#3


 翌朝、黒尾は激しい頭痛で目を覚ました。けれども、完全に目を開けるにはまだ眠たくて、黒尾は手探りで夜久の身体を抱き寄せると、再びしっかりと目を瞑った。否、瞑ろうとした。
 しかしながら、その安眠は腕の中で眠っているはずの恋人の叫び声によって妨害されたのである。
 夜久の声が部屋に響き渡り、黒尾が驚いて飛び起きる間もなく、その直後に下腹部への直接的な痛みが広がった。ぐぇ、と蛙のつぶれたような声を出した黒尾は、二十一年間の人生の中で過去最低の目覚めを迎えた。
 そして、交わった茶色の瞳に映る戸惑いの色を見た。視線が交わった彼が最初に発した言葉は、「なんで黒尾鉄朗がいるんだ!!!」だった。



 最初は取り乱していた夜久も、今は落ち着いたのか、黒尾の部屋を興味深そうに見ている。夜久が落ち着くと同時に、黒尾の心はそれと反比例するように大きな混乱に陥っていた。
 朝、黒尾が目を覚ました時、その腕に抱いていたのは恋人ではなかった。正確に言えば、その彼が夜久衛輔であることは間違いではないのだが、昨晩共に過ごした夜久衛輔ではないのだ。謎かけのようなことを言うようだが、これが真実なのである。
 黒尾は混乱している頭で先ほどの夜久の言葉を反芻して、何とか声を絞り出した。
「……つまりお前は中学生の時の衛輔なのか?」
 声が震えてしまうのも仕方ないことであろう。
「ちなみに中一な。何回も言っただろ」
 うんざりしたように夜久は溜息をつく。先ほどまでの戸惑っていた様子は全くどこへ行ったのか、と思うくらいだ。こんな風に迷うことなく即答されてしまえば、黒尾は何も言い返せない。それに今の彼は紛れもなく、黒尾が知っている過去の夜久衛輔にそっくりなのだ。また、いくら首筋を探しても、自分が昨晩つけたはずの鬱血痕は見あたらなかったのも何よりもの証拠である。
 本来ならば、夜久は二十一歳であるはずだ。すなわち、この彼は自分が八年前からやってきたと言うのだ。目の前にいる夜久は何故か黒尾のことを知っていた。もちろん、黒尾がどこかで出会った記憶はない。公式試合で対戦したこともなかった。
 この夜久は黒尾と未来の自分が恋人同士であることは知らないはずであるし、そもそもまだ出会っていないはずなのである。できれば、自分と夜久の関係については口を閉ざしておいたほうが良さそうだというのが黒尾の判断だった。もしも未来を変えてしまったら、なんて思うと少し恐ろしい。
 いくらか現状を受け入れてきた黒尾は、夜久の横顔にチラリと目を向ける。高一の時からずっと一緒にいたから小さな変化には気付かなかったが、こうして改めての彼を見ていると、八年前の彼は変わっている部分がたくさんあった。
 まず表情が違う。出会ったばかりの夜久も割と落ち着いていると思っていたが、今のほうがずっと大人びている。ふとした瞬間に見せるその横顔に、黒尾がドキッとすることもあるくらいだ。前髪は今より少しだけ長くて、特徴的な眉をうっすらと隠している。その茶色の髪を掻き上げれば、きっと真っ白で綺麗な額が露わになるだろう。身長は正直、あまり恵まれていないし、身体がとにかく薄く思われる。ひどく華奢だ。今の彼だって、強く抱き締めると壊れてしまいそうなのに、目の前にいる彼はなおさらだった。
 黒尾があまりに見つめすぎたのか、夜久が不意にこちらを見る。目元は変わらないなぁ、と微笑ましい気持ちで見ていると、今度は夜久が焦ったように淡く頬を染める。それを見て、照れた時の反応も一緒だな、と黒尾は目を眇めた。そんな彼の反応がたまらなくて、黒尾はベッドに腰掛けたまま、夜久に手招きした。
 夜久は少し悩むように視線を彷徨わせていたが、やがて警戒するように黒尾の隣へやってきた。少し離れたところで正座をする夜久を見て、黒尾は思わず吹き出す。そして、いつもの調子でその肩を抱き寄せた。
 すると、夜久がハッと息を飲んだのがわかった。夜久が驚くのを見て、黒尾も異様な状況を思い出す。そうだ。この彼は自分が想いを寄せている相手であることは間違いないのだが、それはこちらの一方的なものなのだ、と。
