願わくば、その肌に血の如く赤き華を


 あれは付き合い始めて数ヶ月が経ったころのことだったと記憶している。
 夜久と黒尾だって、ごくごく普通の健全な男子高校生だ。心の関係ができあがれば、すぐに”ソウイウコト”をすることになると夜久も思っていた。けれども、数ヶ月経って二人が経験したのは、幼稚園児がふざけてちゅっとやるような可愛らしすぎるキスだけだった。
 そんな黒尾に対して漠然とした不安を覚えた夜久は、ある日尋ねてみたのだ。外では北風が吹いている、そんな冬の日だった。
「なぁ、黒尾って俺を見てムラムラしたりしないの?」
 夜久が目の前の黒尾に問いかける。
「はぁ!?」
 黒尾は飲んでいた麦茶を勢いよく吐き出した。まるでお決まりのコントだ。周りに誰かがいれば、黒尾は笑いの対象となっていただろう。けれどもそこに夜久以外の人間はいなかったことが幸いした。
「うわっ、ちょっと汚ねぇな!」
「お前が変なこと言うからだろうが!」
 夜久がポケットから出したティッシュを差し出してやると、黒尾はそれを大人しく受け取り、お礼を言った。それで濡れた制服と机をゴシゴシと拭く。
「で、夜久くんはここがどこかお忘れかな?」
「忘れてねぇよ。……つか前髪まで濡れてる」
 マジ? と慌ててそこを拭おうとする彼に、マジマジ、とだけ答えて、夜久は新しいティッシュで滴を拭った。
 そこは三年五組の教室。ほとんどの生徒はすでに次の授業のために理科室へ移動していたから、そこには黒尾と夜久の姿しかなかった。
「……とりあえず今日俺んち来い。ここで話す話題でもないし、家でいっぺん話しようぜ」
 なんだかはぐらかされた気がしないこともないのだが、夜久はその言葉に素直に頷いた。
 そして放課後の練習が終わったあと、夜久は黒尾の自室にいた。
 そこで黒尾は言ったのだった。そういうことをするのは互いが高校を卒業するまで待ちたいーー、と。根が真面目な彼らしい発言だと思った。
「夜久さ、男同士のセックスってどうやってやるかわかってる?」
「うん」
 もちろん、そういうことに興味がないわけではなかったから、黒尾と付き合い始めたときにインターネットで調べていた。
「じゃあわかると思うんだけど、あれって受ける側に負担がかかるのな。たぶん体格的にはお前が下だし、夜久の身体を大事にしたいな、と思って」
 当時の夜久は、彼はそこまで考えていてくれたのか、と感動したのを覚えている。嬉しかった。それは今でも変わらない。

 けれども最近の夜久は思うのだ。あれから半年。夜久は十八歳になり、黒尾だって二ヶ月もしないうちに夜久の年齢に追いつく。もっと深い部分で繋がってみたいと思ってしまうではないか。

 +++

 八月末。合宿も無事に終わり、新学期まで残り二週間を切った。
 今日から明後日まで、部活のオフに合わせて、夜久は黒尾の家にお泊まりだ。午前中だけ練習があったが、明日と明後日は完全に丸一日オフ。久しぶりの休息日だった。
 夜久はベッドに背中を預けながら、漫画を読んでいた。黒尾はベッドの上にごろんと横になって同じく漫画を読んでいた。
「それ面白いだろ?」
 黒尾が寝転んだままベッドの上を移動して、夜久の背中に器用に抱きつく。
「まだ三ページしか読んでないからわかんない」
「え、ちょ、それはさすがに読むの遅すぎるだろ」
「う、うるさい! 読み込む派なんだよ!」
