#3 解き放たれた気持ち


 五限の授業が終わって、いつものように後ろをくるりと振り返ると、そこには爆睡している黒尾の姿があった。寝顔を見たことはあったけれど、こうしてまじまじと見ると本当に綺麗な顔をしているなと思った。それにドキドキしてしまったのがなんだか悔しくて、このまま終礼まで起こしてやらないと理不尽なことを考えた。そんなことを考えていた次の瞬間、黒尾の唇が微かに動いて曖昧な寝言を紡いだ。その声はあまりに小さくて夜久にしか聞こえていなかったはずだ。
 夜久はその言葉を聞いた途端、身体中の血液が顔に集まったような気がした。
 彼は確かに寝言で「もりすけ」と自分の名前を呼んだのだ。一度も呼ばれたことなんてないのに。
 そのあと、カッと熱くなった頬を誤魔化すように黒尾の名前をきつい口調で呼んだ。黒尾に寝言を言っていたか? と尋ねられたときは一瞬頭が真っ白になって、つい言葉に詰まってしまった。黒尾もおかしいと思ったのだろう。何か言おうと口を開きかけた気配がした。けれども、夜久はその言葉を聞く前にその場から逃げ出した。
 誰もいない放課後の屋上へ出て、まだひんやりとしている夕暮れの風に当たると、火照った頬もいくらかは冷えてきたように思われた。頭の芯のほうは相変わらず茹っているけれど、身体の表面は次第にいつもの冷静さを取り戻してくれたらしい。とりあえず黒尾に謝ろうと思って携帯を取り出すと、そこには新着メール一件の文字があった。
 差出人は黒尾。少し用事ができたから終わり次第靴箱へ向かう、とあった。それに待ってる、と簡潔な返事をして、夜久は約束の靴箱へ向かうために立ち上がった。
 黒尾はいつだって周りの人間に甘い。主将という立場、またきつい口調や見た目、そして挑発上手な姿などから誤解されがちではあるが、黒尾は本来他人――特に気を許した相手――をひどく甘やかしたがるのだ。研磨がその良い例だ。その気を許した相手の一人に自分が入っているらしいことがたまらなく嬉しくて、たまらなく苦しかった。
 そのとき、足音がして数人が屋上にやってきた。まだ夜久の存在には気付いていないようだ。次いで、聞き覚えのある声が耳に入った。声を聞いただけではわからなかったが、その横顔を見てようやくわかった。昨日、夜久に黒尾のことを聞いてきたあのクラスメイトだ。まさか! と思いその後ろからついてきた大きな影を見る。それは黒尾だった。
 夜久は咄嗟に給水タンクの陰に身を潜める。生まれて初めて、自分の身体が大きくないことに感謝した。
「あのね。私、黒尾くんのことが好きなの」
 ――良かったら付き合ってください。
 可愛らしい声で、少し頬を染めた彼女が言う。ここからだと彼女の横顔がわずかに見えるだけで、黒尾の表情はちょうど太陽の影になっていて見えない。彼女は夜久の目から見ても可愛かった。懸命に恋をしている姿が羨ましかった。
 黒尾は身動き一つしない。すると、今まで太陽を隠していた雲が風に流されて、きらりと顔を出した。
「あ、」
 黒尾はすごく優しい顔をしていた。
「ありがとう。気持ちは嬉しい。でも」
 ――ごめんな、好きなやついるんだ。
 彼女と黒尾の間を初夏の爽やかな風が通り抜けた。近くの木々がカサカサと音を立てるのが、その場に不似合いだった。
「……お前の好きなやつは誰なんだよ」
 夜久のつぶやきは誰の耳にも入らなかった。
 その間にも、黒尾たちの会話は続いていた。
「……黒尾くんに想われてるなんて羨ましいな。素敵な人なんだね」
「あぁ。周りのことをすごく見てて怒るとちょっと怖ぇけどそれ以上にとっても可愛くて頼りがいがあるやつ、かな」
 そう言って遠くを見つめる黒尾は、あの優しい微笑みを浮かべていた。彼もまた恋をする男の顔をしていた。
「そっか、じゃあ私の入る隙なんてないなぁ」
 そう少し眉を下げてつぶやいた彼女に向かって、肯定もせず否定もしない。けれども何も言わないということが肯定を意味することは明らかだった。彼女に入る隙がないのならば、同性である自分は言わずもがなだ。


「はぁはぁはぁ」
 あのまま逃げるようにして屋上をあとにした。ずっと目をそらし続けていた現実を目の当たりにした気分だった。あんなに優しい目で語られる相手は誰だ。きっと可愛い女の子なのだろう。そう、自分のような男ではなく、だ!