「悪ぃ……」
 気まずくなった黒尾が夜久の身体を離し、二人の間に何となく沈黙が流れる。
 黒尾がどうしようかと思案していると、その静けさを先に破ったのは夜久のほうだった。
「なぁ、俺とお前ってどういう関係なんだ?」
 夜久が黒尾のほうを見ないで尋ねる。正座よりも少し足を崩した格好で、指先を所在なさげにいじっている。綺麗に切り揃えられた爪先を見て、その手を掻っ攫いたい誘惑に駆られそうになるのを懸命に抑えた。
「友達か、な?」黒尾は言ったが、夜久がそれを信じていないことは態度から明らかだ。
 正直に言うと、その時の黒尾は正しいことを言うべきか否かひどく悩んでいた。よく映画等であるではないか、過去を変えれば未来もねじ曲がってしまうという話が。非現実だとは思いつつ、目の前で起こっている非日常的な状況を考慮すれば、より慎重になってしまうのも仕方ない話であった。
 そんな黒尾の心情を露知らず、夜久はさらに言葉を投げかけてくる。
「……携帯の待ち受け」
 小さな声で言った夜久の様子を見て、彼が何を見たのか、黒尾にはすぐわかってしまった。きっと自分のスマホの画面を見たのだろう、と黒尾は一瞬のうちに結論づけた。この間撮った夜久の寝顔をこっそりと待ち受けにしていたのは間違いだった、と黒尾は唇を噛んだ。
 そして、何も言わず立ち上がろうとした。その黒尾の腕を夜久が強く引っ張る。ぐらりと傾いた身体と裏腹に、脳内は驚くほどに冷静で、そうだこいつは馬鹿力だった、なんて暢気なことを考えていた。咄嗟に目の前でチラつく夜久の指先を掴んでしまい、そのまま二人はベッドに倒れ込んだ。と言うよりは雪崩込んだ。
 勢いよく倒れた背中がスプリングに弾み、そしてそのすぐ後に身体全体に重みがかかる。ぎゅっと瞑っていた瞳を開けると、真正面に夜久の顔があった。どうやら黒尾の上に夜久がのしかかる体勢になっているらしい。キャラメル色の瞳が瞬くたび、その表面に自分が映っているのが懐かしく思われた。あぁ、あまりにも全てが非現実的すぎる。
 黒尾の視線から逃れるように、茶色の硝子玉は映す色を変えている。そして、ある一点でピタリと動きを止めた。
 とりあえず体勢を元に戻さなければ、と黒尾は思ったので、夜久に謝りながら身体を起こそうとするが、彼は黒尾の頭より少し上を凝視していて、それに気付いてすらいないようだった。
 そんなに今日の寝癖ひどかったかな、と考えながら、黒尾は夜久の視線の先を辿り、サッと顔を青ざめさせた。
 非常にまずいことになった、と思うしかなかった。
「黒尾、彼女いるの、か……?」
 夜久の顔が一気に暗くなる。
 懐かしい呼び名で呼ばれたことを感慨深く思っている暇はなかった。軽蔑にされたのか、と思った黒尾はしどろもどろになって誤魔化そうとするが、夜久のまっすぐな視線がそれを許してくれそうにはなかった。
「大学生だったら、そういうことをする相手がいてもおかしくないよな」
 夜久がボソリと呟く。
 その一言が黒尾に効いた。夜久にだけは誤解されるのが嫌で、黒尾はほとんど反射的に言葉を紡いだのだった。
 ――お前と付き合ってる、と。
 夜久の瞳が黒尾のものと重なり、パチパチと二回瞬いた。それからポカンと口元が緩む。そして、夜久からは思いもよらない反応が返ってきた。夜久の顔がみるみるうちに赤くなっていったのだ。
 驚いたのは夜久だけでなく、黒尾本人もそうであった。

 嘘だ、と繰り返す夜久に対して、本当です、とひたすら言い返す。何度かその問答を繰り返し、やがて黒尾の真面目な表情を見て、ようやく本当だと理解してくれたらしい。そして、黒尾の腹の上から飛び降りたかと思うと、今度はそのままそばにあった掛け布団を被り、その中へすっぽりと隠れてしまった。

 ――それが数分前の話である。
「なぁ、衛輔? やっくんー? 夜久?」
 色々な呼び名を試してみるが、いずれも言葉は返ってこない。けれども、名前を呼ぶたびに布団の塊が驚いたように上下するのだから、どうやら声だけは届いているようだ。
