オトナになりきれない僕たちのちょっとした独占欲


 いつだって口を開けば「翔ちゃん翔ちゃん」と名前を呼ぶ。どこにいたって「翔ちゃん翔ちゃん」と姿を探す。
 そんな彼の声が甘美な響きを纏いはじめたのは、一体いつからだったか。彼と出会ったあの日から数年の月日が経った今となっては、その正解すらもひどく曖昧だ。
 マスターコースを卒業し、二年の年月が流れた。恋人である那月から「一緒に暮らしませんか」と誘いを受けたのがおよそ二ヶ月前のことで、それからあらよあらよという間に話は進み、新しい部屋での生活をスタートさせたのがつい一昨日の話だ。お互いのデビューが決まったときに告白されてから今日まで続く交際は、今も変わらず順調である。
 部屋のなかにあった段ボールのほとんどが綺麗に片付けられ、真新しい部屋にはペアの食器や色違いのクッション等、お揃いのものが目立つ。ルームシェアもとい同棲を始めるにあたっていくつかのものを新調したのだ。
 翔は自分のクローゼットが置いてある部屋で荷物の整理をしていた。昨日のうちに那月の部屋の整理は終わっていた。本来なら自分の部屋だって、昨日のうちに片付いている予定だったのだ。けれどもやはりというべきか、那月が一人で問題なく荷物整理をできるはずもなくて、結果として翔がそのほとんどをすることになった。
 いつぞやのときのように段ボールの端で指先を切りそうになってしまった那月から、その元凶と危なっかしく握られたカッターを手早く取り上げ、彼の洋服や私物を片付けていく翔の手つきは慣れたものだった。早乙女学園に入学して今日に至るまで、ずっと寮生活を繰り返していたので、翔とて引っ越し作業にはもう慣れっこであったのだ。
 今頃、その那月は台所で湯を沸かし、ティータイムの準備をしてくれていることだろう。
 相変わらずオリジナル料理の腕は壊滅的であるのにも関わらず、紅茶のいれ方だけは非常に上手だ。翔がいれるものとは香りの立ち方が違う。翔だって那月においしいお茶のいれ方のコツを教えてもらってはいるが、それでも彼のつくるものには到底適わない。
 あと少しで片付けが終わると伝えているので、きっと翔がリビングに現れるのを今か今かと待っているはず。その様子が容易に想像できて、翔はこっそり頬を綻ばせた。
 段ボール箱のなかから順番にものを取り出し、片付けていく。手元に残っているのは、季節ではない洋服が主なものだった。
 最後の段ボールに手を着ける。その一番上に入っている一枚の洋服を取り出す。
 お洒落好きで数多くの洋服をもっている翔にとっても、これは思い出深いもののひとつだった。
 ゆっくりと広げると、柔軟剤の香りが鼻先をくすぐっていく。それはピンクアーモンド色のTシャツ。落ち着いた美しい色合いが未だ買ったときと同じように健在であるのも、翔が大切にしていたおかげだ。那月が交際を始めるよりもずっと前に選んでくれた洋服。思い出が詰まったそれを、翔は着るたびに丁寧に手入れし、今日まで大切に使ってきた。
 今でこそ、この中性的な外見を誉めてもらうことは多くなったものの、数年前まではそんな自分の顔立ちがひどくコンプレックスだった。だから、早乙女学園を卒業しマスターコースに入った頃から、翔はそれまでわりと好んで着ていたピンク色の洋服をプライベートではあまり身につけなくなった。一番近くにいた那月はそんな翔の些細な変化に気付いていたかもしれない。けれども、彼はなにも言わなかったし、翔も言うつもりはなかった。




