#1.5 伝わらない想い


 黒尾が夜久に初めて出会ったのは、音駒高校の見学会だった。
 「ネコ」と称されるこの高校は、かつてバレーの強豪校だった。特に東北にある烏野高校とのごみすて場の決戦は、バレー好きの両親からよく聞かされていたし、練習試合のいくつかは実際に見たこともあった。昔から音駒高校で試合があるたびに、近所の人は仕事を臨時休業させて店を閉め、その決戦を見るために高校まで走ったらしい。この辺りは商店街が多く、個人の店を持つ人間もたくさんいたから、そういう人たちはある程度仕事の調整をすることが可能だったのだろう。
 「ネコ」はいつしか黒尾の中で憧れとなっていた。小学生高学年のころから地域のバレークラブに所属し、中学でも勿論バレー部を選んだ。
 そして中三の夏。黒尾は念願の音駒高校の見学会にやってきた。
 中学の教師も黒尾の成績ならまず問題はないだろう、と背中を押してくれた。
 全体説明会はむわりと熱の籠った体育館で行われた。一応、各所に巨大扇風機が置かれていたのだが、真夏の体育館はお世辞にも過ごしやすいものではなかった。教頭先生の眠たくなりそうな説明を母親とともに聞き、汗ばむ身体を入り口でもらったうちわで煽いだ。
 その後、各部活を見学して良いということだったので、黒尾は迷わずバレー部の見学へ行った。

 バレー部は、説明を受けていた体育館と隣接する第二体育館で練習していた。キュッキュとシューズが床と擦れる音、そして威勢の良い掛け声が広い体育館の中で反響していた。どうやら手前のコートでは自主練習をしているようだった。勢いよくジャンプサーブが打たれる音と、それをレシーブする流れるような動作。もう一つ隣のコートでは、試合練習をしているらしく、スパイクが決まるたびに見学者からは尊敬とも取れるどよめきが起こり、またその強烈なスパイクがブロックに止められると、コート外からは自然とため息が漏れた。もはやそれらは美しいとすら思った。
 あのスパイクを止めてみたい。このチームで試合をしたい。十代の黒尾の心を奪い去るには十分だった。
 そのとき。ブロックで弾かれたボールが凄い勢いで、体育館の入り口のほうへ飛んでいった。しかもそこには一人の少年が立っていた。別のことに気を取られているのか、ボールがそちらに向かっていることには気が付いていないようだ。
「危ない……!」
 何人かが叫んだ。勿論、黒尾も叫んだ。
 その瞬間だった。不意に少年がこちらを向いた。そしてボールに気が付いたようだった。黒尾が『ようだった』と表現したのも、彼がこちらを向いたその瞬間には、すでにそのボールはレシーブされていたからだ。
「え……」
 あまりに一瞬のことすぎて、皆が静まりかえった。その静かになった中央をふわりと打ち上げられたボールが返される。それはセッターの頭上へ綺麗に返球された。
 そのときの見学者のほとんどがその少年を小さな高校生だと思ったはずだ。黒尾もそう思った。けれども、それはさらなるどよめきによって、間違いであることが証明された。
「おおおお!」
 試合中だったメンバーがどよめきたつ。拍手を送る者までいた。
「え、この高校の人じゃないの?」
 見学者の誰かが、その場にいた全員が思っていたであろうことをつぶやく。
 当の本人は真っ青になって、すみません! と頭を下げているが、その小さな身体はあっという間に大きな選手たちに囲まれて見えなくなってしまった。しんとなった体育館では、その会話もよく聞こえた。
「お前、名前は?」
「や、夜久衛輔です!」

 ――ヤクモリスケ。

「ちっちゃいなぁ。中学生?」
「ちっちゃ!? あっそうです。すみません、つい!」
 輪の切れ目からちょうど彼の姿が垣間見えた。ミルクティーのような変わった色をした短髪、特徴的な眉と大きな瞳が彼の印象を幼く感じさせる。大きな選手たちに囲まれて、困ったように大きな目をキョロキョロとさせている姿はまるでハムスターのようだった。
 すると、ふと彼と目が合った。黒尾が反射的に笑いかけると(外面が良すぎるとこういうときに失敗することもあるのだ)、彼も一瞬驚いたようだったが、すぐにニカッと笑みを返してきた。
「おい、あいつ中学生だってよ」
「ひぇ、まじか」
 隣でひそひそと話す言葉が聞こえたが、その内容は全く黒尾の耳に入っていなかった。
 再び彼の姿が人の壁の奥に消えていく。
「すげぇ……」
黒尾は小さくつぶやいてこぶしを握った。彼と同じチームで戦いたい。ただそう思った。
 彼らはその後音駒高校で再会を果たすことになるのだが、まさか自分がその相手に特別な想いを抱くことになろうとは、十四歳の黒尾は微塵も考えていなかった。


 それから半年後。大きめに買った制服に身を包み、新調した鞄を肩にかける。中学のころから、周りよりも頭ひとつ抜きんでて大きかった黒尾であったが、高校に入ってもそれは変わらなかった。入学式が終わり、新一年生が一斉に自分の教室へ雪崩れ込む。その波に巻き込まれながらさりげなく辺りを見回しても、黒尾の身長に届くような一年生はいなかった。その中で黒尾が探し求めているのはただ一人だ。黒尾はきょろきょろと周りを見回して彼の姿を探すが、何せ人数が多いのでなかなか見当たらない。ひとまず彼を探すことは諦めて、黒尾は配られたクラス名簿に目を通した。
 そうすると、探し人はすぐにみつかったのだ。探し物は探すことをやめた途端、見つかったりするものだ。

