#3

 歩ける? と訊くと、舌っ足らずで危なっかしい返事がきたので、周りに誰もいなくなったのを確認してから、自分の背中に乗るように促した。おんぶなんてと嫌がると思いきや、彼は大して気にすることもなく、その体重を預けてきた。あまりの素直さに、よほど体調が悪いのかと旭は顔を青ざめさせたほどだ。
「あさひさんーー」
「な、なぁに。吐きそうとか? 大丈夫?」
「……そんな病人扱いしないでくださいよ。おれはいつも通りですってー、ほらほら!」
 そう言って背中の上で暴れようとする西谷。とんだ酔っぱらい、もとい恋人だ。だけれども、彼の幼子のような気の抜けた姿もなんだか可愛いと思えてしまう。この場合、病人は間違いなくこちらだ。
「わー! 暴れないで、西谷! 落としちゃう」
「あさひさんは力持ちなのでだいじょーぶです」
 口調が幼い。これはかなり酔っているようだと判断して、旭は身体を揺らさないようにしつつ、わずかに歩くスピードを速めた。勿論、少し俯いてだらしなく緩んだ口元を隠すことも忘れなかった。




「西谷〜、着いたよ? 鍵貸して」
「んんー、かばんの外側のポッケ」
 彼は背中で揺られているうちに寝てしまっていたらしく、後ろ側からは寝ぼけたような声が聞こえる。
「一回降りようか」
「んー」
 西谷を背中から下ろし、手に持った荷物から目的の鍵を取り出す。
「開けるよ」
 寝ぼけているらしい彼に一応断って、鍵を鍵穴にさす。そこでようやく旭は、こんな時間に彼の家へ来るのは初めてだったと思い出した。しかも二人っきりだ。
 先ほどまでは彼のことが心配で余計なことを考えていなかったから平常心を保てていたけれど、意識してしまうと唐突に緊張してきた。そのせいか手汗ですべってうまく鍵を開けることができない。
「はやく〜、あさひさん」
「あ、ごめんね」
 いつも以上の時間を掛けて、なんとか任務を完了させた。ほっと一息ついて扉を開くと、彼に室内に入るよう促す。けれども彼は何故か足を踏み入れようとしないので、仕方なく彼の手を引いて一緒に入った。
「おじゃましまぁす」
「……こっち」
 眠気も酔いも覚めつつあるのか、先ほどよりもしっかりした足取りで西谷が歩みを進める。旭は勧められるまま、彼の部屋に入った。


