満月が見下ろす月夜、吉原の夜は賑わう。既に男たちが遊女たちを品定めするように張り見世の前に寄り集まっている。朱塗りの格子の高級そうな惣籬そうまがきがニールの目を引いた。

その格子の向こう側には遊女たちが並んで、一部の遊女は外にいる男たちと談笑をしていて時折甲高い笑い声が聞こえてくる。客の男たちは上等な着物を着ている者が多く腰に刀を差している男も数人見られた。身なりや言動から見て留守居役るすいやくのようだ。客の層から見ても最上屋の格が高いということが一目でわかる。

「ティエリア。見世番みせばんに取り次いでくれ」

「もう慣れているのだから自分でしたらどうです」

「俺は客だぞ、一応」

「どうぞご自分で」

「…っち。おい、見世番のにいちゃん」

ティエリアのつれない態度と突き放す口調に痺れを切らしたハレルヤは渋々入り口まで行き、遊女を指名した。すげなく断られたのが面白くないようで、入り口からティエリアを睨んでいる。元々目つきがあんな感じだからちょっと眉を吊り上げるだけで厳めしい表情になってしまう。

「しかし人が多いな」

「半分以上は見物人です。物色して、そのまま流れていきます。しばらく経てば」

きゃあ、という遊女の声がティエリアの言葉を遮った。男が格子越しに遊女にちょっかいを出して遊んでいるのである。遊女は格子の隙間から手を出して男の袖を掴んでいる。白粉を塗った遊女と大店の旦那がじゃれあいながら談笑をしている、この場に漂う独特の雰囲気は淫蕩そのものだ。酒宴で浮かれ、遊女と閨事に耽る。現を忘れて耽溺する、噎せ返るような甘ったるい匂いが充満しているようだった。

「どうも好きになれないな」

「え?」

「いやなんでもない」

こういうことに興味がないわけではない。ニールは、この吉原全体の雰囲気が苦手だった。宴会のどんちゃん騒ぎに酒に浮かれた笑い声、婀娜っぽい生々しい女の匂いに湿っぽい言葉のやり取り、それに昂ぶった男たちが遊女たちを射るように眺めている空気が、好きになれない。

この大店の旦那の表情もそれを取り巻く見立てをする連中もそれに変わりなかった。正直なところ今すぐ帰りたい気持ちでもあったが、ハレルヤがいる手前それも出来ない。仕方ない、今回だけだとニールは登楼る決心をした。真横で騒ぎ立てていた男が去ったので、ふと視線を横に逸らした。

と、その赤い格子の向こう、意思の強そうな石榴色の瞳とかち合った。異国的な肌の色と緑の黒髪が遊女の中でも異彩を放っている。優雅に座っている周りの遊女たちとは違い、その場に小ぢんまりと座り込んでいる。

目の色と合わせた着物の襟からのびる首筋が、細い。膝の上に置かれている袖口から覗く指も、ほんの少し力を入れて握ったらポキリと手折ってしまいそうなほどに華奢な体をしている。どこか、吉原に似つかわしくないと思った。力強い目からは媚び諂う様子は伺えないのだ。

ニールは、この少女から目が離せなくなった。



目が離せないのは刹那も同じだった。

「小蝶、久しいね」

「あら旦那様!」

隣で戯れている遊女を横目に、刹那は居心地の悪さを感じた。新造の自分を物珍しげに眺める客の視線が痛く、顔を上げているのが辛く下を俯いていると、ふと何か視線を感じた気がしたのだ。何の気もなしに顔を上げた先、目の前にいたのがこの青年だった。

初めて客を取ることもあって張り見世の一番前に座らされていた刹那は、この青年との近さに驚いた。ちょっと手を伸ばしたら体に触れるほどに近い。青年の綺麗な茶色の柔らかそうな髪の毛に整った顔立ち、翡翠の瞳に吸い込まれそうになる。

客の話す声や吉原の喧騒、遊女たちの笑い声が霞んで聞こえるような気がした。駈けずり回る妓楼の奉公人たちの動きがゆっくりして見え、世界でこの青年と自分だけが動いているようなそんな錯覚を覚えた。