 ――夜久衛輔。

 あの日からいつも頭の片隅にあった彼の名前。クラス名簿を見て、その名前を見つけたときは夢かと思った。この高校を選んだのはバレーをするためだ。けれども、心のどこかで小さな彼に再会できることを期待していた。彼にまた会えるんだ、と大きな喜びが身体中を駆け巡ったことを今でも記憶している。

 初めて声を掛けてきたのはあちらだった。放課後バレー部の見学へ行くと彼がそこにいたのだ。
「あれ? 君、同じクラスだよな……?」
 どうしても名前が思い出せないのか、うーんと唸っている姿に思わず笑いが漏れた。
「俺、黒尾。黒尾鉄朗だ」
「俺は夜久衛輔。実は君のこと背高いなぁって見てたんだ。なぁ、ポジションどこ?」
 そんな一言に喜んでいる自分がいて少しばかり動揺した。それを億尾にも出さず、黒尾はもはや癖になっていると言っても過言ではない人の良い微笑みを、隣で三角座りをしている彼に向けた。
「黒尾でいいよ。ミドルブロッカー。夜久は?」
「俺はリベロ。これからよろしくな、黒尾」
 それに対して、屈託なくニッと笑った彼が記憶の中の姿と重なって、この人って本当に実在したんだな、なんて変なことを考えた。その笑顔を見ると胸が苦しくなって、こんなことは十五年の人生で初めてのことだった。これが恋だと知ったのはそれから間もなくした日のことだった。


「ク……くろ、……お、くろ」
 目の前にいるのは、今よりも少し幼い夜久の姿。次第にそれは靄がかかり、そして今の姿になった。
 彼は出会った頃と変わらない声で自分を呼んでいた。黒尾はその愛しい声につられるように微笑みを浮かべて彼の名前を呼んだ。


 ◇◇◇


「おい、黒尾!!」
「うわっ」
 とびきり大きな声が耳に入って、黒尾は文字通り飛び上がった。
「授業終わった」
「あぁ、夜久か」
 そこに立っていたのは、まさに先ほどまで夢に見ていた彼だった。
「あぁ、じゃないよ。何度呼んだと思って!」
 腰に手を当てて怒っている彼を曖昧に誤魔化して、黒尾は窓の外を見る。
 色々自分は限界を迎えているのかもしれない。こんな風に想い人を夢に見て、名前を呼んでしまうなんて。
「あ、」
「なに」
 じろりとこちらを見下ろす夜久に可愛いと言いかけて、その言葉を口にする寸前で危なかったと激しく頭を振った。
「俺さ、寝言とか言ってなかった?」
「…………言ってない」
 んだよ今の沈黙は! そう言おうとしたけれど、瞬きをする間もなく逃げられたせいで、その背中をジトリと睨むことしかできなかった。あいつは猫だ。すばしっこくて、賢くて、誰にでも擦り寄る。それなのになかなか人になつかない猫だ。
 黒尾鉄朗は高校三年になった今も夜久衛輔に恋をしていた。
 レシーブを打つ綺麗なフォーム。どんなに難しいボールも諦めない強靭な精神。そして何よりもその人柄に惹かれた。人が良くて、世話好き。誰よりも人情深い。それなのに、肝心なところではするりと自分の腕の中から逃げてしまう。気まぐれで魅力的な白猫だ。
 一年のころからまっすぐに彼だけを見てきた。だから黒尾にはわかる。夜久はきっと黒尾に好意を抱いている。けれども、彼はいつもあと一歩のところで自分から逃げてしまうのだ。
 毎日のように熱の籠った目で見られて、そのキラキラとした笑顔を見せられて、それなのに自分の気持ちは一向に伝わる気配がなくって。黒尾も色々と我慢の限界が来ていた。
 もういっそのこと、この想いを伝えてしまおう。そう何度も思ったこともあった。けれども、いずれも思いとどまった。もしかしたら全てが黒尾の思い違いで、夜久は黒尾に対して特別な気持ちを抱いていないかもしれない。振られるかもしれない。そうなれば必ずチームにも影響が出る。そう思うと、あと一歩を踏み出せないでいた。
 いや、それだけではない。夜久に拒絶されて、今までの関係に戻れなくなることが一番怖かったのだ。
「臆病者だよなぁ」
 嘲笑が漏れる。夢の中では何度も想いを伝えているのに、現実になるとてんで駄目だ。
 そろそろ覚悟決めるか、と黒尾が青空を見つめつつ考えていると、斜め前の席の女子が声を掛けてきた。夜久にしょっちゅうちょっかいをかける要注意人物だ。
「あの、少しだけ時間いいかな?」
 黒尾は何を言われるか、と内心ハラハラしながら彼女のほうを見上げた。


 夜久に靴箱で待っていてくれ、とメールで伝えたその後に、まっすぐ連れてこられた先は校舎の屋上だった。夜久のやつちゃんとメール見たかな? と考えていると、遠慮がちな声がかなり下の方から聞こえた。
「あ、わりぃ」
 彼女を見下ろすと、その子が俯いているせいでつむじしか見えない。夜久とはつむじの向きが反対だ、とか夜久よりもかなり小さいな、なんてことを考えていた黒尾は彼女の声で再び我に返った。
「あのね、」
 一生懸命な姿に夜久を重ね、これが彼だったら良いのにと思った。
「私、黒尾くんのことが好きなの。よかったら付き合ってください」
 あぁ、今彼女と付き合えば、夜久のことを諦められるかもしれない、とほんの少しだけ思った。

 けれども身体は正直で、気が付けば、ごめん、と答えていた。

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