ねぇねぇ、聞いて


なぁ、黒尾。
 ――お前と会った瞬間、赤い糸が見えた気がしたんだ。
 なんて言ったらお前は笑うかな?





 秋晴れ、と言うに相応しい空模様。鰯雲がふわふわと青空に泳ぎ、夏よりも微笑みを柔らかくした太陽の光が夜久達の頭上に降り注いでいた。
 ここは三年生の棟の屋上。普段は南京錠で鍵がかけられていて、立ち入り禁止になっているその場所であるのに、何故か黒尾はそこの鍵を持っていた。
 人目の多い学校の中で、夜久達が二人きりになれる数少ない場所。それがこの場所だった。だからこそ、ここは夜久と黒尾のお気に入りの場所だったのだ。
 給水タンクにもたれ掛かる形で夜久はその脚を伸ばしてくつろぐ。その腿に頭を預け、瞳を閉じているのは、紛れもなく黒尾鉄朗である。夜久の左手は黒尾の腹の上で彼の手と絡まれている。夜久は手持ち無沙汰になった右手で自分の髪をいじり、そっと青空を見上げた。
 夜久と黒尾は恋人関係にある。それは一部の人間しか知らない事実。昼休みのこの時間は、そんな秘密を持った二人が友人としてよりもほんの少しだけ親密に触れ合えることができる貴重な時間だ。
 視線を下に落とした夜久は、その幸せを実感して、目を眇めつつ、黒尾の寝顔を見ていた。夜久が座っている場所は他人の目につきにくい場所で、そこだけは太陽の光が届いていなかった。ただし、日陰になったそこでも十分に暖かな日差しを感じられる程度にはその日の気候は過ごしやすいものだった。
「なぁ、やっくん」
 夜久がその寝顔に目を奪われていると、ゆっくりと目を開いた黒尾が二人っきりの時にだけ出す甘ったるい声で呼びかけてくる。パチンと音をたてて交わる視線。友人である時間が長かった二人のことだ。今でも恋人として扱われることに慣れなくて、夜久はそれだけのことで鼓動が早くなるのを感じていた。
「ん、どうした」
 それでも、何でもないように返事をして、撫でていた彼の髪を指に絡ませる。微かに染まった耳を見られてしまったのだろうか。夜久の方を見つめて、黒尾が嬉しそうに目尻を綻ばせた。夜久は、この甘ったるい空気を恥ずかしいと思うと同時に、このうえなく幸福だと感じていた。
「俺、サンマ食べたい」
 黒尾が瞳を空へ向けて、そう言う。
「……勝手に食べてろ。ちなみにあれは鰯だからな」
 言葉運びは少しキツい。それでも夜久が黒尾の髪を撫でる手つきの柔らかさは変わっていなかった。
「知ってる」
 黒尾も夜久の言葉を気にしている様子はない。むしろそのやりとりを楽しんでいるように見えた。
 そんなくだらない会話を交わしながら過ぎ去っていく時間が心地良いと思った。だから、自然と目元が柔らかくなってしまうのも仕方ないことである。
「黒尾の髪ってしっかりしてるよな」
 黒尾の髪を繰り返し撫でながらそんなことを言う。頭を撫でるたびに黒尾が気持ちよさそうに目を細めるのが嬉しくて、何度もその黒髪を指でかき混ぜる。黒尾が自分に心を許してくれているのが伝わるから、こうして触れ合うのは好きだった。
「まぁ夜久の髪は柔らかいもんな」
 ウサギの毛みたいで好き、と黒尾が言う。
 唐突に好きだ、なんて言われて、柄にもなく夜久は照れてしまう。返す言葉が思いつかなくて、ただ無言のまま繋いだほうの手に力を込めた。
 そんな夜久に気付いているのか気付いていないのか、黒尾は満足そうに繋がれた手を見つめていた。

 雲が流れる――。

「なぁ夜久」
 しばらくして聞こえてきた音量を抑えたその声。夜久はなに? と彼の顔に自分のものを近付けて、声が聞き取りやすいようにした。そうすれば、先ほどよりも至近距離で交わる視線。その瞳は黒曜石のように深い色を湛えていた。
「お前と会った瞬間、運命だって思ったんだ。
 ……なんて言ったら笑う?」
 夜久は突然のその言葉に驚くが、その次の瞬間、ふっと笑みを漏らした。
「笑うなよな、本気なんだから」
 黒尾が少しだけ恥ずかしそうに、そして拗ねたように視線を逸らす。
「違う違う」
 夜久が口元を緩ませたまま否定すると、黒尾は不思議そうにこちらを見上げた。その表情ですら、夜久の口元の曲線を緩ませる理由になった。
「俺も同じこと思ってたから嬉しくて……」
 最後まで言い終わるか終わらないうちに、ガバリと黒尾が身体を起こす。そして、ぎゅっときつく抱き締められる。
「ダメ、反則。ずるいっつーの」
 伸ばした脚に彼の体重がかかって悲鳴を上げれば、その脚を手際よく三角にたたまれる。そして、夜久が痛みから解放されたことに安堵する暇もなく、今度はその端正な顔が自分のものにぐっと寄せられた。
 彼の左手が自分の頬にかけられて、夜久は自分の胸に期待が生まれるのを感じた。反射的に瞳を閉じれば、そこには予感した通りの柔らかさが届く。それから、一瞬でもそのぬくもりを期待していた自分を恥じて、夜久はパッと頬を淡く染めた。
 一瞬だけ触れたそれは、どうしようもなく愛おしい。黒尾と視線が合ったから、勇気を出してもう一度瞼を閉じてみた。ゴクリとどちらのものともしれぬ唾を飲み込む音がする。
 黒尾は、夜久の不器用なおねだりを理解したのか、もう一度キスが与えてくれる。それは一度目よりも長く、深く――。
 空の色が残っていた脳内が、徐々に白く、淡い桃色に染められていく。きゅっと胸の奥が締め付けられて、呼吸が苦しくなった。それだけでなく、舌を擦り合わせるようなキスに、身体の芯が溶けるように熱くなる。
 震える指先を縋るように差し出せば、それは自分のものよりも大きな手のひらに包み込まれた。
 自分の名前を呼ぶ甘く掠れた声が愛おしかった。





なぁ、黒尾。
 ――お前と会った瞬間、赤い糸が見えた気がしたんだ。
 なんて言ったらお前は笑うかな?

 いや、きっと彼のことだ。
 俺もそうだった。そう言って抱き締めてくれるのだろう。

 それは遠いようで近い未来のお話。

- ナノ -