自分は何を考えていたのだろう。西谷は、数十分前にとった自身の行動を恥じていた。渋る彼の優しさに付け込んで、自分はキスをねだった。そしてその結果がこれだ。
唇が触れた途端、バラバラだったピースがかちりと合わさる音がした。
――自分は間違いなく、彼に恋をしている。
心臓がまるで自分のものでないかのように勝手に暴れまわる。いたたまれなくなって、西谷はその場を逃げ出した。彼が何か言ったけれど、それを聞く余裕はこれっぽっちもなかった。
一度でも自覚してしまえば、その想いは坂道を転がるボールのごとく、急速な勢いをもって西谷の心を持っていった。
その日の授業はひとつも頭に入ってこなかった。ただ今日から試験期間前で部活がないことがせめてもの救いだった。
今はきっと熱があるようなもので、一晩寝れば、きっとこの想いは勘違いだったと気が付くだろう、とこのときは安易に考えていた。しかしそれが安易すぎる考えだったことは翌朝すぐに知れた。一晩寝ても、西谷の気持ちは高まったままだったのだ。
次の日になってもその次の日になっても、その病気は治る気配を見せてはくれなかった。
「はぁ」
授業中も知らぬ間に溜息が零れる。様子のおかしい西谷のことを、初め友人たちは恋の病だと囃し立てたが、二・三日もすれば、さすがに心配したのか、騒ぐことをやめ、相談に乗ろうかとまで言い出した。しかしながら男性に恋をしていることを打ち明けられるはずもなかったから、西谷はなんでもない、を貫き通した。
だが、心配した級友たちによって、西谷の異変がどうやら旭の耳にも届いたらしい。屋上でのやり取りから数日が経過したある日の昼休み、一年のクラスを訪れた旭はいつになくまじめな表情で、西谷を昼食に誘った。
場所は前と同じ屋上。今日も人はいなくて、西谷はとりあえず日陰になったところに座った。そのすぐ隣に旭も腰を下ろす。変な距離感ではないのに、異常に密着しているように思われて、西谷は少し気まずくなった。
「西谷、」
旭は真っ青な空を見上げたまま言う。彼の視線を追って空を仰ぎ見ると、二筋の飛行機雲は目に入った。それは交わりそうで交わらないぎりぎりのラインで、澄んだ空色のキャンパスに真っ白なペンキで曲線を描いている。それはすれ違い続ける二人の心を表しているようだった。
「こないだの告白のことも、キスのことも忘れて。そんなことで西谷に悩んでほしくないんだ。……困らせてごめんな」
旭は膝に乗せていた弁当には一口も箸をつけず、それだけ言うと屋上を出て行った。いつもは大きい後ろ姿が、今日はやけに小さく見える。
「待って……」
絞り出した声はあまりにも頼りなくて、彼のもとまで届く前にぽとりと地面に落ちた。縋るように伸ばした右手は、生温い空気をかき混ぜただけだった。
どうやって教室まで帰ったのかなんて覚えていない。気が付けば、自分の席に座って数学の授業を受けていた。けれども、公式は一つも脳内に入って来なかった。まるで右耳から入った言葉が左耳から抜けていってしまっているようだ。
悩ましい溜息を吐き出して、何気なくグランドに視線をやる。そこにいたのは幸か不幸か、旭のいるクラスだった。
無意識のうちにいつもの大きな背中を探す。それはすぐに見つかった。どうやら今日の授業はサッカーらしい。大地に絡まれて困ったように眉を下げているのがここからでもわかった。あんな風に背中に触れられるなんてずるい、と幼稚な嫉妬を覚えてしまう。自分はどうしようもない病を患ってしまったらしい。
審判の動きから試合が始まったのがわかった。視線は依然彼を追い続けている。背の高くて運動神経の良い彼は、何をやっても様になっていた。
試合が開始されてから数分が経った頃、ふわりと旭の視線がこちらを見上げたような気がした。
「あっ」
こちらが思わず声を漏らせば、向こうも驚いたようにぽかんと口を開ける。
その次の瞬間だった。
「危ない……!」
相手チームの蹴ったボールが旭の顔面に直撃した。
大声を上げて立ち上がった西谷に、クラス中の注目が集まる。
「ん、どうした西谷」
数学教師が首を傾げる。
「すみません。体調が悪いので保健室に行ってきます……!」
「……え?」
唖然とする教師を振り返ることもせず、西谷は教室を飛び出した。勿論、行き先は保健室だ。あのスピードのボールを顔の正面で受け止めたのだから、鼻血が出ていても不思議ではない。
彼は確かにこちらを見た。自惚れかもしれないが、彼の気持ちはまだ自分のほうへと向いている、そんな気がした。どこまでこのひとは不器用なのだろう。だけどそんなところも含めて好きになってしまっていたのだから仕方ない。いち早く彼の誤解を解かなければ、と思い、西谷は懸命に走った。きっと旭が隣にいたら、廊下を走るなと怒られていたことだろう。
3 ← 4 → 5