しゃぼん玉


 どこかで誰かが大きく息を吸い込んだ。
 優しくふっと吐き出した。
 それはシャボン玉に命を吹き込み、大空の旅へと誘う。
 ふわり、ふわり。
 シャボン玉は漂って、パチンと弾けた。
 ――きっとそれは恋が始まるときの音に似ている。



 夏休みとは言っても、それは部活をしている人間にとってはあまり関係がない。むしろ授業がなくなった分だけ、部活に追われることになる。けれども、それはとても充実した日々だ。大好きなバレーを大好きなチームメイトと一緒にできる。何よりも一番そばで好きな人の笑顔を見ることができる。黒尾はこの部が好きだった。
 その日もいつものように午前・午後の練習を終えて、黒尾はバレー部の部室にいた。いつも賑やかな後輩らはもう既に着替えを終え、皆一足先に帰宅していた。
 腕に着けたお気に入りの時計がピピピっと小さな音を立てた。きっと午後七時を回ったのだろう。黒尾は時計を気にしつつ、いつものように日誌を書いていく。
 音駒高校バレー部にはマネージャーがいないので、日誌は基本的に主将と副主将が書くことになっている。誰が持ってきたかもわからない木製のローテーブルと向かい合って、黒尾は今日の活動内容について書き込んでいく。主将になって半年以上が経った。もうこの仕事にも慣れていたから、さらさらと書き進めていくことができた。
 そして、ここには黒尾の他にもう一人いた。先ほどから人形のように押し黙り、けれども、黒尾がシャーペンを動かす様子をじっと見つめている彼だ。
「黒尾って意外と綺麗な字書くよな」
 目の前で夜久が言った。三角座りをしているものだから、元々大きくはない身体が余計に小さく見えた。もちろん、そんなことを口にはしない。
「そうか?」
 黒尾がそう言うと、夜久はうんと神妙な顔つきで頷いた。
 向かいに座っていた夜久が膝をついたまま、ずりずりと移動してくる。後輩達の前では絶対にそんなことはしないのに。その様子が少しだけまぬけで、でもなんだか可愛らしくも思われて、黒尾はコッソリ口元に笑みを乗せた。
 夜久はそのまま黒尾の背中側に回って、そこですとんと腰を落ち着かせた。くっついた背中からTシャツ越しに自分よりも高い体温が伝わってくる。よく知っている夜久のあたたかさだ。今の時期はそうでもないが、もっと冬が深まり、寒くなってくると、彼は人間カイロに最適なのである。
 背筋を少し丸めていた黒尾の背中に重みがかかって、夜久が体重をかけているのがわかった。それは、決して重い重さではない。黒尾も少しだけ背中の力を抜けば、それはうまく互いを支えた。




 書きものをしている黒尾を気遣ってか、夜久は話しかけてこなかった。おかげで日誌はすぐに埋まり、十分もしないうちに仕事を終えた。
「夜久ー、終わったよ」
 けれども、返事は返ってこない。不思議に思って黒尾が首だけを後ろに回すと、すぅすぅと寝息が聞こえた。
「夜久、寝てるのか…?」
 返事がないことが一番の答えだった。
 連日、朝から夕方まで練習をしていたのだ。疲れてしまうのも仕方ない。休憩中だって後輩の指導をしてくれていたし、練習後も自主練習で残っていたから、夜久の練習量は他の誰よりも多いことだろう。彼がそれを表に出すようなことはしないけれど。
 黒尾が身体を動かすと、夜久が寝ぼけた声を出して何かを言ったが、それははっきりとした言葉ではなかった。意外と朝に弱い彼は、もしかしたら眠りが深いのかもしれなかった。
「お疲れさま」
 そう言って、背中にかかる体重を自分の腕の中に持ってくる。すっぽりと腕の中に収まった夜久は、すやすやと心地よさそうに眠っていた。もう一度、名前を呼ぶと、少しだけ開いた口元が小さく曲線を描いた気がした。
 腕時計が再び、ピピッと音を立てた。あれから三十分が経ったらしい。既に太陽が沈んだのか、先ほどまで窓から差し込んでいた西日はもう感じられなくなっていた。活動時間をとうに過ぎた部室の中は、しんと静まり返っている。他の部活の生徒達も帰ったのか、外からも声はせず、まるでこの世界に自分達以外に誰もいないようだった。
 彼と出会うまで、こんなにも温かい気持ちになれることを知らなかった。色素の薄い髪は少し癖があって、ふわふわと柔らかい。まるで心の中にあるこの気持ちのようだ。 黒尾は、こそこそと自分のカバンに手を伸ばし、そこからスマホを取り出した。音が小さいカメラアプリを起動して、その眠っている子猫の彼にピントを合わせる。カシャッと小さな音がするが、夜久の耳には届いていないようだった。
 綺麗に映し出された画面を見て、黒尾は満足げな笑みを浮かべる。またひとつ宝物が増えた、と。ピクピクと時折動くまつげを見つめ、安心したように下がっている眉にも目をやった。ただそれだけで呼吸ができなくなりそうなほど、胸を締め付けられた。

 最初にパチンと小さな音が鳴ったのはいつのことだったか。彼と初めて会ったとき? それとも、初めて話したときだろうか。あるいは初めて彼の優しさに触れたときかもしれない。
 恋を重ねるたび、淡い色のシャボン玉がパチンパチンと切なくも美しい音を立てる。あといくつ音を鳴らせば、彼は振り向いてくれるだろうか。
「夜久……」
 パチン、とまた音が鳴った。
 好きだよ、好きなんだ。
 彼が起きたら、寝ぼけた振りをしよう。そう決めて、黒尾もその身体に抱きつくとそっと目を閉じた。どこかでパチンと音が鳴っているようなそんな気がした。

【完】

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