夕刻のもう陽も暮れようかという頃、城郭風の壮大な建築の立派な屋敷の中に我が物顔で入っていく青年が一人。大きな商家の屋敷にずけずけと入っていく左目を長い前髪で隠している青年の顔を見ても誰も気に留めない。この屋敷の主の友人であると皆知っているからである。暖簾をくくり土間に入るとすぐ真正面の板の間で小さな机に向かってせっせと筆を走らせる男に声をかけた。
「よーう、元気にやってるかぁ?」
自分に声をかけられていることに気がついた青年―ニール―はパッと顔を上げて声の主を見て笑った。
「よおハレルヤじゃねえか!久しいな」
「ちょいと出ねえか?」
「いいぜ、ちょうど仕事も片付いたことろだ」
筆を硯に置きそそくさと立ち上がったニールは近くにいた奉公人にちょっと出かけてくる、と声をかけて土間を出る。ニールと、呉服屋の双子・ハレルヤとアレルヤは幼い頃からの顔馴染みでよく遊んでいたが家を継いでからというものこうやって顔を合わす回数もめっきり減ってしまったのだ。
「で、どこに行こうってんだ?」
「色里」
女遊びのことならハレルヤに聞けと言われているほどの男だ。夕刻にわざわざ誘いに来て、ハレルヤ直々の声かけだったのに目的地がそこだと察することが出来なかった自分が恨めしい。しかし久々に会ったかと思えば突然女遊びに誘うなんて。怪訝そうな顔をするニールにハレルヤは鼻で笑ってこう言い放つ。
「んな顔すんなよ。女の一人や二人くらい抱いたことあんだろうが」
「しかしな…」
「女遊びは男の甲斐性だ。今遊ばねえでいつ遊ぶんだよ」
ごもっともなことをいうハレルヤにニールはすっかり閉口していしまい、結局吉原まで足を運ぶ事になった。
「吉原、登楼ったことくらいあるだろ?」
「いや、仕事で行ったことがあるだけで一度も」
「ないのかよ」
冗談交じりに言ったハレルヤはニールの返答に目を剥いた。一度も登楼ったことがない奴なんかこの世になるのか、と大袈裟に反応してみせたのだ。その反応にニールは少々バツが悪そうに頭を抱えながら反論する。
「別に良いだろ、登楼ったことがなくても」
「いやぁ…お前、人生損してるぞ」
今からでも遅くないから通えって、と何故か女遊びを勧めてくるハレルヤを呆れ顔で見返した。吉原への道中、行き着けの妓楼のこと以外に仲の町にある飯処の定食が美味いだの、珍しいものを売る小間物屋のことで盛り上がり話は途切れなかった。
「相変わらずでかいな、ここは」
「仕事で来たってのはいつの話だ」
「確か三ヶ月くらい前だったかな…っておい」
大門を潜り妓楼へ向かうかと思いきや、ハレルヤはそのまま仲の町を真っ直ぐ歩いていく。
「どこ行くんだ」
「引手茶屋だよ」
「引手茶屋?」
大見世に登楼るためには引手茶屋を通さねばならないのが常識である。妓楼に比べると規模は小さいが、豪奢な造りで仲の町に軒を連ねる引手茶屋は全て二階建てだった。大見世は、引手茶屋の案内がない客は受け入れない。直接出向いても門前払い食らうのが常だ。逆に中見世や小見世は引手茶屋を通さず直接登楼することも出来たが、引手茶屋を通した方が上客として歓迎されるのだ。
「ったく常識だろ」
「吉原で遊び呆けてる奴の常識なんざ知らねえよ」
お前仕事してんのか?という問いかけに、ハレルヤには都合が悪くそそくさと引手茶屋の中に入って行った。今日も半ば仕事を弟のアレルヤに押し付ける形でニールに会いに来たのだ。「僕は憂鬱だよ」と独り言を言いながら仕事をしているに違いない。
「見知った人がいると思ったら、君か。ハレルヤ」
「お、ティエリアじゃねえか」
「知り合いか?」
「以前は彼に反物を売ってもらっていました」
吉原に反物を売っていたのは彼だったが女遊びに走ってしまったので今は双子の弟のアレルヤが売りに来ている。今ハレルヤは主に庶民相手に反物を売っている。その仕事をサボっていることをニールは知らない。
「仕事にならなくてアレルヤと換わって貰ったのか。情けない」
「違ぇよ。換わってやったんだ」
「よく言うぜ」
「君が友人を連れてくるのは珍しいな」
「こいつは舟廻問屋の当主だよ。名前くらい知ってんだろ」
ティエリアはニールの店の名前を聞くなり居住まいを整えて頭を下げた。舟廻問屋といえばこの辺りでは有名は貿易商家で、長崎辺りでしか手に入らないものを江戸で手に入れることが出来る唯一の商家だ。
「いつも大変お世話になっております。宴会に用いる陶磁器や珍しい茶葉も使わせていただいていますし、特に麝香は女郎たちから評判が良い。質の良い品ばかり、感謝いたします」
「そうか、そいつは良かった」
ハレルヤの「口調と態度が変わりすぎだろ」と揶揄されたがティエリアは鋭い目つきで「五月蝿いぞ黙れ」と一蹴した。元は呉服を売りに来ていたとはいえ、女郎にちょっかいばかりを出すハレルヤに対して彼の態度は冷たい。
「で、その舟廻問屋の当主が直々に何故こちらに」
「馬鹿か。登楼るために決まってんだろ。見れば分かることをいちいち聞いてくるんじゃねえよ」
「馬鹿は君だ。大見世の女郎を所望で?」
「あ、ああ。そのつもりだ」
一応妓楼側の人間と客の会話なのだが、ハレルヤとティエリアの雑言の掛け合いが気になって仕方ない。こうまで悪態を吐き合えるのは逆に仲が良い証拠なのだろうか、とニールは心の中で考えた。
「というか俺らはお前んとこに行こうと思ってたんだよ。ちょうど良いじゃねえか。ここの女将に事情話してこのまま連れて行ってくれよ」
なるほど、とティエリアは腰を上げた。
「そうだな、僕が案内しよう」
ティエリアはハレルヤの申し出を飲み、引手茶屋の女将の案内を断り二人を引き連れ妓楼へ足を運んだ。陽は沈みきってしまい、空は濃紺色に染まっていたが仲の町の行灯は煌々と光って明るいままだった。
・登楼る→遊女を指名して登楼すること。妓楼にあがることを指す話し言葉。