 以前にもこんなことがあったなぁ、と黒尾は数年前のことを思い出していた。あれは初めてセックスをした翌日のことだった。夜久は恥ずかしがって布団から出てこようとしなかったのだ。黒尾がそんな懐かしい思い出に浸っていると、夜久が目元だけを覗かせて何かを言った。
「え?」
 物思いに耽っていた黒尾はその言葉を聞き取れなくて、思わず聞き返す。黒尾が顔を近付けると、夜久はわかりやすいほどに体温を上昇させた。
 布団の下で燃えるように頬を火照らせているであろう夜久が、今度こそ黒尾にもしっかりと聞こえる声量で言った。もはやそれは叫んでいると言っても過言ではなかった。
「…黒尾と俺は"ソウイウコト"をしたのかって聞いてんだよ!」
 真っ赤な顔が布団から出ることも構わず、夜久が布団を脱ぎ捨てる。そして、丸い瞳を精一杯細めて、こちらを睨みつけた。しかしながら、そもそも黒尾は夜久のこの表情に弱いので、あまり威嚇的な効果はない。本人は威嚇しているつもりであろうが、その姿が毛を逆立てた子猫のようにしか見えないからだ。それと同時に、黒尾は夜久の気持ちに関して一つの仮説を立て、それを確信に変えた。
 夜久が自分に好意を抱いてくれているのではないか? と。
 そう思えば、止められなかった。
 腰を抱き寄せれば、予想通り細いそれは簡単にこちらへと体重を傾けさせる。わっ、と小さく声を上げる様子にすら欲情を覚えた。前髪を掻き上げれば、陶磁器のようになめらかな額が指先に触れ、指の間からふわふわと悪戯好きな毛先が逃げていく。そのどれもがよく知っている彼の姿だ。
「んん、」
 困ったような、苦しそうな声が聞こえた。それでもあやすように背を撫でれば、華奢な身体は小さく跳ねる。
「もりすけ……」
 名前を呼ぶと、ふっと彼の力が抜けて、温かい人肌の香りが黒尾の嗅覚を支配した。糸が切れた操り人形のようなその身体をゆっくりと押し倒し、桜色の唇を自分のもので食らえば、懐かしい味が口いっぱいに広がる。
 黒尾は、自分が激しい衝動に駆られているのがわかっていた。けれども、それを止めようとは思わなかった。
 ハクハクと苦しそうに呼吸をする彼。その吐息を全て飲み込むようにその赤い舌を愛でた。ざらりとした触感を舌先に感じる。唾液を絡め合わせるように口内をかき乱せば、夜久の指が縋るように黒尾の服を掴んだ。
 どこに触れれば彼が甘い吐息を零してくれるか、なんて考えるまでもない。もう身体が覚えていて、知らず知らずのうちに黒尾の本能は夜久を悦ばせようとするのだから。
「く、ろ…‥っ、くるし……ぃっ」
 弱々しい声が聞こえると共に、服がしわになりそうなほど強く握られ、黒尾は渋々唇を解放する。ゆっくりと離れると、ぬるついた唾液が糸を引く。それはまるで銀色に輝く運命の糸のようにも思われた。
 まだ僅かに呼吸を荒げている夜久は、とろりと目尻を下げ、熱に浮かされてような表情をしている。それはひどく官能に満ちていた。
「……やっぱかっこいい」
 そう言って、へにゃりと力なく笑う夜久。黒尾が驚いて目を瞬いていると、夜久は慌てたように身を起こそうとした。
「わっ! 今の間違えた! なし! 忘れて! つか忘れろ!」
 けれども、黒尾はそれを阻んだ。
「……それって本音?」
 首を少し傾けて問えば、ゴクリと唾を飲み込む音がする。目の前にいるのは紛れもなく愛おしい人で――。
「俺は衛輔のことがすっげぇ好きなんだけど?」
 真っ赤な顔でこちらを見つめる彼。もしかしたら黒尾が恋に落ちるよりもずっと前から、彼はこちらに好意を寄せてくれていたのかもしれない。
 自惚れても良いだろうか? 今の自分が彼を想っているのと同じくらい、過去の彼も自分のことを想ってくれている、と。
「もう絶対言わない……」
 そんなに意固地になられてしまえば、こちらだって引けない。ならば、と黒尾は唇を一度だけ舌先で湿らせて、その華奢な身体にそっと指を伸ばした。
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