 それは、早乙女学園に通っていたある日の出来事であった。真夏の太陽が脳天に照りつけていて、世間は皆夏休みまっただなか。休日になって買い物へ行きたいと言い出した那月に付き合い、翔も街に出てきていた。東京の蒸し暑い夏があまり得意ではないらしい那月を心配して日陰を選んで歩いてはいるものの、今日も今日とて気温は非常に高い。翔だって汗が首筋やこめかみをツツーと伝っていたし、あまり汗をかくことがない那月でさえも額に僅かな汗を滲ませていた。
 信号待ち。目の前に見えるカフェテラスでは、ビタミンカラーの衣服に身を包んだ女性客達が、にこにこと笑いながら甘そうなパフェをつついている。そのてっぺんに乗った苺を見て、那月がいいなぁと呟く。可愛いものに目がない那月のことだ。綺麗にトッピングされたパフェは、魅力的に映ったのだろう。
 どこかのカフェに入ろうか、と後で声を掛けようと心に決めた。男ふたりは目立つかもしれないが、もうそんなことも慣れてしまった。那月が子どものように笑うから、それを見られるのならば、ほんの少しの羞恥心くらい我慢すれば良いかな、なんて思ってしまうのだ。
 人が行き交う場所を歩きながら、あちらへ行きたい、こちらへ行きたい、と那月が翔の手を引く。しばらく歩き回ったところで、那月は裏通りにある店のひとつを指差し、ここに入りたいと言った。そこは翔のお気に入りのブランドショップだった。お気に入りとは言っても、学生の翔が買い物をするには少し値が張るため、自分のご褒美としてたまにそこで洋服を買うくらいだ。不思議な偶然もあるものだ、と翔は思ったのだが、別段断る理由もなくて、那月のあとについてそこへ足を踏み入れた。
 いらっしゃいませ、と店員が声を掛けるが、不用意に寄って来たりはしない。このような店の雰囲気もここが好きな理由のひとつだった。
 外よりもいくらか涼しい店内は、小さな音量で有線が流れている。翔が思い思いの服を手に取る隣で、那月はきょろきょろと店内を見回し、ひとつの服の前で足を止めた。
「ん、気に入ったものでもあったか」
 自分の洋服に無頓着な節がある那月にしては珍しいこともあるものだな、と首を傾げ、少し上にある那月のかおを見上げる。その表情を見た翔は、お? と思う。予想以上に彼はご機嫌そうだったのだ。機嫌メーターでもある頭のてっぺんのあほ毛は、ふよふよと楽しげなリズムで宙を泳いでいた。
「これです、これ」
 那月がふわっと笑う。
「ほらぁ!」
 那月は様々な色合いのものが並ぶそのなかから、淡い色のTシャツをもってきた。重ね着をしなくても重ね着しているように見えるそれは、那月らしい大人びたデザインだ。翔に着せようとする少女趣味の洋服の類は理解できないが、彼だって元々の趣味は悪くない。翔が着たら子どもっぽくなってしまうスモークピンクカラーのそれも、那月が着たら大人っぽく見えるだろう。
「おぉ、いいな。でも、」
 ただそれはサイズが彼には合わないような気がして、タグを確かめる。
「お前はMサイズじゃ無理だろ」
 翔が遠慮がちに言うと、那月は首を傾げ、もちろん僕は着られませんよ? とめがねの奥にある瞳をぱちぱちと瞬く。
「これ翔ちゃんに似合いそうだなぁって!」
「え、俺か?」
「うん、ほら」
 那月がふわりと広げたそれを見る。
 デザインはシンプルながらも、お洒落な雰囲気もあって素敵だ。非常に心惹かれるのも事実。ただこの色を自分が身につけると、少し子どもっぽく見えるかもしれない。毎日鍛えているのにいっこうに男らしくなってくれない体つきと相合わされば、きっとーー。そう思うと、今まで好きだった色でも着ることを拒んでしまう。
 かといってこんな小さな理由を彼に打ち明けることは、翔のプライドが許さなかった。とりわけ翔にとって身長という意味では、目の前にいる那月がコンプレックスの対象になっていることも疑いようのない事実だ。親友という欲目を除いたとしても、彼は大人びた容姿をしているし、この年代の少年にとって二歳差という壁は思う以上に重大なものであるのだ。
「ほらほら、鏡のまえに行ってみて」
 けれども、嬉しそうな那月に促されるまま、鏡の前へ行く。どう? と那月が翔の後ろに立ち、洋服を合わせる。
「やっぱり! とっても素敵です」
 那月がわっと声を上げる。翔は困惑したまま、鏡越しに彼を見上げた。それに対して答えるように、那月が嬉しそうににっこりと微笑む。きっと可愛い、とでも言うのだろう。飛びついてこないだけありがたいと思いたい。
「かっこいいです!」
 しかし、那月の言葉は予想外のものだった。
「へ?」
 頭にクエスチョンマークをつけた翔を見て、那月の表情もそれとシンクロする。けれども、すぐに那月の意識は鏡のなかの翔の姿へと引きつけられていく。
「いつもの可愛い翔ちゃんも素敵ですけれど、ちょっぴりお兄さんな翔ちゃんも素敵だと思うんです!」
 那月の感情と比例するように、頭のてっぺんの毛先がふわふわと踊る。
「……てっきりまた可愛いって言われるかと思った」
 そんな那月には聞こえないように小さな声で呟く。しかしながら、耳が良くて素直な那月はそれを聞き逃してはくれなかった。
「え? 確かに翔ちゃんはすっごくかわいいですけれど、それと同じくらいすっごくすっごくかっこいいですよ!」
 なんて言って那月はかおいっぱいで笑った。
 ーーかっこいい、
 まっすぐな彼が自分に嘘をつくはずのない人間だと知っているから、かっこいいと言われて正直悪い気はしない。表情だって緩みそうになってしまう。しかし、そのまま笑顔を返すのは現金なやつになってしまう気がしたから、それを誤魔化すように俯いて返事をした。
「……これにする」
 思ったよりも拗ねたような口振りになってしまった。ふふっ、と。那月が小さく笑っている気がした。
「じゃあ僕がプレゼントします」
 そう言って、伸ばした翔の手からシャツを奪い、軽い足取りでレジへと向かう。慌てて翔も顔を上げ、その背中を急いで追いかけた。
「え、でも……!」
 その腕を掴もうとすると、那月がくるりと音が鳴りそうなほど楽しげに振り向いた。
「ちょっぴり遅れてしまいましたけれど、誕生日プレゼント、です」
 にっこりと満足そうに微笑まれる。そのまっすぐな好意に、翔はうっと声を詰まらせた。
「僕、誕生日に翔ちゃんからプレゼントをもらって嬉しかったから、貴方にもお返しをしたいんです」
 プレゼントした、とは言っても、たまたま街で買い物をしているときに見つけたマグカップたかが一つだ。けれども、那月はよほど喜んでくれていたらしい。誕生日を互いに訊ね合っていたわけではなくて、翔が一方的に知っていただけだから、那月にプレゼントを贈るかどうかは直前まですごく悩んでいた。衝動買いをしたそれは渡す三日前まで引き出しの奥で眠る予定だった。それでも結局渡すことにしたのは、きっと彼がこうして喜んでくれるかおが見たかったからなのだと思う。
「あ、えーっと。ありがと、那月」
 嬉しいよ、と気持ちを込めて二カッと笑えば、那月は嬉しそうに頷いた。翔が喜べば、那月も喜んでくれる。自分達は意外と似たもの同士なのかもしれない。
「翔ちゃん、お誕生日おめでとう」
 あの後、自分がなんと返事したのか覚えていない。ただあのときの穏やかな声だけはよく覚えていた。