 背中にへばりつく彼を意識していたせいで、言葉を少し噛んでしまった。それに対して彼は無遠慮にケラケラと笑い転げている。全く失礼なやつである。
 付き合ってから知ったことだけれども、黒尾はやけにスキンシップが多い。今のように二人っきりになれば、大体は夜久の身体にへばりついている。肌寒い冬ならともかく、クソ暑いこの時期にそれをされるのは多少不快であることも確かだが、さらに正直に言うと決して悪い気はしていなかった。
 少し首を後ろに回せば、灰色がかった瞳と視線が絡まる。その瞬間、部屋が甘ったるい雰囲気を纏うのは、紛れもなく二人が恋人同士だからである。
「夜久……、」
「ん、」
 重ね合わせる角度を変えて、何度も唇を触れさせた。キスをした回数なんてもう数え切れないけれど、今でも慣れなくてドキドキしてしまう。そして、今日も黒尾の唇は何度か夜久のそれを味わうと、すっと離れていってしまった。優しすぎるキスはほんの少しだけ物足りなくて、そのぬくもりが遠のいた唇にそっと指を添えてしまいそうになった。
 唇を離すと、夜久は自然な仕草で手元の漫画に目を落とす。けれども、ストーリーは頭に入ってきていなかった。今日のところは潔く諦めて、また今度借りようかと考え直し、さっきから構って欲しそうに背中をいじっている彼に話しかけた。子どもか、と思ったけれど、夜久はそれを口にするほど子どもではない。その代わりに素朴な疑問を唇に乗せて問うた。
「……あのさぁ、お前って俺にムラムラしないの?」
 背中を辿っていた手がピクリと止まり、驚いて跳ねさせてしまったのか、黒尾の脚がベッドの端に置いてあった漫画の山の一部を蹴り飛ばした。バラバラというけたたましい音とともにそれらは床に落ちていった。
「いてぇぇ!!」
 全く自業自得、である。
「……何してんだ、お前」
 思わず白い目を向ける夜久を黒尾が睨みつける。
「お前がいきなり変なこと言うからだろ」
 いつの日か交わした会話を思い出しながら、夜久は黒尾を見つめる。体勢を整えた黒尾は「で、なんでまたそんなことを?」と尋ねてきた。猫のようにしなやかな動きでベッドから降りてきた姿をかっこいいなんて少しも思っていない。
「だってもっと触れたいなって思うのは俺だけなのかなって」
 夜久は隣に腰掛けた黒尾に言う。
「キスしたらもっとムラムラしないの? 俺はしてる!」
「……お前、それ威張るとこじゃねぇよ」
 呆れたように言われるが、夜久だって本気なのである。
「でも……!」
「前言ったよな? お前の身体に負担かけたくないって」
「ディープキスもしてませんけど」
「あ、それはだな……」
「何、クロは俺のことそこまで好きじゃないんだー」
 棒読みなのはわざとだ。
「それは違うって……!」
 口を尖らしてそっぽを向けば、焦ったように黒尾がそれを否定する。
「じゃあなんで?」
「……」
「言えないんじゃんか」
 ちょっと気まぐれで尋ねてみただけなのに、思いがけない反応につい拗ねてしまいそうになった。そう思って漫画をテーブルに置くために立ち上がろうとすると、黒尾がその腕をとって夜久を引き留めた。
「……そんなキスしたら我慢できねぇからに決まってんじゃん」
「……え?」
 こんなこと言うつもりなかったのに、と黒尾が髪をかき回す。
(何それ、俺すげぇ大切にされてる……?)
