溺愛Darling!


#0
 やっとの思いで掴んだこの関係。恋人に対する不満はない。むしろ甘やかされていると言っても過言ではないほどに溺愛されている自覚はある。けれども、ふと感じてしまったその違和感は日に日に大きくなっていくものだ。そう。小さな歯車のずれが、のちに大きなずれになるように。
 告白だって自分から。キスをするときも、それ以上のことをするときも、きっかけはいつも自分だ。恋人らしい甘ったるい雰囲気になったとき、先に甘え出すのもいつも自分だ。そう、全部、全部自分ばかり。

 ――なぁ、旭さんはそれでいいんですか?


#1
 昼休みが始まってすぐ、三年三組の教室へ足を運んだ西谷であったが、そこに目的の男の姿はなかった。
 だがしかし、三年生の廊下付近を探すこと、およそ三十秒。探し求めていた彼は、すぐに見つかった。彼は大きな背中を少し丸めて、友人らと談笑しながらこちらに向かってくる。
 東峰はまだ西谷の存在には気が付いていない。
 空っぽの教室を見たときからなんとなく予想はしていたが、どうやら三限は移動教室だったらしい。それを裏付けるように、彼らの手には教科書やノートの類があった。
「旭さんっっ!」
 その横顔に向かって、西谷は大きな声で呼び掛けた。どれくらい大きな声だったかと言うと、廊下にいた生徒たちが一斉に西谷のほうへ好機の目を向けるくらい、だ。
 その声はしっかりと東峰にも届いたようで、彼は猫が冷水を浴びせられたように、ビクリと肩が跳ね上げた。そしてゆっくりと正面を向いた。
「にしのや……?」
 心なしか涙目なのは気のせいだろうか。東峰がビクビクとしているのはいつものことなので、西谷は気にも留めず、立ち止まってしまった彼の元へ駆け寄った。
 先に行くぞ、と東峰の友人たちは彼を置いて教室へ向かいはじめる。すれ違いざま、もはや顔見知りとなった彼らに西谷が軽く頭を下げると、それに応えて彼らも、頭を下げたり、右手を挙げたり、それぞれの反応を見せた。
 旭はそんな友人と恋人(但し、友人たちはきっとただの先輩後輩だと思っているはずだ)の姿に慌てふためき、ずんずんと近づいてくる西谷をおろおろと見つめるしかなかった。
「旭さん、何ビクビクしてるんすか! 別に俺、旭さんを取って食おうなんて思っちゃいないですよ!」
「く、くくく食う!?」
 予想以上に大きなリアクションが返ってきて、西谷は思わず笑い声をあげる。その笑い声に旭が情けなく眉を下げるのもいつもの光景だ。
「そういや、なにか用事?」
 ひとしきり笑ったあとで、東峰にそう問われて、西谷はようやく本来の目的を思い出した。西谷が貴重な昼休みを使って、しかも昼食を食べるよりも先に三年生のクラスがあるこの棟にやってきたのも、全てこの目的があってのことだ。
 西谷は東峰をじっと見つめる。その視線を感じて、東峰はソワソワと視線をそらそうとした。
「今日、一緒に帰りましょうね! また迎えに来ますから!」
 逃げられてしまわないように、ぐっと顔を近づけて、西谷はいつものよく通る声で言った。その声は当然、ぱらぱらと教室に戻りつつあった東峰のクラスメートの耳にも届く。
 ある日を境にして、毎日のように東峰を教室まで迎えに来る、金髪メッシュの小さな下級生は、このクラスではちょっとした名物となっていた。勿論、西谷はそのことに気が付いていないが、そのことをよく知っている東峰は気が気でないのだろう。遠くから聞こえる「また東峰の飼い主くん来てるべ」「飼い主っていうか、飼い犬だけどな」「今日もあの二年生君、かわいいね」などと言った言葉の数々に、元々あまり丈夫にできていない彼のガラスのハートは粉々になりかけていた。
