#1 秘すべき恋


 夜久衛輔には想いを寄せる相手がいた。けれども、それは彼にとって唯一にして最大の秘密であった。青春まっただなかの男子高校生である彼が、淡い恋心の一つや二つを抱いていたとしても、それはなんら不思議ではない。
 では何がそんなに問題なのか。それは相手が良くなかった。片想いの相手は、自分よりも二十センチ以上も大きい男。
 夜久が好意を寄せている相手は、同じクラスで同じバレー部に所属する「黒尾鉄朗」だった。

 一年生のときから変わらず胸の奥に存在するこの気持ち。今まで好きになった子はみんな女の子だった。それなのに高校に入って一番初めに恋をした相手は彼だった。一年のときからずっと同じクラスで部活動もいっしょならば、必然的にともに過ごす時間は多かった。休み時間も放課後もずっといっしょにいた。当時から今に至るまで、同学年で黒尾と一番仲が良いのは自分だと思う。一番そばにいて、一番遠い相手。それが彼と自分の関係だった。
 今となっては、恋心に気付いたきっかけなんてもう忘れてしまった。でもそれはきっとほんの些細なことだったはずだ。目には見えない何かに導かれるようにして、夜久はその未知なる恋へと落ちていった。
 この想いはきっと気のせいだ。最初のころは自分にそう言い聞かせようとした。今までこんなに四六時中一緒にいるような友人がいなかったから、きっとその濃密な友情を胸を焦げ付かせるような恋慕と勘違いしてしまったのだ、と。
 彼の何気ない仕草や人をからかうような笑みが夜久の心をくすぐる。淡く頬を色づかせるような甘い感情は、今まで感じたことのないものだった。どうしてもこの気持ちを抑えることができなかった。それどころか、気持ちは日に日に大きくなっていって、出会って初めて訪れた夏が終わるころには、すでに夜久の手に余るようになっていたくらいだ。
 大きくなった恋心は、ふとした瞬間にも夜久の心を乱した。
 そして、大きくなる恋心が胸を弾ませるたびに、夜久は自分に言い聞かせた。

 ――俺たちは友達だ、と。

 この気持ちがバレなければ、ずっとそばにいられるのだから、これくらいどうってことない。苦しくなんて、ない。


 ◇◇◇


 定期考査前の図書室は自習する学生でいっぱいになるのか、と言えば、案外そうでもない。現に今だって、図書室内に置かれたいくつかのテーブルはほとんど空席だし、そこで自習をしているのも夜久と黒尾くらいだ。高校の図書室なんてどこも大体こんなものだ。
 定期考査一週間前を切って、全ての部活動も休止となっているので、いつもは聞こえる運動部の掛け声や吹奏楽部が合奏をする音色も一切聞こえてはこない。夜久の耳に届くのは、黒尾がひたすらシャーペンを動かす音と参考書をめくるわずかな紙ずれの音だけだった。けれども夜久はこの静けさが好きだった。時折ちらりと横目に見る、親友の真剣な顔も大好きだった。
 いつもならこの環境は勉強するのに最適な環境だった。家で勉強するときでも、目の前に黒尾の気配がないと違和感を覚えるくらいなのだから。けれども今日は全くと言っていいほど集中できない。
 理由はわかっていた。つい先ほどのある会話が原因だ。