「あぁもうマジで……やめて、そんな煽んな……」
 黒尾は視線をそらしてしまって、ブツブツと何か言っている。
 夜久はそんな姿を見て、口元が自然と上がっていってしまう。だって飛び上がりたいくらい嬉しいんだもの。視線を逸らされているのを良いことに、夜久は黒尾をジロジロと観察した。ちょっとだけ赤くなっている耳とか、口元を覆う少し骨ばった指の感じだとか、やけに多い瞬きの回数だとか、どれもかれも目に焼き付けておきたいと思った。
 夜久がそんなことを考えていると、黒尾はしばらくして顔を上げた。その唇はきゅっと一文字に結ばれていて、心なしか表情が硬い。夜久がその表情の意味を捉えかねていると、黒尾が口を開いた。
「悪ぃ。我慢できなさそうだわ」
 彼は飄々と言い放った。どこか開き直っている様子の彼を思わず「はぁ!?」と睨みつけると、「夜久も共犯だからな」とムカつく台詞が返ってくる。
 身体が持ち上がって、ベッドにふわりと押し倒された。漫画は手から抜き取られて、ご丁寧にテーブルのうえだ。
「夜久、最後まではヤらないから。お願い……」
「そ、それはどういうことでしょう?」
 思わず敬語になってしまう。
「突っ込まねぇから……触らせてクダサイ」
 一発蹴ってやっても良かった。けれども、頼りない言葉とは裏腹に飢えた野獣のように瞳をぎらつかせる彼の姿を見れば、身体が動かなくなってしまったのだ。壊れた人形のようにうんうん、と頷くだけが精一杯だった。その瞬間、嬉しそうにニッと目元を緩ませる彼はどこまでも夜久の心を乱す。悔しいけれど、夜久の想い人だ。
「ではいただきます」
 手を合わせる彼に、最後まではできないからと念を押す。
「当たり前だ。約束は守る。言ったろ。高校卒業してからだ、つって」
 髪を撫でるその手が気持ち良くて、夜久はそろりと瞳を閉じた。


 互いの服を脱がせ合って、二人とも下着一枚の姿になる。黒尾の身体は筋肉隆々というわけではないが、腹筋は綺麗に割れているし、腕もそれなりの太さがある。モデルのような理想的な身体だと思った。自分も一応腹筋だって割れているし、運動している分それなりに筋肉もついているが、彼には到底適わない。
「夜久……嫌になったら言えよ」
「ん、わかった。黒尾もな」
「ん。……でも俺たぶん問題ない」
 小さく言った後半の言葉は聞こえなかったけれども、そのとき黒尾が自分の首元に顔を埋めてきたので、それを聞き返す機会はなかった。さらさらとした肌が重なり合って、黒尾の肌の感触が直接伝わってきた。
「聞こえる? 俺の心臓すげぇドキドキしてんの」
 黒尾が耳元で低い声で囁くと、夜久の心臓はさらに忙しなく動き始めた。重ね合わさった肌から彼の鼓動も聞こえてきた。
「聞こえる」
「お前のも聞こえるよ。すげぇドキドキしてるな」
 黒尾が顔を近付けてきたので、夜久は目を閉じた。予感した通りそこに触れるはよく知った優しい感触。いつものようにそれは角度を変えて何度も夜久の唇を愛でた。こんなに丁寧に扱われてしまえば、自分が壊れやすいガラス細工にでもなった気持ちになってくる。そして同時に、もっと乱暴に扱われたって自分は壊れないのに、とも少し思う。いつものキスに夜久が少しだけ平常心を取り戻しつつあったとき、わずかに唇を離した黒尾が至近距離で話しかけてきた。
「……ちょっとだけ口開いてみて」
 言われるがままに口を開けば、上手、と吐息交じりに囁かれた。そして、黒尾の舌がわずかに開いた唇の間から口内に進入してくる。前歯をなぞるように舌を動かされて、ついビクリと身体を揺らしてしまった。
「……怖がらなくて大丈夫だから」
