狂気の始まり


注意! 黒研で黒←夜久です。誰も楽しい話ではありません。雰囲気エロ注意。



 他人のふりをすれば良い。見えなかったことにすれば良い。ただそれだけではないか。強く耳を塞いで、目を閉じてしまえば、自分は傷つかないで済むのだからーー。

 その日の部活後、夜久衛輔は一度正門を出たものの、英語のプリントをロッカーに忘れてしまったことを思い出し、一人部室へ向かう暗い道を歩いていた。校舎の裏手側にあるその場所は、夕方を過ぎれば途端に暗くなり、物騒な雰囲気を醸し出す。それは今宵も例外ではなかった。ローファーの靴底で踏みつけられた小石の悲鳴だけが夜久の歩いた軌跡を追った。
 遠目に見れば、部室に明かりがついているのがわかり、まだそこに人が残っていることを告げていた。主将の黒尾鉄朗だろうか。あるいは今日の鍵当番? 鍵当番は誰だったか、と夜久は首を捻らせながら階段を上がる。けれども、結局階段を全て上がりきるまでに思い出せることはなかった。
 そして、部室の前に来た。そこでようやく夜久は異変に気がついた。
「あれ、電気消えてる」
 先ほどまでは確かに扉上部にある四角窓から光が漏れていたのである。しかし、今は真っ暗だ。隣の部室の扉と間違えたのだろうかと左右の扉を確認するが、そのどちらも沈黙を守り続けていた。きっと見間違いに違いない。夜久は自分に言い聞かせるようにそう結論づけて、それでも念のため部室のドアノブを回してみようとする。
 その時、扉の奥から誰かの声が聞こえた。
「……っ!」
 夜久の聞き間違いでなければ、あれは後輩の声だ。しかもやけに艶を帯びている。電気の消されたそこで、一体何が起こっているのか。夜久は万が一も考えて、荷物を脇に避けると、鉄のドアにそっと耳を寄せた。
「あ、やだ……っ、も、やっ………ろ……」
 拒否の声が聞こえて夜久は一瞬ハッとする。しかしながら、不思議なことにその言葉から本気で嫌がっている様子は読み取れなかった。
 夜久は一度扉から身体を離し、息を整えた。もしかしたら金色の髪をした後輩が犯罪に巻き込まれているのではないか、という先ほどまでの恐怖はもうなかった。しかし、目の前で起こっていることが自分にとっては喜ばしいものではないことを直感的に感じ取っていた。得体の知れない別の恐怖が沸々とわきあがる。
 ここでやめておけば良かったのだ。仲の良い友達のふりをして、優しくて面倒見の良い先輩のふりをして、ずっと彼らの隣で笑っていれば良かったのだ。それなのに、直接触れなければ心は火傷しないとわかっていたはずなのに、夜久は手を伸ばしてしまった。
 もう一度、耳を澄ます。粘膜が触れ合いくちゅくちゅと鳴らされる悲壮的な音に混じり、恋人達が睦言を囁き合う声が聴こえた。その砂糖をどっさり入れたホットミルクのような甘ったるい声に吐き気がこみ上げた。
「嘘つ、け。やめてほしくなんてないくせに……っ」
 あぁ、この声は。やめてやめて。聞きたくない。
 抽送に合わせてーーロッカーだろうかーー金属が軋む。それと絡み合うように聴こえるのは、短く荒い吐息や蕩けるような鳴き声の数々。見たことも聴いたこともない行為が、鉄の扉一枚先で行われている。今すぐ逃げなければと思うのに、離れることができなかった。そして、決定的な言葉が聴こえた。
「……っ! は、げし……っっ、だめ、ほんと、ひゃぁ」
 ―― ク ロ 。
 喘ぎ声をあげながら研磨はそう言った。
 やめてやめて、ヤメテ。そんなこと、嫌だ……!





 本当は心の底ではわかっていた。友人である彼の幼なじみに出会った時から、あるいはそのずっと前から、彼らは特別な関係にあるのではないか、と。そして、自分がその友人に友情以上の想いを抱いていることも、ずっとわかっていた。

 それでも知らないふりをしていた。

 脳内には、二人の甘ったるい声がへばりついていて離れてくれそうにもない。目を閉じても情景が思い浮かび、耳を塞いでも声が聴こえる。自然と身体が震えた。





 ――暗闇の中、人知れず心が砕け散る音がした。砕け散った破片は熱をもって心の臓を引き裂き、その傷口から、まるで沸騰させすぎたミルクが鍋から溢れるように、積もり積もった想いが零れていく。熱くなりすぎたその慕情に手を伸ばすことは二度と叶わない。知ろうとしなければ、傷つくことなんてなかったのに。

【end】
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