「旭さん……、旭さんってば!」
 ぼんやりとしている東峰の前で両手を振って、その名前を呼ぶ。しばらくして気が付いたらしい彼は、どうしたの? とへにゃっと笑った。その気の抜けた表情とは反対に、西谷の肩はぴくっと小さく跳ね上がる。
「別に。つかそんな顔してたら、眉間のしわが取れなくなります、よっ!」
 柔らかな表情を見て、つい照れてしまったのがバレないように、少し素っ気ない口調でそう言った。そして、さっきまできゅっと寄せられていた眉根を、言葉に合わせて勢いよく中指で弾く。
 痛い、と言って恨めしそうな表情を向ける東峰は、西谷の動揺には感づいていないらしかった。
「だーかーら! 先に帰っちゃだめですからね!」
 今日の放課後の部活動は休みだ。きっと放っておいても東峰から一緒に帰ろう、というお誘いは来ないだろう。だからこうして予約をしに来たわけである。メールでも良いじゃないかと言われてしまえばそれまでなのだが、朝練から数時間ものあいだ、顔を合わせることができないでいたのだから、彼とこうして会える理由は一つでも多いほうが良い。
「え? あ、うう」
 そんな西谷に対して、東峰は喉の奥から変な声を出しながら百面相をしていた。
 ーー絶対に待っててくださいよ。
 念のためもう一度そう言って、思い切り彼の背中を叩く。その衝撃でゴホゴホとむせている姿は、排球部のエースと呼ばれる姿にはほど遠くて、西谷は思わず吹き出しそうになった。けれども、ここで笑うのもどうかと思って、なんとかそれを我慢し、西谷はその場を離れた。不自然なほど素早く踵を返したせいか、痛いほどに東峰からの視線を感じる。その背中に感じる視線がやけに恥ずかしくて、さらに歩くスピードは速くなっていった。強くたたきすぎてジンジンと痛む手のひらからは、言いようもないあたたかさが身体中に広がっていた。この理由なんて明白だ。けれども、今これを自覚すれば、自分は恥ずかしくて昼食を食べるどころじゃなくなるだろう。
 手のひらに感じたしっかりとした背中の感触を忘れようと、西谷は懸命に別のことを考えようと試みたが、全て徒労に終わった。結局、火照った頬のまま教室に帰還し、それを同級生にからかわれることになろうとは、今の西谷はまだ微塵も考えていない。


「じゃあ、あとでな!」
 東峰は慌てて、あっという間に遠くなる背中に呼びかけた。くるりと振り返った西谷は、ニッと笑ってから元気よく手を振った。廊下の角を曲がってその姿が見えなくなるまで、東峰は彼をじっと見つめていた。
 その姿が見えなくなってから、東峰はふと首を傾げた。立ち去っていった彼の後ろ姿が、いつもよりも少しだけ早足だった気がしたのだ。
 けれども違和感を感じたのはその一瞬だけで、すぐに去り際の笑顔が脳裏に浮かぶ。ほんの一言会話を交わしただけだったのに、やけに耳が熱くて、心もポカポカとしていた。一緒に帰るの楽しみだなぁ、なんて頬を緩ませながら教室に入って、友人たちに「気持ち悪い」と言われたのはもはや言うまでもない。


#2
「旭さんは何か俺にしてほしいことありますか?」
 その日の帰り道、なんでもない風を装って、西谷は東峰に尋ねた。彼は驚いたように目を開き、考える素振りを見せつつ両腕を組む。
 まだ太陽は出ていて、日没までは時間がありそうだ。普段、この時間は第二体育館で練習をしているので、少し変な気持ちになる。
「そうだなぁ……」
「なんでもいいんですよ」
「うーん、難しい」
 唸っている東峰は、一応真剣に考えてくれているようだ。
「でもさ、急にどうしたの?」
 東峰が尋ねた。
「いつも俺ばっか、そういう意味で甘えさせてもらってるじゃないっすか。旭さんも俺に甘えてくださいよ。一個年上だとか、そんなことは考えずに!」
 えぇ!? と東峰がいよいよ困ったような表情になる。その腕を取り、どんな小さなことでもいいんです! と身体を揺さぶった。
「いつも西谷には甘えさせてもらってるよ?」
 ね? と東峰はいかつい印象とは裏腹に割と黒目がちな瞳を細めて、柔らかく笑った。
 その柔らかい微笑みはバレー部の部員や親しい友人たちに見せているものとよく似ているけれども、二人っきりのときに見せてくれるこの微笑みが皆に見せるそれとは微妙に異なっていることを西谷は経験的に知っていた。一体どこかどう違うのか? と聞かれると難しいところなのだが、絶対に何かが違うのだ。
 あぁ、これが一個上の余裕なのか。西谷はその笑みにつられるように、にぃっと笑い返したあとで、そんなことを思った。


#3
「で、西谷は何も要望を言わない旭のことが不安なんだ?」
「不安つーか、まぁそうなりますね」
 西谷が相談を持ち掛けた相手は、東峰と親しい排球部副主将である菅原だった。
「でもそれは心配なさそうだけどなぁ。旭の言う通り、あいつは西谷にけっこう甘えてると思うべ?」
 人を観察するのが得意な菅原の意見は、やはり重みが違う。けれども。
「二人っきりでちょ〜っと甘い雰囲気になったとき、アクションかけるのはいつも俺なんすよ? 身体に触れるのも、キスするのも、それ以上のことをするときも!!」
「わわわ、わかったから! 声、抑えて!」
 思わず椅子から立ち上がり、熱弁してしまった西谷を諌めるように、菅原がその肩に手を掛ける。
「一応教室だからね、ここ」
 すみませんっ、と気まずくなって座りなおす西谷。
 ここは三年四組の教室だ。西谷は相談を持ち掛けるために、先輩のクラスを訪れていた。そして、菅原の好意に甘え、一緒に昼食を取っているところなのだ。
 西谷の大きな声と突拍子もない発言によって、一瞬、全員の視線が西谷たちに注がれたが、それもすぐにおさまって、いつもの昼休みの風景へと戻っていった。
 そして菅原の隣には勿論、「彼」の姿がある。
「……あんのひげちょこ」
「大地もお願いだから落ち着いて」
 箸を持った手をぎゅっと握り締めながら話を聞いていた大地に、菅原が声を掛ける。
 すまん、と謝った澤村の姿は、なんだか部活のときの力関係と反対であるように思えて、西谷は彼らの距離感を不思議に思った。この二人は、もっといろんな顔を隠している気がする。それは自分たち後輩に見せるものとはまた違うのかもしれない。澤村と菅原、お互いだけしか知らないものがあるのだ。それがこの不思議な空気感の理由だろうか。
 菅原は手に持った二つめのパンを袋から出しながら、何か考えるようにその視線を床に注ぐ。西谷は心に浮かんだ取り留めもない問いにはふたをして、彼の回答を待った。
 菅原が不意に顔を上げる。西谷もその瞳をまっすぐに見た。
「あのさ、西谷はしたいと思ったことは、なんでもすぐに行動に移せるじゃん? でもきっと旭は思うところがあっても、すぐに行動に移せるタイプじゃないと思うんだよね」
「あいつは無駄に考えすぎるきらいがあるからな」
 菅原の言葉に、澤村もうなずく。
「でしょ? だから行動に移す前に、もう少し旭のことを待ってみるってのはどうかな?」
 なるほど、と西谷は目からうろこ状態だ。
「スガさん、大地さんあざっした!!」
「いえいえ、大したことはしてないよ」
 そう言って、菅原が微笑む。
「俺こそなんもしてないぞ。ほら、休み時間終わるぞ。早く食べちまえ」
 澤村の手元にあるお弁当箱はほとんど空だ。西谷はおっす、と景気の良い返事をすると、ほとんど手を付けられていなかったおにぎりを勢いよく口に放り込み、ハムスターのようにもぐもぐと口を動かした。
「あ、でもよく噛みなよ」
 慌てて入った菅原のフォローにも、大きくうなずきを返した。
 その瞳に、先ほどまでの迷いは見当たらなくて、先輩二人がほっと息をついたことに、当の本人は全く気付きもしていなかった。


#4
「でね、龍がそのあと……」
 その日の部活後。いつものようにくだらない話をしながら、ワイワイガヤガヤと通学路を行く。西谷は登校時よりも少しだけ膨らんだスポーツバックを持って、東峰の横、いつもの位置にいた。そんな西谷の話を東峰がうなずきながら楽しそうに聞いているのもいつもと同じだ。一年前から繰り返されている光景。半年ほど前に二人の関係がより濃密になってからも、それは勿論変わらなかった。
 一緒に学校を出たメンバーがひとり、またひとりと抜けていき、気が付けば、西谷と東峰は二人っきりになっていた。
「あっ」
 いつもの曲がり角に来て、どちらともなく離れがたい空気になる。
「じゃあ西谷、また明日」
「はい、また練習で」
 そう言っていつもなら西谷がくるりと背を向け、東峰に大きく手を振りつつ別れるのだが、今日はいつも以上に甘ったるい雰囲気が二人の間に流れた。西谷はこのままどちらかの家に行きたいなぁ、と不意に思った。もっと一緒にいたい。それに明日は土曜日だから、平日よりも朝は遅いはずだ。いつもの西谷ならば、すでにそれを口にしていただろう。けれどもそのとき、昼間の菅原の言葉がふと頭をよぎった。
 −−少しだけ旭を待ってみたらどうかな?
 さりげなく東峰を観察すると、彼は何か言いたそうに口を小さく動かしている。西谷がずっと待っていると、彼が小さな声で何かを言った。
「え?」
 あまりに小さい声は聞き取れなくて、西谷はもう一歩だけ東峰に近づいた。近づかなければわからなかったが、わずかに香る汗のにおいが鼻先に届いて、少しドキリとした。
「あの、その。キス、してもいいですか」
 なぜか敬語で返ってきたその台詞。赤くなったのは東峰だけではなかった。
「は、はい。どうぞ」
 西谷まで背筋を伸ばして返事をすれば、どちらともなくくすぐったい笑いが広がる。
「じゃあお言葉に甘えて」
 上を向いて瞳を閉じた西谷の唇に、そっとキスが降り注いだ。すぐに離れてしまうそれだったけれど、西谷の心はまるで春の陽ざしを浴びたように軽やかだった。明日、先輩たちには何かお菓子を持ってお礼を言いに行こうと思う。
 照れくさそうに頭の後ろをかいている東峰を西谷は見上げた。あたりは薄暗くて見えづらいが、その耳がわずかに赤らんでいるように見えるのはきっと気のせいじゃない。
「うちの親、今日少し遅くなるので、遊びに来ませんか?」
 少し緊張しながら誘うと、東峰は恥ずかしそうに、でも快く承諾してくれた。
「あと……手もつなぎたいです」
 小さく言ったお願いもきちんと拾って、全部叶えてくれるのだから、本当に彼は甘やかし上手だ。その手のひらは少し汗ばんでいて、自分と同じように彼もドキドキしてくれているのかな、なんてことをぼんやりと考えた。汗ばんだ互いの手が触れあっているのは、あまり気持ちの良いものではなかったけれど、それ以上に肌が触れているという事実が嬉しかった。


#5
 手をつなぐことは初めてではない。けれども、そんなに経験があるわけではなくて、いつも以上に自分が緊張しているのがわかっていた。ふと話題が途切れて二人の間に沈黙が流れた。その沈黙は決して気まずいものではなくて、むしろその静けさの中に潜む親しい者独特の優しい空気が心地良く思われたくらいだ。その沈黙の中に、ひたりと穏やかな声が注ぎ込まれた。
「西谷さぁ」
「はい?」
 西谷の家に近づいたころ、東峰がのんびりとした口調で言う。
「俺にも甘えてほしいって言ったじゃんか」
「はい、言いました」
「でもね、俺はこうやって西谷が甘えてくれることが嬉しいんだよ」
 絡ませた指先を見つめて、東峰がわずかに目元を下げる。
「……はい」
「それに俺のしてほしいこと、俺が口に出して言う前に、全部西谷がしてくれるべ。
 だからそれにいつも寄りかかって、西谷の優しさとか男らしさとかに甘えてたのかも」
 予想外の言葉たちに、西谷の頬の温度は瞬く間に急上昇する。
 西谷が返事をできなくて黙っていると、東峰が俯いた顔を覗こうとした。
「今、は、ちょっと駄目です」
 顔を懸命にそらし、夕闇でも隠せないほど真っ赤になった頬を隠す。
「へ? 俺なんかした?」
 すると、先ほどまでのかっこいい姿は身を潜め、東峰は情けない声を出す。
「今、たぶんすごい恥ずかしい顔してるんで、見ないでください」
「……悪いけど、それは嫌だ」
 思いがけず否定の言葉が返ってきて驚いていると、強引に顎を掬われて、持ち上がった視線が彼のものとかち合った。もしかしたら自分は恋人のとんでもない部分を引き出してしまったんではないか、と今更慌ててもすでに遅い。東峰の厚めの唇に自分のものがすっぽりと覆われてしまって、重ねているだけなのにかぶりつかれているような気さえしていた。
 西谷はゆっくりと唇が離れてから、目の前の恋人に、問いかけとも、感想ともしれない言葉を投げかけた。
「アンタ、どこまでへなちょこでかっこいいんですか」
「へっ、それ褒めてる? それともけなしてる?」
「褒めてますよ」
 そう言いながら握り締めた手の力をぎゅっと強くすると、「西谷のほうがかっこいいよ」とあのへにゃりと気の抜けた笑顔が返ってきた。
「いいえ、旭さんのほうがかっこいいです!」
 そんなバカップルのようなやり取りをしながら、西谷らは足取り軽く目的地を目指した。わざと気が付かないふりをしていたけれど、背の高い彼が自分の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれていることが幸せだった。こちらのほうが甘やかせてもらっているよ、なんて彼は言ったけれど、甘やかされているのはどう考えても自分のほうだ。


#6
 と、そこまではよかった。確かに恋人はすごくかっこいい。だけれども、へなちょこであることも絶対に忘れてはいけないのだ。
「……なんでそんなに離れて座るんですか」
 西谷の部屋は椅子を置いてあるわけでもないので、座るとなれば、必然的に床かベッドかの二択になる。ちなみに西谷自身は、ベッド派である。わざわざフワフワのベッドを横目にして、カーペットが敷いてあるとはいえ硬い床に座る必要はない、というのが彼の意見だ。
 冷やしたスポーツドリンクをグラスに入れて用意したあと、西谷はいつものようにベッドにドカッと座る。床で小さく座っていた東峰をこちらに手招くと、彼も遠慮がちに隣へやってきた。
 そして今に至る。
「え、えぇと」
「あっ、汗臭いの嫌ですか? なら、先にシャワー……」
「じゃなくって」
 東峰が立ち上がりかけた西谷の右腕をつかんだ。
「こんな近くに来られると、ほら俺も健全な男子高校生だし…? しかもこの部屋、お前のにおいするし……ってちょ、うわぁぁ」
 なんだか変態くさい発言が聞こえた気もするが、それはさて置いて、西谷は遠慮なく東峰のスラックスの上からそこへ指先を伸ばしてみた。さすがに外から見ただけではわからなかったが、それは確実に……。
「勃ってる」
「…っ! 言わないで〜」
 ドクン、と耳の裏で血液の流れる音がした。西谷は衝動のままにそこへぐいっと手を伸ばした。焦ったような東峰の声が聞こえるが、この際、その声は聞こえないふりだ。スラックスのチャックに手を掛けると、そこはすでに半分ほど勃ち上がっていた。よく知っている香りが、記憶の中だけで香りはじめる。きっともうすぐそれは記憶だけでなくなるはずだ。
 自分を落ち着かせるために深呼吸をしてから、西谷はスラックスの奥にあるボクサーパンツをそっと脱がせた。そこから現れたのは、自分のものよりも大きく赤黒い姿をした男の象徴。
 西谷はベッドの下で立ち膝をつくと、迷うことなくそれを口に含んだ。
「西谷……!?」
 素っ頓狂な子が聞こえたが、それに構わず西谷がその表面に舌を撫でつけると、東峰の口から湿った吐息が零れ出す。頬でそこをこすりながら、裏筋を舌でぺろぺろと舐める。鈴口から溢れていた先走り液が少し苦く、独特の香りが鼻先を抜けていく。彼の味だ、と西谷は無意識に目を細めた。彼の好きなところを舌先が通るたび、口の中のものがドクリドクリと脈打って、西谷の口には収まらないほど大きくなる。
「にしのや……だめっ、出るから……っ! 離れ……」
 弱弱しい左手が今だそれにしゃぶりつく西谷を離そうと、右肩を押す。西谷は大きく頬をすぼめて、先を吸い込んだ。その瞬間、くっと力が入った東峰の手が西谷を思いがけず強い力で押してきた。
「あっ!」
 やばい、と東峰が声を上げるが、すでに遅かった。東峰の欲が吐き出される寸前、西谷の口がそこから離れてしまって、数回に分けて飛び出したそれは、否応なく西谷の顔面にかかった。
「わぁぁ、西谷ごめん」
 東峰は慌ててスラックスを引き上げて、土下座をせんばかりの勢いで謝り、西谷の顔についた精液を拭ってくれる。けれども、西谷はその手を途中で奪い、思い切りベッドに押し倒した。油断していた東峰の上半身は、簡単にベッドに倒れこむ。髪にも少しそれが付いていたが、気にならなかった。
 そして、西谷は東峰の腹に乗り、宙を彷徨う瞳に問うた。
「気持ち良かったですか?」
 そう言って、口端についた精液をぺろりと舌先で舐めた。


#7
 気が付けば、押し倒されていたのは自分のほうだった。あっという間に、カッターシャツを脱がされて、赤ん坊のように万歳をさせられ、着ていたTシャツをさらわれた。東峰も性急な動きで、着ていたセーターを脱ぐ。
「旭さん」
 意味もなく名前を呼ぶと、頬になだめるようなキスが降らされる。上半身を見る機会なんて毎日のようにあるのに、それがこの狭い部屋、ベッドの上であることが、常よりも西谷を興奮させた。汚れることを心配してか、すぐにスラックスも剥ぎ取られた。自分は今、ボクサーパンツ一枚に靴下というなんとも情けない姿だ。
 東峰はそんなことを気にしていないのか、露わになった自分の上半身にその舌と指をすべらせている。こうなれば、あっという間に思考回路がショートを起こすのはいつものことで、行為が始まると、十分もしないうちに西谷の頭の中は真っ白になってしまう。
 けれども、不意にチクリとした痛みを胸元に感じて、西谷はそのとろけた思考を覚醒させた。
「あれ、いま?」
 東峰が舐めている先を見つめると、そこには淡い朱色に色づいている。初めて見るそれに西谷は、はっとして息を飲んだ。
 キスマークだ。
「んんっ」
 キスマークの上を舐められていると自覚するだけで、先ほどまで生ぬるく心地良かった刺激が、息が苦しくなるほど強烈なそれに変わる。反応が変わった西谷に気が付いたのか、東峰が視線をこちらに寄越す。普段見下ろされてる彼に見上げられる感覚は、腰に直接的な快感として届いた。
 しばらくすると、同じように脇腹にも先ほどの痛みが走る。もう見ずともそこがどうなっているかわかった。東峰は、再び所有印をつけたそこを丁寧に舐めた。わずかにざらついたそれが肌に触れるたび、くすぐったいような、もっと、と強請りたくなるような不思議な感触が胸をざわつかせる。
 その次は、腰。そのまた次は、へその下あたり。最初はどこに吸い付かれているのかわかっていたのに、ぐずぐずに溶けた脳みそでは、次第にその情報すら処理しきれなくなっていった。
 次に大きく身体が揺れたのは、内ももに唇を当てられたときだ。腰に口づけをされたときと同じくらい、もしくはそれ以上の気持ち良さが西谷の身体を駆け巡る。大きく反応をして見せた西谷を見て、東峰は何度も皮膚の薄いそこへ痕を残した。自分では見られないが、特に色の白いそこは、朱色がよく映えるだろう。恥ずかしくて、つい脚を閉じようとしたけれども、東峰がそこに分厚い手を差し込んで、優しく撫で上げるものだから、あられもない声が零れてしまった。このままでは、東峰の触れるところが全て自分の性感帯になってしまいそうだ。もしかしたら、もうなっているかもしれない。行為のたびに甘やかされた身体は、その指が、舌が、その男根が与える優しくて激しい熱情を知ってしまったのだから。
「ふぁっ?」
 唐突に左脚を持ち上げられて、思いがけず驚いた声が出た。東峰はそのまま、持ち上げたももの裏に唇を這わせた。
「はっ、んんぅ……っ!」
 何度感じても慣れない甘い痛みが、再びその場所を執拗な優しさで愛でる。
「にしのや……」
 ものを主張するそこを、熱に浮かされた吐息がふわりとくすぐった。その口で愛されれば、自分では味わえないほどの快楽が押し寄せるだろう。そう思えば、自然と膨らみは大きくなる。すると、次の瞬間には少し荒々しい仕草で、ボクサーパンツを脱がされた。
「はっ、ぁぁ」
 とめどなく涙を流す性器が、熱い粘膜に包まれる。あまりの気持ち良さにそれだけで達してしまいそうになるのを歯を食いしばって懸命に耐えた。ちゅぱちゅぱと卑猥な音を立てられて、耳までも犯されている気分になる。いや、それはおそらく気のせいではない。身体中の全てが東峰のものになりたいと欲し、それは受け取る信号をことごとく快感へと交換していくのだ。
 東峰の口内は、西谷の性器を丸ごと覆ってしまう。奥までしっかりと咥えられて、先端が東峰の喉の入り口に締め付けられる。同時に後ろの袋を揉みしだかれて、じわじわと射精感が身体の奥から湧き上がった。
 ずっと焦らされていたそこが限界を迎えるのは、あっという間のことだった。
「いく……! あさひさ……っ!」
 一思いに濃厚な液が溢れ出す。それは全て東峰の口の中へ吐き出されたようだった。彼は迷うことなく、それを数回に分けて飲み干した。
 西谷はそれをまるで夢を見る心地でぼんやりと見ていた。西谷が焦点の合わない瞳で宙を見つめていると、東峰がその性器に纏わりついた白濁の液を手に広げはじめた。
「もうすぐ西谷のお母さん帰ってくるだろうから、最後まではしないよ」
 いい? と確認するように言う東峰に、西谷は仕方なくうなずいた。東峰のことを気に入っている母親のことだ。玄関にある大きな靴を確認すると、嬉しそうな顔で自分の部屋へやってくることは目に見えている。行為中に出会ってしまったら、もうこれからどんな顔をして生活していけば良いのかわからなくなるので、これだけは避けなければならない。