 優しく囁かれてしまえば、その低音にくにゃりと身体の力が抜けた。舌が歯列の隙間から奥に入ってきて、上顎の粘膜を舐める。それを繰り返されると、ゾクゾクとした何かが背筋が駆け上がった。あぁ、これは間違いなく快感だ。黒尾の舌はまるで生き物のように夜久の中を蹂躙して、その熱で理性を溶かしていった。自分の口の中が熱くなりすぎて、自分のものではないように思われた。
「舌、出して……」
 大人しく舌を差し出せば、それが黒尾のものと絡み合わせられる。そんな舌先から唾液が零れそうになると、黒尾の舌が器用にそれを掬いあげ、再び口の中に戻された。
 甘い。そう思った。砂糖菓子のような強い甘さはないのだけれど、舌は紛れもなく甘味を感知していた。そのまま舌を突き出し合って唾液を交換すれば、飲み込めずに垂れたそれが口周りを汚し、喉仏のそばを流れていった。口周りが濡れる感触はあまり心地の良いものではなかったが、黒尾とのキスはそれすらも気にならなくなるほど官能的だった。
 黒尾がゆっくりと唇を離すと、唾液の糸がつつーっと二人を繋ぐ。思考回路はもうほとんどぼやけてしまって、その道筋を頼りに理性的な思考が紡がれることはほぼ不可能だ。キスだけでこのようになってしまって自分は大丈夫だろうか、と夜久はようやくここで自分が危険な道へ足を踏み入れてしまったことに気が付いた。
「肌、綺麗だな」
 そう言いながら、今度は首筋や胸元にキスをし始める黒尾。鳴り響くリップ音が恥ずかしくて、つい強く目を瞑ってしまった。
「怖い? それとも恥ずかしい?」
 まぶたにキスを落とされたあと、耳元で優しいテノールが聞こえる。
「怖くないけど恥ずかしい……」
 あまりの優しさに夜久は素直に返事をしてしまった。夜久がそう言えば、黒尾はまるで猫をあやすように耳の付け根を撫でた。
「大丈夫……。恥ずかしくねぇよ、俺たちは恋人だろ」
 穏やかな低音に導かれるように夜久はまぶたを上げる。そこには目を少しだけ細めて、愛おしげにこちらを見つめる黒尾の姿があった。
「まぁ、偉そうなこと言って、俺もすげぇ緊張してるんだけどな」
 そう言って黒尾が照れくさそうに笑う。
「だから同じ。夜久の気持ち良いところ全部教えて」
 そして黒尾は夜久のこめかみにキスをした。夜久がひっと声を引き攣らせると、黒尾はそれに気を良くしたらしく、耳たぶを唇で食み始めた。
「黒尾、くすぐった、い……」
 くすぐられているような穏やかな快感は、夜久の身体を徐々に燃え上がらせていく。
「そういうときは素直に気持ち良いって言うんだぜ?」
 口端を片方だけ上げて、意地の悪そうな笑みを浮かべる彼には、夜久の心情なんて全てお見通しであるようだ。一度離れたそこに再び湿った柔らかさが帰ってきて、今度は耳の穴を舌で舐められる。ピチャピチャと濡れた音が直接鼓膜に響いてきて、あまりにも官能的な状況に夜久は眩暈を起こしそうになった。
「あ、それ気持ち良い、かも……」
「ん、素直でよろしい」
 黒尾は反対側の耳にも舌を差し込み、その舌先で丁寧に愛撫した。唇を離されたほうのそれは、その指で存分に甘やかされている。軽い音を立てた唇が飛び跳ね、それは今度は別の場所へ移動しようと、緩やかな弧を描いた。
「今のところ大丈夫そうだな」
「ん、大丈夫」
「良かった」
 黒尾が安堵したように目を綻ばせ、その唇を胸元に乗せる。そして、乳輪の周りを囲むようにキスの嵐が降った。さすがに男だからそこに快を覚えることはないが、夢中でキスをする黒尾の姿に愛おしさが募ったのは事実だ。
 夜久に抵抗の様子が見えないと判断したのか、今度は胸の中央でまだ存在を主張していない尖りに手を伸ばした。小さなそれを立たせるように黒尾の指がそれをこねる。快感はないはずなのに、そこは何故か最初よりも硬くなって、つんと立ち上がり始めた。そこまで来ると、とんがった部分を優しく抓られるたび、なんとも言い難い違和感が身体を襲う。気持ち良いような、けれども快感には一歩届かないような、非常にもどかしい感覚だ。この違和感の理由を知りたいと思った。