 夕陽が辺りを照らし、長い影が足元から伸びる。そこにいるのは紛れもなく男だった。バレー選手の割に小柄とはいえ、腕だってそれなりに筋ばっているし、脚にだって筋肉がついている。女の子のように柔らかな身体は、ない。
 正門を出てしまえば、もう黒尾に見つかることはないだろう。しばらくしたら、用事ができたから先に帰るとメールで伝えれば良い。そう思っていた。
 それなのに彼はいつだって夜久の心をかき混ぜるのだ。
「おい!」
 黒尾の声が後ろのほうから聞こえた。あぁ、自分はついに幻聴まで聞こえるようになったのか。
「おい、夜久!」
 今度は肩に手を置かれる感触まであった。走ってきたらしい荒い息遣いがすぐ後ろで聞こえた。
「え?」
 夜久が振り向くと、そこには黒尾の姿があった。ついさっきまで屋上の陰から見ていたまさにその人だ。
「なんで置いて行くんだよ!」
 待ってるって言ったくせに、と黒尾は苦渋の表情を浮かべている。なんでお前ばっかり不機嫌な顔をするんだ、と自分のことを棚に上げて唇を噛んだ。
「告白されてたから邪魔しちゃ悪いと思って」
 夜久が不機嫌な表情を隠さずそう言うと、黒尾は驚いたように目をぱちくりさせた。今の自分はすごく性格の悪いやつだ。軽蔑されても何も不思議はなかった。
「ちゃんと断ったし」
 それなのに黒尾から返ってきた言葉は夜久を非難するものでも軽蔑するものでもなかった。何故自分に言い訳をしようとするのか。自分に好意はないくせにずるい。ずるいよ、黒尾。これではまるで黒尾が夜久のことを好きみたいだ。
「ベタ惚れなんだね、その子に」
 冷たい口調になる原因は、明らかに八つ当たりと嫉妬だ。言いたくもない台詞が次から次へと口から飛び出した。
 黒尾は驚いたように再び目を瞬く。細い目がまんまるに開かれているさまはなんとも珍しい。こんなに動揺している彼の姿は初めて見た。こういう状況じゃなかったら喜んで彼をからかっていただろう。返事をしない黒尾に、夜久はなおも畳み掛けた。
「可愛くてしっかり者だっけ? その子」
 先ほど黒尾が語っていた台詞を繰り返す。
「お前、そこまで聞いて……!?」
 黒尾が声色にまで動揺を滲ませ、視線を彷徨わせる。
「うん、聞いてた」
 夜久が出した声は氷のように冷たかった。そうでもしないとうっかり気持ちを打ち明けてしまいそうで、彼に好意を寄せられている名前も知らない彼女がひたすらに羨ましかった。
「黒尾が可愛いって言うんだから、その女の子ほんとに可愛いんだろうね」
 黙れ、と自分に言い聞かせるが、もう止まらなかった。臆病な自分は己を守ることに必死だった。
 すると、ここに来て黒尾の表情が一変した。
「は?」
「なに?」
 ぽかんと口を開けて間抜けな顔を見せる黒尾に、夜久も同じような表情で返す。
「お前もしかして全く気が付いてねぇの?」
「だから何が?」
 もう一度同じような言葉を返せば、黒尾はその場にずるずるとしゃがみこんだ。
「え、大丈夫?」
 もしかして体調が悪いのかと、その顔を覗き込もうとする。さっきまで散々冷たい態度を貫いていたのに、少しでもバランスが崩れればもうこの状態だ。自分はつくづく彼に惚れこんでしまっているらしい。悲しいことに。
 けれども彼の顔を覗くことは叶わなかった。いきなり立ち上がった黒尾にふわりと抱き締められたのだ。遠慮がちに背中に手が回される。夜久が抵抗しないことがわかると、黒尾は隙間がないくらいぎゅっと強く抱き締めた。夜久はすっぽりと黒尾の胸元に収まっていて、そこから彼の顔は見えなかった。
「お前のことだよ、鈍感野郎」
 黒尾が自分のことを好きだ、と確かにそう言った。それが信じられなかった。これは夢かもしれない、とこっそり太ももをつねった。遠慮なくつねったそこは当たり前だけれどすごく痛かった。
「もうそろそろ、俺たち素直になってもいいだろ?」
 苦しいほどに抱き締められていた身体を離されて、そっと視線が絡まる。
「え……」
 夕陽が沈みはじめ、刻一刻と黒が迫る。黒猫がしなやかに闇へ飛び込んだ。
「夜久の気持ち、聞かせてほしい」
「俺も……黒尾のことが」
 言葉の続きは熱に奪われた。夕陽が完全に沈み、口づけを交わす二人の姿を見るものは誰ひとりいなかった。
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