舟廻問屋かいせんどんやの当主?」

「そうだ。クリスティナたちが好んでいる麝香じゃこうを扱っている商家だ」

宴会に使う皿も扱っている、と引付座敷ひきつけざしきに入る直前にティエリアに耳打ちされた。初会の客はまず引付座敷と言われる部屋に通され、杯を交わすのが通例である。祝言を模したもので男女の婚姻を象徴するものだった。

「名前はニール・ディランディ。君の初めての客だ」

「そんなことは分かっている」

「刹那、最初の客というのは大事にしないといけない」

始めが肝心だ。初会で愛想を付かされるのは恥になる、という脳内でティエリアの言葉を反芻しながら、猪口を手に取り酒に口をつける。酒独特の香りが鼻についたが、ぐっと堪えて一気に飲み干した。

「ああ、それと酒が苦手だと言っていたな」

水を入れた酒器を用意させてあるからそちらを使うと良い、と硯蓋に乗せられた酒器を指差した。以前飲んだ際に酷く酔ってしまい手に負えなかったことがあるのでそれ以来過剰に酒を与えるのは控えることになっている。

しかし客の手前で飲まないわけにはいかないからとりあえず一口目だけは飲むことを薦める、と言ってそのまま引き下がってしまった。嚥下したものの、口内に残る酒の味はやはり好きになれなかった。不快に感じるその味を掻き消そうと、水を流し込んだ。



初会で愛想を付かされるのは恥になる―という言葉が刹那の頭の中でグルグルと蠢いている。何故かこの男からは他の客がもつ、女を抱こうという意思や雰囲気が感じられないからだ。こうも興味がなさそうに居られると不安になる。客がこういう態度を取るのには何か意味があるのか?と勘繰るが如何せん経験がない分、刹那はどうして良いのか、さっぱり分からない。

引付座敷ひきつけざしきからまわし部屋に移って来てからというものニールはずっと座り込んで刹那に触れようともしないのだ。妙な空気が流れる部屋の中、二人は微妙な距離を保って座っている。

「お酒、注ぎましょうか」

「いや、大丈夫だ。足りてるよ」

酒器に手をかける前に断られてしまった。宙に浮いたままの手をおずおずと引っ込めて、居心地の悪さを誤魔化そうと座り直した。しかし居心地が悪いのはニールも同じだった。刹那の遊女らしくない佇まいに惹かれて指名をしたが良いが、いざ二人きりになると抱くことがどうも躊躇われた。どうしたもんか、と悩んでいると刹那が小さく呟く。

「自分は何か、してしまったのでしょうか」

気がつかない間に彼の気分を損ねるようなことをしてしまったのだろうと、眉間に皺を寄せた。初会こそ慎重にと念を押されたというのに、刹那は不甲斐なさを悔やんだ。がっくりと肩を落として落ち込む様子を見たニールは少し焦ったように言葉をかけた。

「そんなに落ち込みなさんな。お前さんが何かやらかしたわけじゃないんだ」

「ならば何故そんな態度を取るのです…」

「え、あー…」

「直せるところは直してみせます」

仰って下さい、と刹那に促されたニールは暫し考え込む。本音を言っても良いものだろうか。じっと自分を見据える赤い瞳に嘘は通じなさそうだと思い、遊女に、刹那に壁を作っているその本音をぽつりと言った。

「…女郎ってみんなそういう喋り方なんだよな」

こう、ちょっとへつらってるというか、とニールは付け足した。

「…苦手、なのですか」

「そうだな、あまり好きじゃないかな」

ニールの控えめな言葉に、僅かの間逡巡したがすぐ彼の方へ向き直る。

「そういうことなら、普段通りに喋る。貴方が嫌でないのなら」

嫌なことをしていても埒があかないと思ったのだ。興味を持たない理由がはっきりしているなら止めてしまおう、と。なにより刹那もこういう言葉遣いが好きではなかった。ばれたらクリスティナに怒られてしまいそうだが、それは置いておくことにしようと刹那は決めた。

「ああ、そっちの方が気楽で良いかな」

表情が明るくなった。この男の笑顔を見るのはこれが初めてだ。その笑顔を見て余裕が生まれたせいで刹那自身も気分がだいぶ落ち着いてきた。

「将棋でも指そう」

「意外だな。皆指すのか?」

「好き好きだが、多少は」

「へえ、楽しみだ」

「でもそんなに強くない…」

「そりゃやってみなけりゃ分からないだろ」

将棋盤を持ち出して向かい合って漆塗りの駒箱を持ち出した。どことなくだが、部屋の空気が少しだけ軽くなったような気がした。さっきまではこちらを見向きもしなかったニールが自分と向き合って将棋を指そうとしているのだ。

