#3


 部室にも、体育館にも黒尾の姿は見あたらなかった。学校中を走っている間に体温が上がり、邪魔になってしまったコートを手に持ったまま、夜久は黒尾の姿を探す。
 もしかして入れ違いになってしまったのだろうか? とも考えるが、すぐにその可能性を否定した。まだ黒尾は校内にいる。夜久の直感がそう教えてくれていたからだ。
 バレー部の部室、そして体育館。その他にも黒尾が行きそうな場所はいくつかある。
 けれども、人目を避けたい黒尾が選ぶのはきっと――。


 夜久はよく黒尾と昼食をとった思い出の屋上へと足を運んでいた。普段閉まっているはずの鍵が開いていて、そこに彼がいることを暗に教えてくれていた。
 金属の軋む音がして扉が開く。今日は一月に入って一番の冷え込みで、朝には微かに雪さえもチラついていた。これから日が西に傾くと、気温はさらに下がり、身を切るような寒さが身体を襲うことは明らかだった。
 そんな屋上の奥側、扉から一番遠いところに黒尾はいた。

「黒尾」
 交錯する感情を押し殺し、呼び慣れたその名を呼ぶ。彼の名前を呼ぶだけで愛おしさがこみ上げてきて、何故か目頭が熱くなった。
 フェンス越しに曇り空を見上げていた黒尾は、こちらを振り向かなかった。足下には大きく膨らんだ鞄、そして自分と色違いのマフラー、黒色のダッフルコートが置かれたままだった。きっと皆と別れて、そのまま来たのだろう。
 夜久はそんな黒尾の背中に近付いた。
「鉄朗」
 もう一度名前を呼ぶ。二度目は二人しか知らないその呼び名で。
 囁くようなその声に反応して、黒尾の肩が小さく跳ね上がった。
「衛輔……」
 今度こそ、ゆっくりと大きな影が振り向く。その表情は少し暗かったが、彼が泣いていた様子はなかった。

 ――本当に不器用なやつだ。

 夜久は仕方ないな、と僅かに笑みを漏らす。そして、自分の荷物を無造作に足下へ置いて、こちらを振り返った黒尾に向かって大きく手を広げた。
「おいで」
 黒尾は僅かにためらうように瞳を揺らす。
「鉄朗、こっちにおいでよ」
 夜久はふわりと微笑み、同じ言葉を繰り返した。それを見て、黒尾はようやくこちらに歩みを進めようとする。
 二人の距離は僅か十歩ほどだ。黒尾は夜久の目の前まで来ると、もう一度だけためらうように夜久を見つめた。
 夜久はそれに応えるように頷く。そして、自分から彼に抱きついた。夜久が体重を少しだけ預けると、自分のものより幾分もたくましい腕が背中に回される。黒尾が自分の肩へ顔を埋めてきたのを確認してから、夜久もその広い背に腕を回した。自分より大きな身体が今だけは弱々しく思われた。
 夜久にくっついたまま、黒尾は身動き一つしようとしない。カーディガン越しに懐かしい体温が伝わっていた。
「俺達の主将、お疲れさま」
 夜久が小さく呟くと、黒尾がハッと息を飲む気配がした。
「……だから。もう泣いてもいい、我慢しなくていい」
 夜久はまるで赤子をあやすようにその広い背中を撫でた。ずっと側にいるよ、と囁きながら。
 黒尾の肩が微かに震え始め、その震えは弱々しく発せられる声にも伝播していた。
「俺……俺……っ」
 夜久が手のひらで黒尾の背をたたくたび、ぽすんと間抜けな音がする。
 鼻をすする音が聞こえて、ついに黒尾が耐えきれず嗚咽を漏らす。

 ――知ってる。
 彼がどんな思いでバレーをしてきたのか。彼がどんな思いで後輩達の指導をしていたのか。
 そして、今日。どんな思いで最後の言葉を話したのか。
 全部、全部知ってる。お前のことなら全部知っているんだ。
 だから――。

「俺の前では無理しなくていいんだからな」
 いつもしっかり者の主将である必要はない。恋人である自分を頼って欲しいし、弱い姿だって見せて欲しい。苦しいことや悲しいことは分け合って、半分にしたいと思うのだ。
 黒尾につられるように夜久の瞳からも涙が零れる。腕の中でそれをしているのだから、黒尾が気付かないはずもなかった。
「へへ、お前までまた泣いてるじゃねぇか」
 鼻をぐずつかせながら黒尾が笑う。そういう黒尾の目元だって、うさぎのように赤くなっている。その様子がおかしくって夜久も思わず笑ってしまった。
「うるせぇ」
 涙は止まらないのに、それがまたおかしくって。
 そして一緒にいられることがたまらなく嬉しくって。
「ずっと一緒にいてくれてありがとな」
 なんて黒尾が言うものだから、せっかくおさまってきた涙がぶり返してしまう。

 ――お前達とバレーできて本当に良かった。

 ――お前と出会えて本当に良かった。

 それは夜久にとって最高の言葉達だった。

 抱き合って涙を零す二人の姿を見ていたのは、雲の隙間から僅かに顔を覗かせる太陽と、その光に反射してはらりはらりと軽やかな舞を踊る粉雪だけだった。


【end】

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