 両方の粒を丁寧な愛撫で立ち上がらせると、その片方を黒尾が口の中に含む。指とは比べものにならない刺激が腰の奥を痺れさせる。思わず眉間にしわを寄せると、「夜久、こっち向いて」と黒尾の声がする。その声を拾って視線を下へやると、黒尾も同じようにこちらを見ていた。
「俺のこと見ててな」
 あぁ、こんなに低くて甘い声で話す彼のことなんて知らなかった。惚けた頭のまま頷くと、黒尾は満足げに笑う。
 なんだろう、この感覚は。例えば、性器に直接与えられる刺激が荒れ狂う大波だとしたら、これは穏やかな湖の水面のような優しさだ。時折風に揺られて上下する水面は見ているだけで安心するのに、それと同時になんだか無性に切なくもなる。小さな水面の揺らめきは、だんだんとその振り幅を大きくして、さざ波を形作っていく。そして、そこに何かが飛び込んでくれば、その場所には今まで見たこともないほど高い水柱ができあがるのだ。
「あぁっ……!」
 今まで舐められるだけだったそこを吸われる。バシャンと脳内に大きな水音が響き、何かが中に飛び込んできた。美しい水柱が立った。
「あ、くろお……」
 見開いて宙を彷徨っていた瞳を目の前の彼に戻せば、そこには不敵に笑う黒猫の姿があった。
「すげぇ良い声……」
 どこか恍惚とした表情で囁く彼が熱っぽい吐息を漏らす。その熱さにこちらまで焦がされてしまいそうだ。そして舌で愛でていたそこを指先でなぞった。さっきまでそこで強い刺激を感じることなんてなかったのに、今は腰が動きそうになるような変な感じがゾクリと広がった。下着の中の自身のものが小さく反応を見せたことにも気が付いていた。
 黒尾はそのままそこから手を離すと、再び身体中にキスを降らせ始める。けれども、さっきまでと違うのは、自分の身体のスイッチが入ってしまったかのように、黒尾の唇や指が触れるたび、そこから鋭い快楽が伝わってくることだ。唇を噛んでいなければ、さっきのような変な声が出てしまいそうで、夜久はぎゅっと前歯で唇を噛んで声を押し殺していた。あんな女みたいな声を出すなんて恥ずかしくて絶対にやだ。身体全体が心臓になったみたいで、息が苦しいと思った。
「夜久、唇切れる」
 黒尾はそう言ったかと思うと、舌で夜久のそこを舐めた。突然のことに驚いて緩んだ口元からまた黒尾の舌が入ってくる。少しだけ鉄の味がしたから、あのまま歯を食いしばり続けていたら本当に傷になっていたかもしれない。
「んん……ふぁ……っ」
 ーー誰、今の甘ったるい声を出したのは。
 出来立ての綿菓子みたいで、胸焼けしそうなほどに甘いそれ。
「夜久、可愛い」
 今の声は自分か、と夜久は白んだ思考の端でそう思う。キスはまるで噛みつかれているような気分になるほど激しくなっていって、背筋のゾワゾワする感じは止まってくれそうにない。黒尾が片目にかかる前髪をうっとうしそうにかきあげる。その仕草にドキリとしていると、再び息ができないくらいきつく唇を覆われた。キスを交わしながら、黒尾の手が夜久の身体中を探り始める。彼のあの指が肌のうえをすべっていると考えるだけで、腰の奥に痺れるような重みが加わった。
 夜久は黒尾の手が苦手だ。自分のものよりも大きくて、骨ばった男らしい指をじっと見つめれば、どこか情欲的にも感じられる。その手に触れられれば、それだけで心臓がおかしくなるからその手は苦手だった。
 絶え間なく唇に感じる官能だけでも精一杯なのに、右手の指先が夜久の身体に悪戯を仕掛ける。身体中があっという間に熱くなって、黒尾の触れたところには電流が走ったように強い刺激が走った。唇で覆われたその奥で音になれなかった声たちが渦巻き、その小さな焦れったさは積もりに積もって、そして溢れ出すーー。