 きちんと扉を閉めて振り返ると、もっと遠くにいると思っていた西谷がすぐ後ろにいた。驚きと焦りの入り交じった感情が胸の内を占めた。けれどもせめて声だけは冷静さを保とうと、ゆっくりと唇を開いた。
「どうしたの西谷?」
 大丈夫? と尋ねようとした言葉じりは彼の言葉に被せられ、そのまま発されることはなかった。
「旭さん」
 いつもと同じように名前を呼ばれただけなのに、無性に胸の奥がざわついた。
「俺のこと好きですか?」
 いつも直球な彼はいつになくストレートだ。酔いが彼をそうさせるのか。真実は旭にもわからない。
「も、勿論」
 少し緊張しながら答えた。
「俺も旭さんが好きです。じゃあキスしてもいいですよね」
 え? と言葉の意味を理解する前に腕を引かれて、顔を寄せられた。
 目の前にあるのは、瞳を閉じた西谷のアップ。あれ、意外と睫毛長いんだ、肌もすべすべだなぁ、と月並みの感想を抱いた。薄く閉じられたまぶたが綺麗だった。
 そこから数秒遅れて、唇に感じる温かさを自覚して、ドキリと心臓の奥のほうが飛び跳ねた。それは驚いたからというだけではなく、いわば恋のときめきとでも言おうか。そしてさらにその奥にあるのは、目の前でうっとりと瞳を閉じている彼には到底言えるようなものではない生々しい感情。今すぐに無茶苦茶に彼を自分のものにしてしまいたいという思いが頭の端を過ぎった。しかしながら、これは彼が今、知るべきことではない。
「旭さん、ドキドキしてくれました?」
「へっ!?」
 唇が離されて唐突に問いかけられる。またまたまっすぐな視線が旭を雁字搦めにした。旭の動揺とは裏腹に彼の唇はもう一度動き始める。
「……だって旭さん、いっつもすげぇ優しくて、それでいて頼りになって……ドキドキさせられてばかりです。ずるいんです! 俺にもドキドキしてください!」
 吸い込まれそうなほど大きな瞳の中に自分の姿が映っているのが見えた。それは今、西谷が見ているのと同じ景色なのだ。その奥で見え隠れする感情を丸裸にして、まるごと食べてしまいたいと思った。
(あぁ。その言葉、そのまま西谷に返したいよ)
 そんな気持ちは口に出すことなんてできなくて、旭はただ曖昧に笑うしかない。
 けれどもそれを見た西谷は焦れったくなったのかもしれない。
「……それと」
 茶褐色の瞳に夢中になっていた意識を彼の声が現実に引き戻す。
「ん?」
 旭が続きを促すと、西谷は彼らしからぬ態度で視線を空中で彷徨わせている。
「俺が誘ってもぜんぜん気が付いてくれない……!」
「え」
「家に誘っても、用事があるって帰っちゃうし」
「そ、それは」
 うらめがましい視線が突き刺さる。
(だ、だって西谷の部屋だよ? 一週間前くらいから心の準備をしてなきゃ来れるわけないじゃん)
「キスねだっても、ちょんって触れるだけだし」
「うっ」
(小動物みたいに見上げる西谷が可愛くてムラムラするから、なんて言えない……!)
「男らしく俺のこと襲ってくださいよ!」
 そんなお前の方がよっぽど男らしいよ、と旭は思う。でもそれがたまらなく可愛いことも自覚してほしい。俺だって男なんだから、と誰に言うでもなく心の中で言い訳をする。
「……襲っていいの?」
「どんな旭さんでも俺は好きで……んん」
 知らない、知らない。西谷が誘ってきたんだから。
 壊しちゃいたいくらい大好きで、でも絶対に傷つけたくないくらい大切な恋人にそんなことを言われて、いつものように冷静でいられるほど自分はジェントルマンでも気弱男でもないことを彼は知っているのだろうか。
 いつもみたいな優しいキスじゃなくて、少し強引なそれ。本気なんだよって伝えるため。それでも西谷はぎゅっと握ったシャツを離すことはない。きっと腕まくりした自分のカッターシャツの折り目はしわだらけになっているだろう。それもそれで良いかもしれない。
 小さく開いた唇の隙間から舌を忍び込ませて、綺麗な歯列を順になぞる。舌を絡ませ合えば、わずかにラム酒の香りが鼻を通って、こちらまでほろ酔いした気分になってしまう。実際にお酒を飲んだことはないけれど。
 舌を擦り合わせ、彼の味を堪能した。薄目を開けて彼の表情を盗み見すると、それはまさに絶景とでも言いたくなるものだった。
 さっきの口づけのときとは違って、今度はぎゅっと固く目が閉じられている。眉をわずかに下げ、キスに夢中になっている様はなんともいじらしい。自分よりいくらか色白な肌はほんのりと上気し、目線を下げれば淡い薔薇色に染まる頬が見えた。
 吸いつくような弾力から離れると、途端に淋しい気持ちになる。離れた唇が名残惜しくて視線はそちらを追いかけてしまいそうになるが、琥珀色の宝石が視界に入って旭の両目は自然とそちらに向いた。
「……俺、力強いから西谷のこと壊しちゃうかもしれないよ」
 逃げるなら今だよ、と年上の余裕を見せようとしたのに、実際に出した声は明らかに不安です、という心情を鏡写しにしたような声色なのだからなんとも耐え難いものがある。やはり自分はワイルドとはほど遠いらしい。

「言っとくけど、俺はそんなヤワじゃねぇっす」
 ーーそれにアンタになら壊されても良い。
 小さく彼が言ったその言葉を聞き逃すわけなどない。だって西谷の声なんだから。
「ははっ、西谷はかっこいいね」
「旭さんも俺にかっこいいとこ見せてください」
 ぷいっと明後日の方向を向いてしまった恋人を見つめつつ、思わず髭を親指と人差し指で撫でまわした。
「……ったく、言ってくれるねぇ」
 旭は彼を軽い仕草で抱き上げ、ベッドに運んだ。そして西谷の身体に覆い被さると、先ほどから自分を待っているかのように輝いているその桃色の花びらにそっと唇を寄せた。では手始めにその可愛い口から封じてしまおうか。


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