とある木曜日のお話


 例えば、小さいころからの癖だとか、好きな食べ物のことだとか。どんなに些細なことでもいいからもっと彼のことを知りたいと思った。桜吹雪が舞うなかで儚い願望を抱いたあの春の日、黒尾鉄朗にとって夜久衛輔という人物はきっと特別な存在になったのだろう。


 ***


 そこは、都立音駒高等学校の最寄り駅よりも南に三つだけ向こうにある駅の構内。あまり大きな駅ではないのでホーム内にいる人はまばらだが、それでも通勤通学の時間帯ということもあり、階段付近の乗車位置にはそれなりの人数が並んでいる。人々が身に纏う衣服の色合いや素材は、すっかり人恋しさを感じる季節の訪れを予感させるものだった。
 マイクを通した駅員の声でアナウンスがかかり、控えめな車輪音とともに電車が到着した。随分見慣れた色をした長い車体は、一足早い北風を起こして、列を成して待つ人々の髪を悪戯に吹き上げた。
 ゆっくりと扉が開き、ランドセルを背負った小学生やスーツに身を包んだ初老の男性など様々な人達が下車していく。それと入れ替わりで電車に乗り込んでいく人々の表情は皆わずかに気怠げだ。
 そのなかで一際目を引く長身の高校生がひとり。彼は左肩にスクールバッグを掛けたまま、ふらりと電車に乗車した。軽くセットされているらしい髪は彼の片目を隠しているが、それでも彼の顔立ちが整っていることは明らかだった。その瞳は、闇夜に身を潜める猫の目のごとき色をしていた。濃い色のブレザーを身につけ、なかにはそれよりも少しだけ薄い色のベストを着ているようで、グレーのスラックスから伸びる脚はすらりと長い。
 彼に続いて、数人の乗客が乗り込むと、空気の抜けるような音とともに自動の扉が閉まった。ガタンと一度だけ大きく揺れてから電車は次の駅へ向けて動き始める。
 先ほどの青年、黒尾鉄朗も欠伸をかみ殺しつつ、その満員電車のなかで揺られていた。スマホを器用に扱い、何やら熱心に打ち込んでいるが、それでも眠たげな表情を隠すことはできていない。
 特別でも何でもない木曜日のある日。それは黒尾にとっても同じことである。強いて何か違うことを挙げるのならば、今日は朝練がないのでいつもよりも一時間ほど遅い電車に乗っているということだろうか。
 耳に付けているイヤホンから流れてくるのは、お気に入りのアーティストの曲だ。先週発売したばかりのアルバムのなかの一曲でもあり、そのアーティストにしては珍しく切ない片想いを歌ったその内容は、なんだか少しだけ気恥ずかしくも思われるのだった。
 車掌が鼻にかかった声色で、次の駅名を告げる。半年以上毎日聞き続けたその名前は、黒尾にとってなじみ深いものであった。その車内アナウンスだって、きっと空で言えるだろう。それから数分も走らないうちに電車のブレーキ音が振動となって身体に伝わる。それはイヤホンをしている黒尾にも伝わった。
 歪みない線路の上をすべるように減速していった電車は静かに停止し、ふーっと空気を吐き出して扉を左右に開く。ここで降りる人はほとんどおらず、それとは対照的にたくさんの人が乗車してきた。
 黒尾はそのなかに見慣れたミルクティー色の髪の毛を見つけた。黒尾が黙ってそちらを見ていると、不意に顔を上げた焦げ茶色の瞳と視線が重なった。
 あ、と彼の唇が驚きを表し、淡い茶の睫毛がふっくらとした涙袋をぱたぱたと軽い仕草で打つ。それがまるでスローモーションのように見えたから不思議だ。
「おはよ、夜久」
 イヤホンをブレザーのポケットにしまって、彼に向かって小さく笑いかけてみたけれど、少しだけ心臓が騒がしいかもしれない。
 小さな微笑みに乗せた黒尾の声は彼にも届いたようであり、また夜久の返事も黒尾によく聞こえた。まるで鼓膜が彼の声だけを拾うために機能している、そんな気がした。
 クイクイと右手で彼を呼べば、彼は波に巻き込まれそうになりつつも、黒尾の正面に収まった。夜久はこちらを一瞥するも、黒尾と目が合うと何も言わず俯いてしまった。綺麗なつむじだけが見えた。