 まるでコロンと可愛らしい音を立てて飴玉が転げ落ちるように。その飴玉を嬉しそうに拾って食べてしまうのは、もちろん目の前で琥珀色の瞳をぎらつかせる黒尾鉄朗その人だ。
 何故、彼は自分が恥ずかしい声を上げるたびにそんな嬉しそうな顔をするのか。そして瞳の奥にある漆黒をさらに濃くするのは何故なのか。
「夜久……ほんとお前やばい……思った以上に……」
 口元を覆ってそう言う黒尾を見て、何故か喉が鳴った。あぁ、本当にわからないことだらけでどうにかなってしまいそう。真っ赤な唇を隠すその指を食べてしまいと思った。
「っっ……! 夜久ッ!?」
 美しげな血管が浮き出る手首を攫って、その先にある指を口に含んだ。黒尾が驚いて名前を呼ぶが、放っておいた。今はほのかに甘く感じられる彼の指を満喫していたかったから。さっき黒尾が舌で肌を愛でていたときのことを思い出しながら、夜久はそこを唇で甘やかしてみる。真剣にそこを舐めていたら黒尾の吐息が荒くなったように思われて、ふと彼の顔を見上げてみると、そこにはわずかに眉間にしわを寄せてこちらから視線を逸らす彼がいた。一見すれば怒っているようにも見える表情。けれども、夜久はそうは思わなかった。だって、さっきの自分とたぶん一緒だ。嬉しくなって薬指の根本にキスをすれば、そのまま黒尾の手を持っていた両手を彼に奪われてしまった。
「黒尾っ!?」
 今度は仕返しとばかりに、黒尾が夜久の指を一本ずつ丁寧に舐めていく。最初は親指。それは黒尾の口内にすっぽりと入ってしまった。少しざらついた舌の感触がくすぐったい。そしてちゅぽんと派手な音を立ててそれが唇から抜かれると、次にその唇がついばむのはもちろん隣の指だ。舐められたり、口に含まれたまま頬の粘膜にこすりつけられたり、先ほど自分がしたたどたどしい愛撫とは比べものにならない刺激が指先を襲う。桜色をした爪に歯を立てられると、真っ赤な唇と真っ白な歯のコントラストが目に痛かった。綺麗だと思った。
 元々、この黒尾鉄朗という男は何もかもが美しいのだ。こちらが憎たらしく思うくらい。その彼が自分に夢中になってくれていると思うだけで、身体が歓喜に打ち震えそうだった。
 最初は思考が朧気になっていくこの感覚がひどく恐ろしかったが、今はもう怖いとは思わない。だって目の前にいるのは、彼ではないか。
「好き………」
 気が付けば譫言のようにそうつぶやいていた。黒尾からの返事はなかった。けれども、その瞬間激しくなった愛撫に全ての答えがあった。
「は、ぁぁぁ……っ!」
 肩口に噛みつかれて悲鳴のような嬌声が飛び出す。痛い。けれども、突き刺さる八重歯が愛おしいと思った。そしてもっと欲しいと思った。濡れた指が肌のうえを這って、狙いを定めたそこへ唇を差し出す。
「……んっ、黒尾…」
 肌に吸い付かれると、摘まれたようなチクリとした痛みが走った。その瞬間、ぞわりと身体中の毛穴が広がるような奇妙な感じが全身に伝わった。その波がおさまる前に次の場所に焦点が合わされる。そこに残るは純赤色の花びらの数々。夜久が黒尾のものであるという、目に見える証。
 そしてその小さな痛みに慣れたころ、思い出したように与えられる歯による輪状の痕。真っ赤な鎖は、夜久の心も黒尾の心もきつく縛り付けた。
 すでに下着の中のものは先走り液を零し、その先を劣情に濡らしている。立ち上がったそれが主張をしているのは、わざわざ確認するまでもなくわかっていた。そこ以外から与えられる快感のせいで焦れた夜久は、無意識のうちにももを擦り合わせ、もどかしいそれを解放してしまおうとする。それに黒尾が気付かないはずもなくて、彼はニンマリと口元に笑みを乗せ、自分の下唇を舌先で湿らせた。