 終礼後、夜久が勉強するために図書室へ向かおうと席を立ったとき、右隣のクラスメイトが慌てたように夜久を呼び止めた。
「ねぇ、ちょっとだけいいかな」
 特別仲が良いわけではない。大体、夜久は自分のひとつ後ろの席にいる黒尾と話をしているし、たまに休み時間等に話すこともあるが、そういうときは黒尾がふらっと会話に入ってきて、結局夜久と黒尾だけが話し続けるというのがいつものパターンだ。そんな風にして、さりげなくその子との会話を流すような感じで新たな話題を進めてしまうので、彼女と夜久の実際の会話時間はごくごく短いものだ。黒尾はその社交的な性格とは裏腹に女子と頻繁に絡むことをあまり好まない。
 人一倍、周りとの調和を重視する彼らしくない行為だ、とは思う。けれども、その話題の振り方がごく自然なので、相手の女の子も悪い気がしていないらしいことだけが幸いだった。そうでなければ、夜久はとうの昔に彼の言動をたしなめていただろう。
 夜久は教室の窓際の席、後ろから二番め。黒尾はその真後ろだ。彼女に話しかけられた瞬間、夜久は反射的にその方向を見た。何せこれからこの彼と図書室へ向かうところだったのだから。
「じゃ俺、先行っとくわ」
「あ、うん。あとでな」
 あっさりそう言った黒尾は、ひらひらと手を振って先に教室を出ていった。
「で、なにかな?」
 夜久が女の子に尋ねると、女の子は気まずそうに視線を床に向けた。
 早くしてほしいなぁ。黒尾と過ごす時間が減ってしまう。とそんな失礼なことを考えつつ、それを顔に出さないように微笑んでいると、女の子のこぶしがぐっと握られたのがわかった。
「あのね、黒尾くんって好きな子とか彼女とかいるのかな?」
「は?」
 つい、周りに聞こえていないか危惧して、辺りを見回したけれど、他のクラスメイトは気にする様子なく、いつものように荷物を鞄にしまい、そしてぞろぞろと連れだって帰宅しようとしている。
「あ、ごめんね。えーと、黒尾くんと仲が良い夜久くんなら知ってるかなって」
 思わず眉間を寄せてしまっていたらしく、クラスメイトがビクリと肩を跳ねさせた。
「あ、俺もごめん。突然だったからびっくりしちゃって」
 怯える相手にというよりは、動揺した自分にそう言い訳をした。
「彼女はいないんじゃないかな。好きな人の話はしたことないからわかんないや」
 人の良さそうな笑みで、ドロドロの本心を隠した。
「そっか。彼女いないんだ。よかった」
 あぁ、この子は黒尾が好きなんだ。でもここで黒尾が好きなの? とは聞かない。これは夜久の意地であり、予防線でもあった。もしも協力してくれ、なんて頼まれたら、自分は冷静ではいられなくなってしまう。
「うん。じゃあ黒尾待たせてるからごめん」
「あ、こちらこそありがとう」
 真っ黒な髪をゆるく巻いた彼女が羨ましくて仕方なかった。ふわふわした彼女には、小首を傾げてふんわりと微笑む仕草がよく似合う。少し頬を染める様子は、明らかに恋をする女の子の姿だった。
 自分が彼女みたいな女の子だったらこんな風にまっすぐな恋をできたのかな? とそんな馬鹿げたことを考えて、夜久はすぐに思い直した。自分は友人としての黒尾を知ったから好きになったのだ。同じバレー部だったから恋に落ちたのだ。それに自分が女子だったら、彼のボールをつなぐことはできない。部活中、くだらないことで笑い合うことはできない。明らかにただのクラスメイトよりは親密な関係だ。
 ただ彼女らと違ってその恋心を隠さないといけないだけだ。ただそれだけなのだから、何も辛くはないはず。そう自分に言い聞かせた。