 ――扉が閉まります。もう一歩なかほどまでお進みください。
 その言葉を聞いたらしい夜久がわずかに身体を黒尾のほうに寄せた。ぐっと縮まるその距離に、びくりと肩が跳ねそうになるのをこらえて平静を装った。
 夜久のすぐ後ろで扉が閉まる。扉が閉まれば、夜久はそこに少しだけ寄りかかった。
 夜久の身体が自分の身体から少し離れたのを確認して、無意識のうちに止めていた息を静かに吐き出した。
「いつもこの電車だっけ?」
 黒尾は少しだけ腰を屈め、小さな声で問いかける。
「いや、朝練がないときはもう一本後のやつに乗ってる」
 それに対して夜久もトーンを抑えた声で返してくる。
「そっか。だから会わねぇのか」
「かもな」
 会話はそこで途切れる。曲げた腰をまっすぐにしたものの、視線をどこに向ければ良いのかわからなくて、黒尾は視線を上のほうで彷徨わせた。長方形の車内広告の文字を読んでいるふりをしているが、もちろん内容なんて頭に入ってきていない。
 様子を伺うように顔を動かさず視線だけで夜久のほうを見てみると、彼は俯いているのでこちらが見ていることには気付いていないようだった。その日本人離れした髪色を見て思わずハーフなのかと問いかけ、彼の失笑を食らったのはもう半年以上前のことだったな、と懐かしい想いでその綺麗な色の髪を見つめた。そもそも彼を囲う色彩はどれもこれもが美しすぎるのだ。そこから視線を外すことは赦されず、黒尾はまるで酔わされたようにその色を見つめ続けるのみである。
 絶え間なく動いている空調の機械音と、時折聞こえる線路と車両が擦れる音。足元に置いたはずのかばんは沢山の人々のせいでその姿を黒尾に見せてくれることはないが、脚に触れているその感覚だけがそこにきちんとかばんがあることを思い出させてくれる。たまに脚の位置を動かして、立ちやすいように微調整した。
 そのとき、ガタンと大きく車体が揺れた。それはもう思いきり、だ。車内で立っていた人間のほとんどが面食らっただろう。その証拠に、バランス感覚の良い黒尾でさえも、体勢を崩したらしい後ろ人達の重みに耐え切れずその身体を前に押し出される。身体が傾く直前で、目の前にいる夜久を押しつぶさないようにと咄嗟に扉へ手を伸ばした。
 ドンとついた手のひらにドアの冷たさを感じた。
 ――失礼いたしました。急ブレ……――。
「悪ぃ、大丈夫か」
 車掌の声を聞き流して、黒尾は夜久に訊ねる。そして、すぐ下にいるその姿を見下ろすが、彼は依然床を向いたままだった。
「夜久……?」
 彼から返答がないので、黒尾はもう一度その顔を覗き込む。
「だ、大丈夫……っ」
 気配を感じたのか、夜久の肩が跳ね上がる。
「そっか、よか……、っ!」
 そう返事をしようとしたら、急に顔を上げた夜久と至近距離で視線が交わる。互いの吐息が触れてしまいそうな距離に驚き、明度も彩度も異なる二対の瞳が咄嗟に見開かれた。
「すまん」
「いや、こちらこそ…」
 不自然に逸らしあった瞳が、きょろきょろとそれぞれの方向を見る。あまりに近い距離にいる夜久の制服からは、石鹸のように清潔でかつ微かに甘い不思議な香りがした。
 先ほどまで聞こえていた雑音を消し去るようにドクドクと血液が身体中を巡っている音がしている。特に顔周りが驚くほどに熱くて、身体中の血液が顔に集まっているのではないかと錯覚するほどである。心臓の音もひどく煩い。
 一度頭を空っぽにして落ち着こうと思うのに、意識すればするほど思い出すのは、茶色がかった虹彩の美しさや息を止めても香る甘い匂いのことばかりだ。
 扉の窓に映った自分は見たこともない顔をしていた。鏡像は、情けなく眉を下げ、薄らと頬を赤らめている。
「っ!」
 黒尾は、思わずその姿から顔を背け、空いた手のひらで自分の口元を覆った。気付いてしまったこの気持ちが唇を動かしてしまうその前に――。










 なんでもない冬の日。黒猫は恋を知った。

【end】
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