昨日の朝方、楼主ろうしゅのアリーは見世で働く全員を板の間に集めて言い放った。

「これから先は、留守居役るすいやくの武士の出入りが多くなる」

煙管を手に堂々した立ち振る舞い。身振りこそ洒落てはいるがその実、冷酷で野蛮な男だ。客が取れない遊女を物のように扱い、今後使えないと判断するなり吉原から追い出す。儲けと最上屋の繁盛こそがこの男の全てだ。

「幕府が諸藩のお偉いさんを呼び寄せて対外折衝をする。金を湯水のように使う連中ってのは有り難いぜ。つう訳で、稼ぎ時だからお前らには今まで以上に働いてもらうぜ」

一晩に取る客の数を増やすでも居続けをさせるでもいい。ありとあらゆる手練手管を駆使して男を耽溺させろ。客の前では決して見せない悪人面で語気を強めてそう言った。これまで以上に体を酷使することを思うと、心が沈む。遊女の面々は顔には出さないまでも腹の内ではみな嘆いて、憤っていた。

「留守居役のお客さん、少しずつ増えてるわよね」

いつものように三人揃って甘味処で談笑しているとクリスティナが言う。それに対してフェルトも頷く。

「この辺り、昼間でも見かけるよ。着てる物が上等だよね。あと刀の装飾も豪華だからすぐにわかるの」

「そんなに増えているのか」

昼間は営業していない吉原の近くで見かけるということは、本来の営業している時間になればもっと増える。最上屋の前は冷やかしと見物する客で賑わうだろうし、実際に登楼る客も多くなる。

「忙しくなるな…」

「そうね」

嫌だな、と独り言ちるクリスティナは団子を頬張る。その隣でフェルトと刹那は汁粉を啜る。

―幕府が諸藩のお偉いさんを呼び寄せて対外折衝をする。

楼主の言葉を思い出した。雑用や禿の世話で忙しく、後で尋ねようとしてそのままになっていたこと。刹那は、その件の留守居役が何たるかを知らない。

「対外折衝ってなんだ?」

「えーっと、なんだっけ…昨日スメラギさんに教えてもらったんだけど忘れちゃった」

「あらやだ、そんなことも知らないの?」

ネーナが刹那のすぐそばに立っていた。会話に割り込んで来て、三人の顔をそれぞれ品定めするように眺めた。

「っ!」

「ご機嫌よう。呑気に甘味なんか食べちゃっていいご身分ね」

事あるごとに突っかかってくるネーナを快く思っていないクリスティナは彼女を睨む。その一方で刹那は先日のことを思い出し俯いていた。教育と言いながら彼女は無理矢理自分と体を重ねた。居心地の悪さにその場を離れたくなる。

「これから来る客の仕事のこともロクに分からないなんて、遊女の格も品も程度が知れてるってことね」

高慢さが鼻につく言い方ね、とクリスティナは反論するがどこ吹く風で、貶めるだけ貶めてネーナはその場を後にする。

「あんな子こそ、まともな客がつかないわ」

結局対外折衝がなんなのか、言わずに去ったネーナに憤慨している。僅かな憩いの時間を邪魔され、気分を害された三人は言葉少なに甘味を食べてそのまま解散した。フェルトは針仕事と文の遣いで方々へ足を伸ばすという。

「じゃあ、またね。二人とも」

「またね」

「ああ、また」

手を振って背を向けるフェルトが門を出るのを、刹那とクリスティナは見送った。自由に外と行き来できる彼女が羨ましいと思った。





夜半、張り見世に出ていると惣籬そうまがきの向こうに立っている男が自分を指差し見世番と話しているのが視界に入った。今晩はこの客と過ごすのか。俯いていた顔を上げるとそこにいたのは見覚えのある男だった。いつぞやの、卸問屋の会計方の男だ。数え切れぬほどの張り型を手にして下卑た笑みを浮かべている様が思い出された。

「―っ」

息が詰まる。朝まで一睡もできないまま嬲られた箇所はひりついて何日も痛みが続いた。それをまた繰り返すのかと思うと血の気が失せる。嫌だ。この男が心変わりしてくれないかと心底願った。ここにいるのが、誰か別の人ならいいのに。そう、あの人なら。体を置き去りにして思考だけが逃避する。その思考が思い描いたのは、優しそうな碧眼の好青年。

「失礼。彼女は私が指名させて頂く」

その夢想を掻き消すように声が響いた。見世番と会計方の男との間に割って入った金髪の男が通る声で主張していた。控えめながらも豪奢な羽織を身に着け、腰には太刀が差してある。この金髪の男が留守居役であることはすぐに分かった。彼の隣に引手茶屋の廻し方が佇んでいる。

「なんですって。僕は居続けのつもりで来たんだ」

突然の申し出に驚きつつ見世番を前にして自分が如何ほど金を落とす客なのかを訴えている。二度目の指名で居続けする客などそうそうにいないぞ。金の存在をちらつかせて相手に引き下がるよう暗に伝える。できれば見世番の男に助け舟を出してほしかったようだが、客同士のいざこざには首を突っ込まない。自信のなさが漂う会計方に金髪は追い打ちをかける。

「それは結構だ。しかし引手茶屋を通していないのでは?登楼るのが二度目とはいえ礼を欠くのではないかな」

言葉に詰まる会計方の横をすり抜ける。勝負はついた、とばかりに聞き耳を立てて行く末を眺めていた周りの野次馬も目当ての遊女へのちょっかいや物色を再開する。

「ま、待ちなさい!」

「失礼だと言った」

羽織を掴んで引き留めようとする男を一瞥すると、気圧された会計方はその場で地団太を踏むのが精一杯だった。忌々し気に金髪の男の背中を睨んで、すぐさま立ち去った。見世番は金髪の男の申し出を受け入れた。

助かった、と刹那は思ったがこの金髪の男がそれ以上の倒錯者でない確証がない。客が変わっただけで刹那は今晩すべきことには何も変わりがない。暖簾をくぐり対面した男に頭を垂れた。陰鬱な夜が始まる。