 そんなことがあったせいで、夜久の心は乱れに乱れていた。
 単語帳に目をすべらせているふりをして、そっと目の前の彼を見る。グレーのVネックセーターを着て、その下のカッターシャツは無造作に捲りあげられていた。そこから見える腕は部活中に見るものとなんら変わりはないけれども、そのたくましさについ視線を奪われてしまった。シャーペンを握るその指は、自分のものよりも太く、長い。それなのにどこかしなやかさを感じさせるのは、きっと日頃の練習の成果だ。夜久の贔屓目ではないと思う。
 二人とも一年のころから大学への進学を希望していたため、定期考査前はよくこうして図書館に勉強をしに来ていた。ただ勉強をするとは言っても、和気藹々な雰囲気の中で教え合うというよりは、むしろ同じ空間を共有しているだけ、というほうが正しいかもしれない。二人で教室を出て、まっすぐに図書室へ赴いて、二、三ほど言葉を交わす。そこからは各自参考書と向かい合って、ある程度の時間になればどちらからともなく、そろそろ帰ろうか? と声を掛ける。実に気楽な勉強会だった。
 こんな少々奇妙な二人きりの勉強会が始まったきっかけは、何気ない黒尾の言葉からだった。
 ある日、夜久の定期試験の結果を覗き見した黒尾が、「どんな勉強をしたらそんな点が取れるんだ?」と素朴な疑問を投げかけてきたことがあった。自慢ではないが、夜久は決して勉強が苦手ではない。割と得意なほうだとも思う。ただそれは黒尾も同じで、何がそのときの彼の興味を惹いたのか、今となっては不思議なことである。尋ねる機会がなかったので、今日までその疑問は解決されていない。
 その後、図書館で勉強をしていることを教えると、「いっしょにいいか?」と聞いてきた。そのときにはまだ彼に恋をしていたわけではなくて、ただ仲の良い友人に接するような軽い気持ちで彼の申し出を了承した。それが一年の期末テストの直後か何かだったから、かれこれ二年はその習慣が続いていることになる。二人の仲(勿論、友人という意味で)が急速に接近したのお、この頃からかもしれない。
「なぁ」
 ふと思いついて、夜久は黒尾に話しかける。
 黒尾は数Uのテキストに目を落としたまま、ん、と生返事をする。計算式を解いているのか、そのシャーペンはさらさら動き続けている。
「黒尾って好きなやついるの?」
 今日、クラスの女子に聞かれた、とは言わない。
「……は?」
 たっぷりと間を開けて返事がくる。今度は動き続けていた彼の手が止まった。シャーペンを置いた音がして、黒尾がこっちをじっと見ているのがわかった。
「お前、あんまこんな話しないからさ。ちょっと気になっただけ」
 わざと古文の単語帳を開きながらそんなことを言ったけれど、内心は心臓がはちきれそうなほど緊張していた。動揺に感づかれていないことだけをひたすらに祈った。
 でも黒尾のことだ。そんなのいねぇよ、とか言ってはぐらかすんだろう。最初から聞けるなんて期待してなかったし、もしも好きな子がいるなんて言われたら自分はきっといつも通りではいられなくなる。
 左手で単語帳を持って、右手で赤シートを持って、いかにも勉強してますっていう姿勢を保っているけど、実際はひとつも単語は頭に入ってきていなかった。黙々とページだけがめくられて、読んだ記憶のない例文たちが次々に過ぎ去っていった。
「ふーん。……まぁ、いるけど」
 黒尾は不審そうに眉をしかめたが、すぐにいつもの食えない笑みを浮かべたらしいことが声の雰囲気だけでわかった。
 その返事に驚いたのは、紛れもなく夜久本人だ。
「そう言うと思った。って、え!? 嘘!」
「んだよ、俺に好きなやつがいたら悪いかよ」
「いや、意外っていうかなんというか」
 夜久は不意にさっきのクラスメイトの表情を思い出して、黒い嫉妬がじわじわと心を蝕む。黒尾の想い人が彼女だったらどうしよう。手をつないで仲良さそうに歩く二人の後ろ姿を想像して、目の奥がきゅっと痛んだ。
「それは心外だなぁ」
 くるくると器用にシャーペンを回す気配がした。この仕草は、黒尾が動揺しているときの癖だ。誰が彼をそんなに落ち着かなくさせるのだろう。考えても仕方ないことをつい考えてしまう。