「ニール、俺は先に登楼あがるからな」

突然かかった声に青年は刹那から目を離し、妓楼の入り口を見遣った。つられて刹那もそちらを見ると、左目を隠した青年が暖簾をくぐろうとしているところだった。あれは呉服屋の双子のもう一人だ、と刹那は思い出す。先日見た弟と本当によく似ている。少々目つきが鋭い兄の方で、身振りも豪快だ。「気が付かなかった?」とクリスティナにからかわれたのもわかる気がした。

「ハレルヤ!?」

「あとはティエリアに任せた。じゃあな」

「言われなくてもそのつもりです」

ヒラヒラと手を振り、好みの遊女と話しながら妓楼の中へ入っていったハレルヤは先ほどと違い気分が良いらしい。二階へ通ずる階段を遊女の肩を抱きながら上がっていった。

「…?刹那が気に召しましたか」

自分の名前を呼ばれて青年の方へ向き直ると、先と同様じっと自分を見つめている。あまりにじっと見られるので、気恥ずかしくなって思わず顔を背けてしまった。客から視線を逸らすなどあってはならないことだ。他の遊女のように客に自分を売り込まねばならないのに、それが出来なかった。恐らくこの青年は他の妓楼に流れてしまうのだろう。刹那は小さく肩を落とした。

「ああ、頼む」

頼む?反射的に顔を上げた刹那は青年を見上げた。相変わらず翡翠の瞳はこちらを見据えている。その瞳に、平静でいられず何故か思い乱れる気持ちになった。

「見世番に伝えてきましょう」

そういうとティエリアは妓楼の入り口で出入りする人を見張っている若者に取り次いだ。顔を背けてしまったのに、何故。

「刹那、支度を」

間もなく見世番の青年にそう声をかけられて、張り見世を出て板の間で青年を待つ。顔には決して出さないが刹那は不安でいっぱいだった。初めての客だ。

「――――っ」

ついさっきまでは客を取れることにほんの少しの安堵感があったというのに、唐突に怖くなった。自分もとうとう、苦界に身を投じるのだ。年季明けは果てしなく遠い。禿の間に、運良く健康体で年季明けをした遊女は数えるほどしか見なかった。

大きな病気をすることもなく年季を明けて自由の身となるのは偶然の幸運だと言って良い。ここは一生這い上がれない、奈落の底。差し込む希望などない。常に闇夜だ。吉原を出ることさえ夢のまた夢、叶うことがない夢を見続けるだけだった。その夢のために悲惨な最期を迎えた遊女はたくさんいた。

―自分の末路もきっとそうなのだろう。

これから体験するだろうことに思いを巡らせるが、結局意味のないことだった。どう転がるかなんて自分自身ではどうにも出来ないのが吉原だ。一晩に複数の客の相手をしなければならないかも知れないし、客が取れずにお茶を挽く状態になり折檻を受けるかも知れない。

遊女に出来るのは客に媚を売ることだけだ。媚び諂って愛を語り、客に甘い一時を過ごさせる。しかしどんなに媚を売り、愛を語ってどう足掻いても所詮は運任せなのだ。努力でどうにかなる世界ならもっと浮かばれて良い遊女が山のようにいる。努力が水の泡と消えるのが至極同然。華やかさと無情さは表裏一体だ。刹那の中に最終的に残った感情はただ単に、おぞましい。それだけだった。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

暖簾をくぐって入ってきた青年の顔を見て、刹那は自分の感情を押し込めて恭しく頭を下げた。


惣籬そうまがき→妓楼の入り口と張り見世を仕切る格子のこと。妓楼の規模によって形が異なるので客がその妓楼の格を知ることが出来た。
留守居役るすいやく→諸藩の対外折衝役。職業柄、接待交際費を制限することなく使えたので妓楼にとっては嬉しい客だった(らしい)。
見世番みせばん→妓楼の入り口にいる若者。遊女を見立てている客に名前を教えたり指名を取り次いだりする。