少し距離が縮まって安心するが、夜が明けるまでこの状態だと遊女としてあってはならない失態を演ずることになる。それだけは避けないと、と駒を盤面に並べながらニールをちらりと盗み見る。幾分かは表情が柔らかくなっていると感じた。

「お前さんが先手だ」

「わかった」

パチリ、と駒が盤の上に指す音が部屋に小さく響いた。



「…負けた…」

遊女が将棋を指すという光景はなんとも釣り合わないものだと思った。男を惑わすような色っぽく綺麗な着物に身を包んだ遊女が盤に向かい、駒を指す。しかも強いと来た。この食い違う印象に少々驚きながらもこの遊女に興味が湧いてくる。

「お前さん、案外強かったぞ」

「本当か?いつもはクリスティナにも勝てないのに」

盤面をじっと見つめてうな垂れていた刹那が目を輝かせながら顔を上げる。負けたことが悔しいのは分かるが、それ以前に客相手に本気で勝つ気でいたのか、とツッコミたくなった。客に勝たれてうな垂れることはないだろう。

「中盤の読み間違えがなければいけたんじゃないか?」

「なるほど…」

「ま、玄人でもない俺が講釈たれるのもなんだけどな」

「いや、強いと言ってくれて嬉しい。ありがとう」

遠慮気味に、にこりと笑う刹那がいやに美しく見えた。花簪がしゃらんと音を立てて揺れ顔に影を落とした。彼女がほんの少し見せた隙のようなものに慈しみのような感情を持ち、守ってやりたいような気持ちになった。それくらい刹那が儚く映ったのだ。

「…っ。なあ、厠はどこにある?」

「部屋を出て左に曲がるとすぐだ。案内しよう」

「いや、大丈夫だ。ありがとな」

襖を閉じて部屋から離れて、そのまま床にしゃがみ込んだ。厠に行きたい、なんていうのは真っ赤な嘘だ。ちょっと一人になる時間が欲しかっただけで、部屋を出る口実だった。先ほどの刹那の笑みが頭から離れない。

「…くそ…可愛いじゃないか…」

遊女らしくない。それで興味を持った。雰囲気や態度がベタベタと粘っこいものではなく、清々しいまでに媚びとは無縁のその振る舞いがとにかく気を引いたのだ。勿論、これ以前に登楼あがったことなど一度もなかったから、『遊女らしくない』というのは想像の域を出ないのだが。

「さて、どうするかなあ…」

登楼ったからにはやはり抱かなければならない。この期に及んで何を言っているんだと頭を抱えて悩むが事態は好転もしなければ悪化もしない。俺も愚図だな、と自嘲してはあ、と深く溜息を吐く。もううだうだ考えても進まない、成り行きに任せるしかないかと半ばやけくそになって開き直った。厠に行って来たように見せるために頃合を見て、襖を開けた。

刹那はこっちに顔もくれず、黙々と将棋盤の上に駒を並べている。背丈がまばらな駒がずらりと整列している様子は少々可愛らしい。その列の一番手前の駒をちょん、と指で押すと涼しげな音を立てて駒が倒れて行った。

「何やってんだ」

「将棋倒しをしている」

集めた駒を再び将棋盤の上に並び始めた刹那の隣に座り込んだ。興じる姿が幼子のように無邪気で可愛らしく見えた。無論、表情にそれは表れていないのだが。付き合ってやろうじゃないのと駒を一つ取って、列の一番初めに置いた。

「これ一直線じゃつまらないだろ」

「え?」

「途中で曲げれば動きがあって面白い」

列の途中を枝分かれさせて円を描くように駒を並べ、淀みなく倒れて行くのを見て刹那は感嘆の声をあげて喜んだ。盤ににじり寄って駒をまた並び直して楽しそうに遊んでいる。

「じゃあここも曲げてみる」

「よし手伝ってやるよ」

「あとこっちも…」

「いや、そこやったら落ちるんじゃないか?」

小さな盤の上で細かい作業をしているうち、刹那の肩がニールの胸板にぶつかる。ハッとして顔を見合わせてしまう。翡翠と赤の瞳に互いが映りこむ、その距離に驚いて声をあげたのは刹那だった。

「あっ…」

顔が、近い。パッと離れていった刹那の、心なしか紅潮した頬が見えた。戸惑っているような表情に照れを感じたのだ。その表情が堪らない。

あ、好いな。

そう思うやいなや、ニールは刹那の細い手首を掴んで自分の懐に抱きこんだのだった。


まわし部屋→花魁など以外の自分の部屋を持っていない遊女が客を取った時に、迎え入れる部屋のこと。大抵の遊女は廻し部屋を使った。