線が至近距離で重なった時だ。
「山口、」
 いつもより低く掠れた声で名前を呼ばれて、まるで金縛りにあったように身体がびくんと固まる。山口は、部屋の空気が恋人同士のそれに変化したのをはっきりと肌で感じ取った。そんな山口の様子を知ってか知らずか、月島は顎に指を伸ばしてくる。骨ばった中指と人差し指が、そっと顎を掬えば、山口の視線は自然に上を向き、薄く笑う月島と視線が絡まる。ドキリ、として目線を外そうとしても、指に捕らえられてしまっていて顔を動かすことができなかった。
「つ、ツッキー……」
 苦し紛れに名前を呼べば、なんだか強請っているように聞こえて、山口は余計に頭を抱えた。頭のなかがまるで沸騰しているようで、思考回路もパンク寸前だ。
「うるさい、山口。黙ってて」
 いつもの台詞さえも溶かしたチョコレートのように甘ったるく感じる。月島が眼鏡を外すと、無防備になった瞳がまっすぐにこちらを見つめているのがわかった。汗を拭っているときか、お風呂上がりにしか見せない素の表情に、自分の体温がぐんと上がっていくのがわかる。心臓が絞られるように苦しくて、思わず月島の身体を離すように腕を突き出す。それでもそれは呆気なく捕まってしまって、月島の顔がゆっくり近付いてきた。あと数センチ。耳を澄ませば、月島の呼吸さえも聞こえてくるくらい近い距離。少し伏せられた目元を飾る金色のまつげ、その奥に見える不思議な色をした瞳。そこから目線を背けて俯こうとすれば、今度は筋の通った控えめな鼻が視界に入る。それは今にも山口のものとぶつかってしまいそうなところにあった。しみひとつないそのきめ細やかな肌から逃げるようにさらに視線を下げていく。そして、薄い唇が――。
「……っ! でもっ……!」
 ガシャン、と盛大な音が聞こえた。遅れて足先に走る鈍痛と、バサバサと教科書が床に散らばる音。どうやら思いきりテーブルを蹴飛ばしてしまったらしい。
「はぁ……」
 重々しいため息をついた月島は、一瞬見ただけでもわかるくらい不機嫌だ。
「ご、ごめんツッキー」
 またキスを拒んでしまったことだとか、良い雰囲気を台無しにしてしまったことだとか、山口の頭ではたくさんのことがぐるぐると巡っていた。ただ一つだけはっきりと言えることは、キスをするのが嫌だったわけではなくむしろそれを期待していた自分がいた、ということだけだ。むしろ期待している自分に気付いてしまい、山口はひどく動揺したのだ。
「ねぇ、お前……」
「ちょ、ちょっと飲み物取ってくるね」
 月島が何か言おうとするのを遮って、無理矢理立ち上がった。先ほどは絶対に逃げられないと思っていたのに、思ったよりも簡単に月島の腕のなかから抜け出すことができたことに驚くが、その理由を考えるだけの余裕はなかった。月島が物言いたげな視線を送っているのはひしひしと感じていたけれど、それに構うこともできず山口はリビングへと避難した。
 山口の悩みとはまさにこの出来事と関連がある。そう、どうしても月島のキスに応じることができないのだ。キスが気持ち悪いだとか、月島のことが好きでないから、といった理由ではない。単純に恥ずかしいのだ。
 月島に愛されている自覚はある。言葉にはしないものの、恋人になってからというもの、月島は山口が驚くほどのまっすぐな愛情を傾けてくれていた。これがあの月島蛍だと知れば、家族はもちろんのことチームメイト達もひどく驚くだろう。
 しかし、月島との友人関係が長かった山口は、それが恥ずかしくてたまらないのだ。二人っきりで部屋にいるときに低く甘い声で名前を呼ばれてしまえば、脳は途端に仕事を放棄し、考えることをやめてしまう。そのひんやりした指に触れられた部分は、やけどをしたように熱くなってしまう。まるで自分が自分でなくなってしまったような感覚に陥るのだ。
「ふぅ……」
 山口は、オレンジジュースが乗ったお盆を両手に持って扉の前で一度立ち止まる。どんな顔をして部屋に入れば良いかわからない。月島のことを考えると、先ほどの光景が再びよみがえってしまう。記憶のスクリーンが薄い唇を映し出したところで、山口は顔を真っ赤にし、ぶんぶんと首を振った。
 無理だ無理だ。ツッキーと、キ、キスをするなんて!
 それでもいつまでも扉の前で右往左往しているわけにもいかない。いつ、帰ってこない山口を不審に思って、月島が部屋の外に出てくるかもわからないのだ。それだけは絶対に避けたい。
 山口は大きく息を吸って気持ちを落ち着かせる。そして、お盆を片手に持ち変えると、そうっと部屋に入った。
 けれども、頭で想定していたいくつもの状況はどれ一つ当たってはいなかった。月島はベッドで眠っていた。
「え、ツッキー。何してるの?」
 月島は、左腕を額に乗せて眠っていた。右腕は腹の上に投げ出されている。テーブルのうえには彼の眼鏡が置かれているから、きっとあのあとですぐに横になったのだろう。しかしながら、こんなことは綺麗好きな月島らしくない。制服が皺になるからと言って、自宅に戻ればすぐに服を着替えるくらい几帳面な月島が、制服のままそれも他人のベッドで眠っているなんてこと、今までだったら有り得なかった。
 山口は驚きつつも声をかけるが、月島からは寝息の返事しかない。何度かそれを繰り返しても結果は同じだった。そこで山口は、月島が完全に寝入っていることを確認すると、今度はオレンジジュースをテーブルに置いて月島のもとへ寄っていった。
「熟睡してる。めっずらしい……」
 少し神経質なところがあって、合宿や修学旅行へ行ってもなかなか寝付けない月島を知っているからこそ、今の状況はとても不思議に感じられた。また、普段見慣れない月島の寝顔を盗み見るというのは少し背徳感があって無性にドキドキした。薄く開いた唇から時折吐息が漏れているのが、ひどく悩ましげに映った。
「うわ、えっろ……」
 思わず呟いた言葉は、甘ったるい空気に溶けていく。今ならキスができるかもしれない。そう思った山口は、そっと顔を寄せてみた。幾度となく見上げ、笑いかけたその端正な顔が目の前にあった。
「ツッキー……」
 あと数センチ。小さな声で大好きな人の名前を呼ぶ。






 その瞬間、月島の目がパチリと開いた。





 やまぐち、と寝惚けたような声がして、背筋を冷や汗が伝っていくのがやけにリアルに感じられた。




【了】

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -