溺れてしまえ


 ――西谷はほんと裏表のないやつだな。
 中学のときから変わらない周りの評価。そして高校に入ってもそれは勿論変わらなかった。自分でも性格に裏表がないことは十分承知している。誰に対しても平等で、分けて隔てなく関わることも意識してきた。
 だけど……。いや、だからこそ。その中で、旭さんは唯一の例外でもあった。

 俺が旭さんを追いかけるようにして同じ大学に入学してからはおよそ一年半。そして一人暮らしをする旭さんの部屋に転がりこんでから、もう一年と数ヶ月が経っていた。
 俺はシャワーを浴びて濡れてしまった髪をぐしゃぐしゃとタオルで拭いていた。旭さんがいればきっと、そんなに強くこすったら髪が痛んじゃうよ、と太めの眉を困ったように下げるのだろう。
 彼を困らせたいわけじゃない。だけど、彼が困ったように眉を下げるとき、彼の脳内を占めているのは、間違いなく自分ただ一人だ。それが少しだけ嬉しくて、ついわざと困らせてしまう。可愛らしく言えば、小さなわがままってやつだ。
 どうやったら彼がこちらを向いてくれるか、彼は今なにを考えているのか。そんないくら考えても仕方ないであろうことを、無意識に想像してしまう。そして、彼を求める仕草を自然としてしまうのだ。それを誰かに打ち明けたならば、計算高いやつだ、と言われるかもしれない。もしかしたら、西谷らしくないことを言うなぁ、と一笑されるかもしれない。
 しかしながら、これは間違いなく、元々自分の中にあった性質だったと思う。つまりは、今まで知らなかったもしくは隠していた自分の性格が、はっきりと表に現れるほど、俺は本能的に「東峰旭」という人間に惹かれたのだ。
 自分に変化を起こさせた存在。唯一の特別でいたいという例外的な気持ちを自分に抱かせた人物。それが恋人である彼だった。

 そのとき、この数十分間、ずっと待っていた音がした。扉一枚を隔てた先で聞こえる、金属同士がぶつかるような小さな音だ。

 首に巻いていたタオルを放り出して、玄関に走る。そこにいるのは、いつものように優しげな笑みを浮かべた大きな恋人であるはずだった。
「おかえ……」
 勢いよく扉が開いて、濃茶色の瞳に見下ろされる。それはやはり大好きな彼に間違いない。俺はなにも考えずに、いつものようにおかえりなさい! と笑いかけようとした。けれども、その言葉は熱い唇によって遮られてしまった。
「んん、旭さっ……!」
 玄関の扉が閉められた音が聞こえた気がした。はっきりとわからなかったのは、絶え間なく鳴り響く唾液の混ざり合う音色とぐちゃぐちゃに乱されて混乱している脳のせいだ。覆い被さるように抱きすくめられて、身体が無理に反り返る。懸命に胸元を両手で押し返そうとしたが、旭さんの身体に俺の腕が勝てるはずもなかった。
 背筋を撫でる手のひらが熱い。重ね合わせた唇も熱い。旭さんの身体中がいつもより熱を持っていた。心なしか、呼吸も荒い気がする。俺は数十分前にメールを見たときにも胸をざわつかせた違和感を思い出した。
「あさ……ひさん…っ」
 無理矢理身体をはがし、その額に手を当てる。
「うわ! やっぱりすごい身体が熱いじゃないですか!」
 玄関先で病人に襲われている場合ではない。今すぐにでも困った先輩をベッドに寝かさなければならない。
「ほら、旭さん。ベッドに行きま…ふぁ、」
 膝裏に両手を差し込まれて、ふわりと抱きかかえられる。そのまま連れていかれたのは、二人で使っているベッドだった。
「俺は寝ないんです! 病人はアンタですから!」
 押し倒された俺は、きっと眉を上げ、目の前の巨人を見上げる。
「風邪とかじゃないと思う……」
「え?」
 静かな声がかえって不安を誘う。言いにくそうな旭さんを見つめ続けると、彼は観念したように口を開く。
「……わからないんだけど、身体の奥が熱いんだ」
 苦痛以外の高ぶりによって膜を張った瞳。運動をした後のように赤らんだ頬。そして何よりも、触れあった部分から存在を主張する彼の熱。
「……こんなになるまで我慢して、なにしてるんすか。つか、なんか変なもの食べたでしょ!」
 少しきつい口調で言うと、申し訳なさそうに眉が下がった。
「あぅ、えっと……。元気だせよって……」
 その後から続いた懐かしい先輩たちの名前に、ため息が出た。
「ご、ごめん……! こんなことされるの嫌だよな。ちょっと風呂に……」
 旭さんは、俺のため息の理由を勘違いしたようだ。急に慌てはじめ、そそくさと俺の上から退こうとする。
「それは、俺じゃなきゃダメですか」
 逃げていく腕を強めに掴み、わかっていてわざと問いかける。彼の口から、彼の言葉で聞きたかった。
 えっ、と旭さんの動きが止まる。掴んだ手首からは速い脈動が伝わってきたが、それはもしかしたら自分のものかもしれなかった。
「……他の人じゃ満足できないよ。お前じゃなきゃ」
 困ったように眉が垂れる。あぁ可愛いなぁと思った。そう思うと、離れている距離がもどかしくて、その頬へ手を伸ばし、そっと撫でてみる。そのまま手のひらをするりと顎にすべらせると、髭の感触がくすぐったい。それが嬉しくて、何度もそこに触れた。
 軽く手をすべらせるその動きだけで、旭さんは焦ったように肩を弾ませた。俺の指が唇に触れると、とっさに飲み込んだらしい唾液が喉の奥でくっと小さな音を鳴らした。まるで飢えた動物のようだ。そこがたまらなく、愛おしい。
「すげぇ敏感になってる。ほんと、なにされたんスか……」
「にしの、や……」
 早く、と余裕なさげに潤んだ視線が俺をせき立てる。それでも自分から手を出さないのは、いかにも優しすぎる彼らしかった。どうすれば旭さんが動いてくれるか、俺はよく知っている。
「旭さんの恋人は俺なんですから、好きなように愛してください」
 ーーそれは魔法の言葉、だ。
 いいの? と遠慮がちにおずおずと言葉を紡いでいるくせに、その目の奥は獲物を補食する猛獣のそれにそっくりだ。
 俺は今から食われる。だが、それが本望だ。だから、あざといとわかっていながらも、いいですよ、とその首に両手を回して、じっと彼を見つめてみるのだ。まっすぐな俺の視線に、旭さんがひどく弱いのはずっと前からお見通し。
 目の前でごくりと喉が上下する。思わず満足げに微笑んでしまった俺は、このうえなくはしたない笑みを口元に浮かべていることだろう。そして、それは旭さんの理性を飲み込んで、本音を丸裸にさせるには十分だ。
 普段は朝日のように柔らかで、犬のような愛らしさすら感じさせる瞳が、餌に食らいつく寸前の狼のそれに変わるのに時間はかからなかった。
「気持ちよくしてくださいね」
 挑戦的に微笑んで、少し挑発してやった。


 ◇◆◇


「ぁっ、旭さ、ん……。遠慮……しないで……っ」
 硬くなったそこはすごく苦しいに違いないのに、旭さんはすぐに挿入することをためらい、丹念に俺のそこを広げようとする。それを止めて、すぐに挿れてもいい、と腰をすり寄せたのは、ほんの数分前のことだ。
 旭さんはためらうようにこちらを見たが、すぐに腰を沈めてきた。
「あぁぁ……」
 いつも以上の圧迫感に襲われて俺は小さく呻く。けれども、準備の甲斐あってか、それは旭さんにほぐしてもらわなくてもすぐに入っていった。

 旭さんらしからぬメールが届いたのは、あの人が帰ってくる三十分ほど前のことだった。
 ーー西谷がほしい。
 ただそれだけ。けれども、恋人になって数年が経過していた俺には、なにを言われているのかすぐにわかった。それに身体だって、幾度となく重ねてきた間柄だ。
 わざと返事はしなかった。というかできなかった。その代わり、すっかりその気になった身体とともに、風呂場に直行したのは言うまでもない。

「んんぅ、これ以上、焦らすつもりですか……っ」
 こっちはずっと待っていたのだ。それなのに、ここまで来て遠慮しないでほしい。そこが旭さんの良いところだとはわかっているが、今日は激しく揺すぶられ、なにも考えられないくらい彼に溺れてしまいたかった。
「でも西谷に無理させたく……」
「アンタが変なメールよこすからですよ! ……ずっと待ってたんですから」
 ほぐしてもいないのに抵抗なく飲み込まれていったそれ、そして俺の意味深な言葉。鈍感な彼もようやく気が付いたらしい。
「に、西谷……準備して待ってて……?」
「……それ聞いちゃうんだ。空気読めない男はモテないっスよ」
「え、あ、」
 何かを言いそうになって、とっさに口を噤む彼。きっとごめん、とかなんとか言おうとしたんだろう。
「まぁ、旭さんがこれ以上モテたら俺が困りますけど」
 うっと息を飲んだ彼は、そっと視線を明後日のほうに向け、大きなその手のひらで顔全体を覆っているが、無防備な耳がこちらから丸見えだ。いわずもがな、それは紅葉のように真っ赤だ。
「えっと、その、待っててくれて、嬉しい、です……」
 その言葉に今度は俺が赤面する番だった。
「旭さん、それはずるい……」
 不意打ちでストレートな気持ちを伝えてくるなんて。
「えっ!」
「……もう我慢できないです、俺」
 潤んだ瞳で彼を射抜く。彼を迎えていた奥が、きゅっと切なく締まった。
「……っ、俺も。今日は優しくできないよ」
 俺の中で旭さんの欲望がズクリと体積を増す。
 望むところです、と微笑んだけれど、最後のほうの言葉は嬌声に飲み込まれていった。


「はぁっ、はっ。あさひさん……ッッ!」
 眉をきゅっとしかめ、譫言のようにあの人の名前を呼ぶのは誰だろう。もう何度、欲を吐き出したかわからない。旭さんのものが抽送されるたび、その奥で精液がグシュグシュと泡立った。
「西谷……っ」
 名前を呼びながら弱いところを擦られる。
「あっ、やば……っまたくる……っぁぁああ」
 真っ白な波になにもかもがさらわれて、揺れる意識がその中で溺れる。ふわりと一瞬手放した意識は、さらに大きな快感をもって現実に戻される。もう鈴口から液体は出ないのに、射精に似た感覚は絶えることなく身体を襲っていた。閉じられなくなった唇からは、耳をふさぎたくなるような甘え声が聞こえる。これが自分の声だとは信じたくないが、その音色は己の身体を痺れさせる電気のような刺激と律動をともにしていた。
「あっっ……」
 生理的な涙ににじむその向こうで、一心に自分をむさぼる男の姿が見える。
「あさひさ、ん……」
「にし……のやっ」
 名前を呼ぶと、同じように俺の名前を呼ぶ声が聞こえる。その吐息混じりの低音が身体中に響きわたる。それは、まるで身体の奥底にまで沁みわたっていくような感覚だった。その優しくも欲情をたたえた旭さんの声を聞いて、彼に今この瞬間、身体を捧げているのは自分なのだと実感する。
「……っっうあ」
 再び旭さんの体液が注ぎ込まれ、その熱さに思わず目を見開く。何度も彼は達しているのに、その熱は収まる気配を見せない。今だって、欲を吐き出したかと思えば、もうそれは膨らみ始めている。
 旭さんの動きは止まらない。ギリギリまで抜いて、最奥にまで杭を打ち込まれる。声も精液も出なくて苦しいはずなのに、俺の心はそれを悦んで受け入れた。
 下半身が自分のものでないと思われるくらい痺れていた。もはや感覚がなくて、ただ絶えることなく与えられる、痛いほどの快楽を呼び起こす刺激と、心の高ぶりだけが俺の意識を支配する。もう目を開けているのすらも億劫で、緩く閉じたままにした瞳。意識的に奪われた視界の代わりに、その他の五感が活発に役目を果たそうとしていた。
 はぁ、と湿った吐息が聞こえる。汗と精液の混じった香りが匂う。吸いつかれた肌は熱を帯びて、玉のような汗が流れるのを感じた。理由もわからない甘ったるさが口内を占領していた。
 腰の動きがわずかに緩まって、あやすように優しい口づけが降ってくる。くちゅくちゅと上からも下からも、いやらしい水音が鳴った。二人分の唾液が俺の口内で混ざり、口の端でたまったそれは粘膜に触れて甘く感じられた。分厚い彼の舌が歯列の裏をねぶり、蕩けるような激しさをもってこちらの舌を吸い上げる。どうしようもなく胸がドキドキして、元々乱れていた呼吸がさらに荒くなった。
 ふわりと浮遊感が身体を襲う。あっ、これはやばいと本能が悟るももうすでに遅かった。腰が意志とは関係なく、クッとそりあがる。それに合わせて、旭さんが再び腰を強く打ち付けた。
 俺が意識を手放す瞬間、旭さんの身体がこちらに預けられた気がしたが、もうすでに記憶は途絶えていた。ただ、身体をむしばむ疲労感が胸を締め付け、このうえない幸福と満足感に包まれていたのをおぼろげに覚えている。ぴたりと重なった肌が愛おしくてたまらなかった。


 ◇◆◇


「んん、もう朝……?」
 カーテンから差し込んだ日差しに目を細める。隣で穏やかな呼吸音が聞こえて、俺は思わずふっと頬を緩めた。旭さんが、むにゃむにゃと言いながら、身体をすり寄せようとした。そのとき。
「んぁ!」
 下肢、正しく言えば昨晩めいっぱい愛されたその場所に、覚えのある甘ったるい刺激が加わる。俺の声に反応したのか、それとも朝の生理的反応なのかは判断つきにくいが、旭さんのものが俺の中で大きくなった。
「あ、さひさん……! 起きてください!」
 早くも息を乱してしまった自分が情けなくもあるが、これはいかんともしがたいものがある。
「んんー、西谷ー?」
 旭さんがごしごしと目をこする。視線が合った。きっと俺は爽やかな朝に似つかわしくない顔をしているだろう。
 旭さんの瞳の奥がギラリと鈍くひかった。







 そのあとはきっとご察しの通りだ。俺たちがベッドを出たのはそれから三十分以上が経ってからのこと。旭さんの謝罪の嵐が俺を襲ったのは、もはや言うまでもない。

 さらに本音を言うと、こんなにまっすぐに欲望のままに求められたのは初めてだったので、とてもとても嬉しかった。だけれども、もうしばらくの間だけ、このことは秘密にしておこう。

「ほら、旭さん! 俺、動けないから風呂場まで連れていってくださいよ」
「う、うん! もちろん!」

 ちょっとだけわがままを言って彼を困らせてみる。軽い動作で俺を抱き上げて嬉しそうに笑う彼がこれからもずっとそばにいてくれますように、と唇にとびっきりのキスをして、秘密のおまじないをかけた。


【了】

- ナノ -