 心の中を渦巻くのは、羨望・嫉妬・悲しみだ。けれども、それらのどの感情も夜久は表面に出さなかった。
「ごめんって」
 そう言いながら夜久がようやく顔を上げると、黒尾はすっかりテキストから目を離し、腕組みをしてこちらをにやにやと見ていた。それなのに何故か目が合った瞬間、すっと真剣な表情を見せる。
「すっげぇ好きなやつ、いるよ」
 そして柔らかく微笑んだ。夜久が見たこともない表情だった。鋭い瞳をわずかに細め、口元もゆるやかな孤を描いている。
 あぁ、こいつは本気の恋をしてるんだって直感的に思った。そんなに思われている相手が羨ましかった。
「あ……」
 夜久が何も言えずにいたら、その表情は現れたときと同じくらいあっという間にいつもの表情の中へ隠されてしまう。
「ところでそういうお前はどうなんだよ? まさか聞くだけ、なんてことはねぇだろうが」
 しまった、と思うが、時すでに遅しとはこのことである。まぁ、好きな人がいるかいないかくらいなら言っても大丈夫だろう、と夜久は判断して、心の中で人知れず腹を括った。
「俺もいるよ。大好きで大好きで仕方ないひと」
 少し曖昧に笑って目の前の想い人を見つめた。そっか、と黒尾がなぜか視線をそらす。
「でもさ、失恋決定なんだよねぇ」
 その横顔から視線をはがして、薄汚れた床に並ぶ自分の爪先を見つめる。
 黒尾は黙ってしまったまま、何も言わない。夜久はいたたまれなくなって、「そろそろ帰ろう」と切り出した。そして、てきぱきと机の上に広がったテキストや筆記用具を鞄につめていく。
「じゃあさ」
 黒尾が小さくつぶやく。
 何? という意味を込めて首を傾げると、黒尾がずっと俯いていた視線を引き上げた。
「俺が失恋の傷、癒してやろうか」
 その表情があまりに真剣で、あまりに痛々しくて。夜久は何も言えずに視線を彷徨わせることしかできない。頬の体温が急激に上がって、何も考えられなくなった。
「へ、クロ?」
 咄嗟にある後輩が黒尾を呼ぶその名を口にする。ただそれを自分が口にしていることにすら気が付いていない。きっと潜在的に彼の幼馴染である研磨を羨ましく思っていた部分もあるのだろう。
 上手い切り返しが思いつかなくて、夜久はどうしようかと真っ白になりつつある頭で考えた。けれども無理だった。夜久の思考回路がパンク直前まで追い詰められたころ、真剣な顔をしていた黒尾がいつもの表情に戻った。
「なんてな、嘘だよ」
 そんな声とともに、ぺちっという鈍い衝撃が額を襲う。
「いたっ。ちょっと何すんのさ!」
 夜久はデコピンで痛む額を両手で押さえ、目の前の犯人を睨み付ける。
「ボケッとしてるほうが悪い! ほら、帰るんだろ」
 いつの間に片づけをしたのか、全ての荷物をきちんと鞄にしまい終えた黒尾が席を立つ。
 それを追うようにして夜久も急いで立ち上がった。
「待てよ、コラ!」
 憎まれ口をたたいて、わざとらしく彼の背中にパンチをお見舞いするが、軽く避けられてしまったのが悔しい。そればかりか、しまい忘れた古文の単語帳をひらりと持ち上げられて、取ってみろと言わんばかりに目の前で振られる。思わずキッとなって飛び上がってそれを奪おうとしたが、身長差に阻まれて上手くいかなかった。
「くそ〜〜〜! 覚えてろよ!」
 今に見てろ、と地団太を踏む夜久を見て、黒尾が腹を抱えて笑い出す。
「それ悪者の捨て台詞っぽい」
 今だ爆笑している黒尾に肘鉄をくらわせて、先に進む。そんな夜久の後ろ姿を追いかけ、「はい、忘れ物」と言って、ポンとそれを手渡す黒尾。しかも口元に微笑みすら浮かべてそれを成し得てしまうのだから、本当にこの男はずるいと思う。
 小さな声でありがとう、と言うと、笑い交じりにどういたしまして、と返ってきた。
 また一つ好きが増えてしまった。そしてそれは誰にも言えない秘密が増えたことも意味していた。

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