#3


「え、どうしたの西谷?」
 旭が驚いたのも無理はない。なぜなら昨日のことがあって、そして今日なのだから。しかも旭は朝練に行かなかったので、告白してから彼と顔を合わせるのは、これが初めてなのだ。
「何で朝練来なかったんですか」
「……だって」
 いつだって彼は直球だ。でも、まさか昨日の告白が気まずくて、なんとなく顔を合わせ辛かったとは言えなかった。思わず言葉を濁すと、彼もなんとなく理由を悟っていたのかどうかは不明だが、表情をひとつも変えなかった。彼がなにを考えているのかわからない、と初めて思った。



「……昼飯、一緒に食べませんか」
 わずかな沈黙のあと、そう言った西谷に引っ張り出されて、二人で無人の屋上に向かう。ちょうど良い日陰を見つけて、彼はそこに座り込んだ。旭も西谷に習って、少し離れた場所に腰を下ろした。
 無言で弁当を開ける。西谷も黙って購買で買ったらしいパンにかぶりついていた。豪快な食べっぷりは相変わらずだ。
 あっという間に三つの惣菜パンを食べ終えて、カフェオレをゴクゴクと飲んだ。そして彼はようやく口を開いた。
「そのまま食べながら聞いてくださいね」
「わかった」
 彼がそう言うのならば、と旭は味のしみた煮物を一口、口に運んだ。
「俺、正直言うと旭さんに告白されて嬉しかったです。でも、これが恋愛感情なのかわからない」
 そうか、自分は今から振られるのかぁと思った。わかっていたことだけれど、やはり失恋とは辛いものだ。けれども、真摯に向かい合おうとしてくれた彼のその気持ちが嬉しかったのも事実だった。これからまた仲間として彼は接してくれるだろうか、と心配ごとは別の方向に進んでいた。
「だから!」
 西谷の声がワントーン上がって、もやもやした思考は再び目の前の少年に引き戻される。旭は目の前でじっと自分を見上げる彼を見下ろした。
「キスしてみても良いですか」
「……え?」
「試合中の旭さんはかっこよくてドキドキします。告白されたときもすげぇドキドキしました。このドキドキが、尊敬から来るのそれなのか、それとも全く別のものなのか、俺知りたいんです!」
「あのね、西谷。もっと自分を大事にしなきゃ。好きかわからない男となんか、そんなことしちゃダメだよ」
 ドキッと飛び跳ねた心臓の音色には耳を塞いで、いつもの笑顔を浮かべた。
「……」
 西谷は黙って首を振る。知り合ってたかが数か月だが、彼の強情さはよく知っている。一度決めたことは絶対に曲げないことも知っていた。だからこそ、ここでいくら自分が説得したところで、彼の気持ちは変わらないだろう。
 ならば、少しでも彼が傷つかない方法を考えた。
「じゃあ俺からするよ」
 そうすれば、もし西谷の気持ちがただの尊敬からくる好意だった場合、このキスは自分が無理やりしたことにすれば良い。それなら彼が負うであろう心傷もいくらか緩和されると思ったのだ。
「え?」
 西谷は予想外の展開だったのか、驚いた顔を見せる。ほら、そんな無防備な姿を他のひとには見せないでくれよ。口にはできない台詞の代わりに小さな溜息を零した。
「そうじゃないならキスはできない」
 はっきりとそう言い切ると、西谷も旭の本気を感じてくれたのか、神妙な顔で頷いた。

 せめて、と口に茶を含み、口の中をゆすぐ。最初で最後のキスが煮物の味なんてちょっぴり嫌だ。
「目、閉じて」
 素直に瞳を閉じる彼。思ったよりも長い睫毛は、烏の羽のように真っ黒だった。さすがに緊張しているのか、わずかにまぶたが震えているのが愛おしいと思った。彼が自分のものになれば良いのに。そんな叶わぬ願いを抱いた。
 初めて触れたひとの唇は思ったよりも弾力があって、本能のままに蹂躙しそうになるのを理性で抑えた。ふにふにと何度か啄んでそれを愛でると、旭はすぐに唇を解放した。
 そして顔を離すと、ゆっくりと瞳を開く。それとほぼ同じタイミングで、彼もまぶたを持ち上げた。
「あっ」
 彼と視線を交わして、旭は思わず声を漏らした。
 すぐ近くにある彼の目元は濡れていた。水滴を纏った睫毛は、先ほどよりもその艶やかさを増している。
「ごめ……」
 とっさに謝ろうとしたけれど、謝罪の言葉を伝える前に彼は立ち上がり、そのまま勢い良く走り去ってしまった。
 すべてが終わってしまった。もう話してもらえない。もう笑いかけてもらえない。旭は目の前に転がる絶望を悟った。
 数秒前まで火照った頬に触れていた手のひらが急速に温度を失っていく。
「好きだったよ……」
 さよなら、初恋。真昼間の空に、大好きな名前の色は見当たらなかった。


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