 だから、いつもだって最後までするときは毎回、東峰の部屋でしていた。
「その代わり、明日、俺んちに泊まりにおいで」
 それは珍しい東峰からの誘い。雄の表情をした彼の低い声はこの上なく心臓に悪い。真っ赤な顔でうなずいた自分の気持ちはきっとバレバレだ。
 東峰は手のひらに塗り広げていたそれを、西谷のももの内側に塗りつけた。
「足、閉じててね」
 先ほどまでとは反対に、脚を閉じるように言われた。東峰は上手、と西谷を褒めると、その隙間に高ぶった自らの性器を挿し入れた。
「ふ……っ」
 熱いそれが薄い皮膚をこすり上げる感覚に、思わず息が詰まる。そして、その熱は予想に反して、ひどく気持ちが良い。
「にし、のや……!」
 東峰が切なげな声で名前を呼ぶ。先から零れる精液がももに垂れて、潤滑剤の代わりになっていた。まるで擬似セックスを連想させる東峰の動きに、西谷も徐々に感情を高ぶらせてく。
「はっ、あぁうぁぁぁ……」
 息を吸ってもすぐに酸素が足りなくなる。限界を超えた身体は、その苦痛を本能的に快楽へと変換する。東峰のものが自分の脚から飛び出す様子は異様にシュールだ。けれども、その見た目すら気にならなくなるほど、西谷の脳みそは砂糖漬けにされていた。彼の性器が西谷の象徴をこすり上げる。そのたびに、掠れた音色が喉から発せられた。
「あぁ、そろそろやばい」
 独り言のように言った東峰の性器は今にもはちきれそうだった。腫れあがったそれへ快感を与えているのはまぎれもなく自分のものだ。そして西谷のそこも、色形に違いこそあれども、真っ赤に腫れあがっていることは同じだった。
 東峰が小さな呻き声を上げると、脚から性器を抜き取る。けれども、避けきれなかった精液は西谷のももを彩った。そして、その生々しい感覚を感じるとともに、自分の腹にも同じ白濁の痕がまき散らされていた。
 東峰の胸元を一筋の汗が伝い、それはぽとりと西谷の胸元へ落ちて、こちらのものと混ざり合った。二人は、しばらく抱き合ったまま、部屋中に広がる甘い余韻を満喫した。


#8
 その後、時計を見て慌てふためき、なんとかシャワーを浴び終えると、ちょうど西谷の母親が帰ってきたところだった。予想通り、彼女は東峰の来訪を喜び、一晩泊まっていくことを勧めた。東峰は気を遣って断ろうとしたが、西谷の勧めもあって、最終的にはその言葉に甘えることにしたようだ。
 そして、今。同じベッドに寝転んで、西谷は東峰の腕枕にあやされている。少し硬めのその枕は、自分専用のものだ。額を胸元にこすりつけると、ボディーソープの清潔な香りが鼻孔をくすぐった。自分のものと同じ香りであるはずなのに、それは西谷の心を無性にときめかせるのだから、とても不思議で仕方ない。そんな西谷の甘えるような仕草に、暗闇の奥で、東峰が柔らかく笑うのがなんとなくわかった。恥ずかしくなって身を固くすると、そんな緊張をほぐすようにふわりふわり頭を撫でられる。
 あぁ。やはり甘やかされているのは自分のほうだ。
「俺、幸せだぁ」
 東峰がのんきな声色でそう言う。それを聞いて、甘やかしている本人がひどく幸せそうなのだから、もうこのままでもいいかな、なんて思った。けれども、いつかベッタベタに甘やかしてやるんだ、という心意気を忘れていないことは言うまでもない。それが西谷夕という、男だ。
 そんな西谷を知ってか知らずか、半分眠ったままで、おやすみと言った彼は、西谷の身体を抱き枕よろしく、ぎゅうっと抱き締めた。俺も幸せですよ、と寝息を立てる彼を起こさないように、心の中でつぶやいたことを西谷の最愛の人は知らない。

【了】

- ナノ -