 今思い起こしてみると、あの日からだったのかもしれない。翔ちゃん、と呼ぶ声が特別に思われるようになったのは。それは那月が変化したわけではなく、翔の抱く想いがきっと変貌を遂げた結果であろう。




「翔ちゃ〜〜ん」
 キッチンのほうから、いつもの気の抜けた声がする。きらきらしていて、胸がくすぐったくなる音色。
 手元のシャツを一度だけ撫でて、翔はゆっくりと立ち上がった。短く返事をして向かったリビングで待っているのは、世界でいちばん自慢できる恋人。尊敬してやまないひと、互いに認め合えるひと。そして、宇宙でいちばん大好きなひと。
 しみ一つない真っ白な壁紙。明るい午後の日差しが差し込むリビングへ向かった翔を見た那月は、一言ことばを漏らす。
「今日の翔ちゃんはご機嫌さんだね」
 にっと口端を釣り上げて、悪戯な表情。アーモンド色の髪が陽の光に透けていた。油断していると、飲み込まれてしまいそうなほど深い色を湛える瞳の純粋さは、今も昔も変わらない。まっすぐに翔をみつめる優しい視線も、すこしだけ不思議な言い回しも、なにもかもが不変の愛おしさを孕んでいる。
「そりゃ、お前と一緒に過ごせる久しぶりのオフだもん。だろ?」
 そう言ってコトリ、と小首を傾げる。そこに隠された小さな甘えを受け取った那月が大人びた笑い方をして片目を眇める。
「僕を夢中にさせるなんて悪いひと」
「お前もな」
 ふたりっきりの部屋、ふたりっきりの場所。それは大人になりきれない青年達の小さな小さな独占欲の結果だったのかもしれない。真新しい家具や食器に囲まれたそこは、世界でいちばん幸せな空間だ。
 紅茶の香りが広がる部屋で、恋人達は密やかなる口づけを交わす。そのなかで音を立てるのは、壁に掛けた時計の甘い囁きだけ。その秒針はリズムを乱すことなく、時を刻み続けていた。

【了】


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