吉原は不夜城である。

そう呼ばれるのは、豪華絢爛たる衣装を身に纏う花魁、闇夜のもと賑わう光景が華やかであったことに由来する。また夜明けまで、たそや行灯に灯がともっているのも一つの要因でもある。

不夜城、吉原の中央部を真っ直ぐに貫く仲の町から、木戸門を入ると、それぞれの町の表通りである。両側に大小の妓楼が軒を並べている。その表通りの中央部、たそや行灯と交互に設置されているのが用水桶である。火事に備えて常に用水桶に水を満たしておく責任があった。

刹那の朝一の仕事は用水桶に水を注ぎにいくことだった。五ツまでには床を出て奉公人たちと共に仕事にかかる。客を取っていた遊女たちは、刹那がまだ寝ている間に客を送り出していたのでまだ夢の中だ。彼女たちが起き出すのは四ツになる辺りである。取っ手のついた桶に水を並々注ぎ持ち上げた刹那は慎重に運び出す。

華奢な刹那の体にとってはかなりの重労働であったが、怠けることを許されない仕事だった。『最上屋』と妓楼の名称が掲げられているため、責任重大なのだ。用水桶に水を満たしきり、刹那は一息ついた。

女衒により、幼くして吉原に来た刹那は家族のことはほとんど覚えていない。物心ついた3時には、既にここにいたのだ。この妓楼の環境が自分にとっての全てであった。妓楼へ来たばかりの頃の記憶はまばらだが、女衒に連れてこられ身売りされた時のことだけは妙に鮮明に、しっかりと覚えていた。子供ながらに解っていたのだろうか。ずっとここに居なければならないのだと。

「……………」

空の遥か上空、ゆったりと飛んでいる鳥を見てぼんやりと考える。こんなことに思いを巡らすなんて、らしくないと刹那は自分で思う。覚えのない故郷に思いを馳せるだけ無駄だといつしか考えることをやめた。用水桶に蓋をしながら、皆が起きてくるまでにまだだいぶ時間がある。何をしていようかと思念していると、背後から聞き慣れた落ち着いた声で挨拶をされた。

「お早う、刹那」

桃色の髪の毛に、きりりとした目元。少々大人しめな雰囲気の少女が立っている。手にしている風呂敷の中には何着もの着物が入っているようでずっしりと重そうだ。

「ああ、お早うフェルト」

少女の名前はフェルトという。人見知りをするらしく、出会った当初は近付きがたい印象を受けたが今ではだいぶ親しい仲となった。彼女の趣味は読書らしく、色んな事を知っていた。ここへは着物の修繕などのお針の仕事で通っていて、腕が非常に良いので仕事がよく舞い込んでくる。

「朝から精が出るね」

「フェルトも。他の妓楼にも寄って来たんだろう?」

「着物がないとみんな困るから」

急ぎの仕事はもう終わったから今日は少し余裕があるの、と刹那の問いにフェルトは控えめに笑った。この小さな微笑みが刹那は好きなのだ。そしてまだ一緒に居られる時間があると思うと心が躍るようだった。

「はい、これ。頼まれたスメラギさんの着物」

「ああ、あの裾が解れていた…」

「そう。裾以外に襟のところも少し補強しておいたの。着て違和感がないか、スメラギさんに聞いておいて欲しいな」

「わかった」

手渡された風呂敷はやはり重たい。豪奢な着物を繕う姿を見たことはないが、頼んだ着物はいつも元通り綺麗になって戻って来た。フェルトは凄い、といつも刹那は思っていた。遊女たちに教養はあったものの、裁縫などは全く出来ないため、ちょっとした着物の解れを直すにもこうしてお針に頼まないといけなかった。

「ああ〜、聞き覚えのある声だと思ったら、フェルト!」

遊女の部屋がある二階の出格子から顔を出したのはクリスティナだった。二人が表通りにいることを確認したかと思ったらすぐさま出格子の奥に引っ込んでしまった。着物を調えながらバタバタと忙しく一階まで下りてきて「刹那おはよう!」と言い、のしっと勢い良く刹那に抱きついてきた。

クリスティナは刹那より少し年上の遊女で、妹のように可愛がってくれている。現に今も抱きついて来たと思ったら頭を撫でながら「可愛い可愛い」と言って幸せそうに笑みを浮かべているのだ。着物はまあまあ整ってはいるが、寝起きのせいで垂れ目の目が余計に垂れ目に見える。亜麻色の髪もまだ整えられていない。締まりのないクリスティナの様子にフェルトは思わず噴き出した。

「みんなで甘味食べに行こう?」

ついさっき、スメラギさんがみんなで食べておいでってお金くれたの、とクリスティナは持っていた小銭を二人に見せた。

「もう起きているのか?」

「まさか。お金渡してくれたらまた寝ちゃった」

スメラギの寝起きの悪さは相当なもので、他の遊女達が四ツには起き出して身だしなみをしているが、彼女はその身だしなみが終わる頃になってようやく起き出す。先もお金を渡した途端に布団に沈み込んでしまい、声をかけても反応がなかったそうだ。

「それなら着物を渡すのは後だな。起きる頃に戻って着てもらえば良い」

「着物?」

「襟のところ勝手に補修しちゃったから、一応確認して貰おうと思ったの」

「もう直したの?一昨日頼んだばかりじゃない?」

クリスティナの驚いた様子を尻目に、だってお得意さんでしょ?とフェルトはにこ、と笑った。腕が確かなフェルトは、スメラギによく仕事を任される。その縁で刹那とクリスと仲良くなったのだ。このように良くして貰っていることもあるため、彼女からの仕事を優先させている。

「ありがとう、フェルト」

ほのぼのとした雰囲気から一転、刹那とフェルトはクリスティナに背中をぐいぐい押されながら甘味処に行き着いた。吉原には様々な商家があり、商人や職人から芸人に至る多種多様な職種の人々が暮らしている。吉原の商家が集まる区画の中で、衣食住の全てを賄えるのである。甘味処も例外ではない。

「何が良いかなあ」

餡蜜、お汁粉、お団子どれにしよう!と熱を上げるのは一番年上である筈のクリスティナだ。みたらしにしようかな、草団子にしようかなと、独り言を言っている。一番年下でしっかり者のフェルトも、喜びを体現する彼女に即発されたのかどこか気分が高揚しているようにも見える。

「刹那は何にするの?」

「そうだな…」

甘味を口にするのは久方ぶりでどれも美味しそうで迷ったが、汁粉が良いと思った。

「俺は、おし」

「刹那、言葉遣いっ」

おしるこ、という刹那の声とクリスティナの声が重なり合った。いい加減自分を俺って言うのやめないと駄目だよ、と釘を刺されたのだ。禿として様々な稽古事をしてきていたが、刹那の言葉遣いだけはなかなか抜けなかった。

「フェルトからも刹那に言って?この言葉遣いを注意して」

刹那の言葉遣いはさっぱりしてて良いと思うけどな、とフェルトはクリスティナの言葉をさらりと受け流した。

「えー、将来の花魁の一人称が「俺」なんて私は嫌だなあ」

「刹那、花魁になるの?」

「……わからない」

「だって、クリス」

フェルトに揚げ足取られた!という一言で三人は笑いあう。この環境下では楽しいことは本当に数えるほどしかないが、辛いことばかりというわけでもなかった。現にこういった日常が、刹那にとっては案外心地良いのであった。


・たそや行灯→屋根形をのせた辻行灯のこと
・五ツ→午前8時頃
・四ツ→午前10時頃