「……っ!」
 下着のうえからそれを触られて、声にならない声が上がるとともに、腰が弓のように反り返る。ハッとなって顔を見上げた。
「……嫌?」
 そんな捨てられた子猫のような瞳で尋ねられて、誰が嫌だと彼を拒否できるのだろうか。ううんと首を横に振れば、良かったと低い声が鼻先をくすぐった。鼻先に噛みつかれて、子どものような仕草をする彼に心の器から溢れてしまいそうなほどの情が募った。
 けれども、その指先が与える快は子どものものとはまるで違う。思わずきつく閉じたまぶたの奥で、幾千もの星屑がちらちらと散っては美しい金の花を開かせた。それは彼の瞳と同じ色。
 下着を脱がされても抵抗らしい抵抗はしなかった。彼が与える快に夢中になっていた。自分より大きな手は夜久の性器をいとも容易く高ぶりに連れて行く。もっと、とねだる間もなく甘やかされて、鳴かされてーー。

 そして気が付けば、闇の中で白濁を吐き出していた。



 どうやら自分は意識を飛ばしてしまったらしい。身体を拭う濡れタオルのような感触に、夜久はようやく意識を取り戻した。
「お、起きたか。良かった」
 黒尾が心底安心したような表情を見せる。
「いや、俺もごめん。まさか意識飛ぶとは思わなかった」
 黒尾はハーフパンツを身につけていて、上半身は裸のままだ。対する自分はTシャツだけを着せられている。穿いていたジャージを探していると、黒尾がそれに気付いたように頭をかいた。
「ジャージ汚れてたから洗濯機に入れた」
「あ、そっか」
 なら仕方ないか、と黒尾をチラリと見てみる。なんだかいつもの彼であるはずなのに、ああいうことをしたあとなので、少し気恥ずかしい。
「つか悪ぃ。初めてなのにやりすぎたよな……。身体大丈夫か?」
 珍しく黒尾がしょぼくれてる。ぺたんと下を向いた耳が見えるようだ。
「ううん、大丈夫。緊張しすぎたからだって」
 そう言って笑えば、黒尾もつられたように笑ってくれて安心した。
「……それにその、すげぇ気持ち良かったし」
 夜久は彼に聞こえないくらいの声で小さく言った。けれども、その言葉をはっきりと聞き取ったらしい黒尾は、濡れタオルを放り出して夜久をきつく抱き締めてくる。苦しい! と文句を言ってもその力が緩められる気配はなかったから、それが夜久の照れ隠しだってことはバレているようだ。だから夜久も諦めてその胸元に頬を擦り寄せた。
「あっ、!」
 背中に手を回し、その肌から漂う彼の香りを満喫していると、夜久は当つに大切なことを思い出した。
 自分は達したけれど、彼はそうではない!
「黒尾、イった?」
「はぁ!?」
 どストレートな言葉を浴びせかければ、黒尾が度肝を抜かれたような顔をする。
「俺、気絶した!」
「……いいんだ今日は」
 そして長い沈黙のあと、黒尾はパッと目を逸らした。なんでこういうときだけ彼は優しいのだ、と思わず舌打ちしそうになった。夜久が恐る恐るジャージのうえからそこへ手を伸ばすと、萎えていたそこも自分が触れれば、すぐに硬い感触を取り戻したのがわかった。
「……嘘つき」
 白い目を向けると、「お前に触られたらそうなんのだって当たり前だろ」と何故か逆ギレされた。でも、きっとそれは照れ隠しだろう。
 だって、ニンマリと口端を上げてキスを仕掛ければ、彼は観念したようにキスを返してきたのだから。それが激しくなるのにもう時間はかからなかった。

 ふと窓から外を見れば、真っ赤な夕日は既に沈んでいて、空には漆黒の闇が広がっていた。まだ身体を繋ぐ覚悟はできていない。けれども、身体を繋がなくても、気持ちを伝える方法はたくさんあるんだと知った。
 愛しい黒猫の優しさを知った夜だった。

【end】

- ナノ -