深い微睡みから目覚める気怠さはどこか心地良い。雀の鳴く声もいつもより優しく聞こえる。自分だけでは得られぬ温かさに安心しきっていると、布団の中で何かが蠢いた。妙な感覚に目を開ける。目の前には、見知らぬ男が寝転がりながら頬杖をついて、刹那の方を見下ろしている。目を覚ました刹那は、一瞬にして全てを思い出し飛び起きた。

「―ああっ!」

驚きのあまり、自分の口から悲鳴に近いそれを出して布団に寝転がっている男を見る。そうだ、自分は昨晩この男に抱かれたのだ。刹那はニールが何者かを思い出す。彼は舟廻問屋かいせんどんやの当主で、自分の初めての客だ。その彼に抱かれ、激しくも快感に塗れた行為に溺れ、結果として意識を失ってしまいそのまま朝方まで寝ていた。その事実を前に刹那は青褪めた。客を差し置いて惰眠を貪る遊女がどこにいるというのか。

「も、申し訳ございません…!」

有り得ない、なんという体たらくだ。額はおろか、畳にめり込むほどに深々と頭を下げ非礼を詫びた。その様子にニールは目を瞬かせて黙り込んでいる。刹那が謝る意味がわからない、とばかりに笑いながら布団から起き上がる。

「謝るなら俺の方だろ。お前さんの寝顔を眺めてたんだから」

「いえ、おれ…わたしは、遊女としてあるまじきことを…!」

どんなに行為のあとでも、どのような客相手でも、疲れを見せず優雅に振る舞う。早くに目を覚まし、客をもてなす。それが遊女だ。客をほったらかしにして良い身分などではない。己のしでかしたことに戦々恐々としている刹那に対し、ニールはどこ吹く風で全く意に介さない。寝ていただけなのに何故そこまで謝るんだ?と不思議そうにしている。

「ゆ、遊女は、お客様を愉しませるのが仕事です。それなのに、」

女遊びに疎いながらも狼狽する様を見て、刹那が遊女として犯してはいけない失態をしたのだとニールは察した。なんとまあ生きにくい世界だろうか、と少女が身を投じている世界を疎んだ。

「他の客はどうだかわからないが、俺は気にしないぜ」

顔を上げろ、と促され刹那は恐る恐る上体を起こした。ニールの表情からは、怒りの色は窺えない。

「ほ、本当…ですか…」

「嘘を言うわけがないだろ?」

それより直してみせると言った言葉遣いが遊女特有のそれに戻っている、と指摘され手で口を覆った。しばし考え込んで、刹那は肩の力が抜けた。自分を買った男は、遊女らしからぬ自分の行動に全く怒っていないし、寧ろ言葉遣いの方を気にしているし、そもそも理由がわかっていない。

「す、すまない。言葉遣いは、直す」

「ん、それでいい」

遊女らしい振る舞いをするとニールはその都度、指摘して刹那の素の姿を見たいと言った。この男のような客は恐らく稀なのだろう。刹那はそう考えつつ、なるべく普段通りの言動を心掛けた。体を交えるより前にしていた将棋を再び指しながら和やかに談笑し、店を出るニールを見送った。初めて取った客と一晩を過ごした。思いがけない失態はあったもののどうにか乗り越えることが出来たと、気が抜けたあとに刹那は体の変化に違和感を覚えた。

「…穴が空いてる気がする…」

もとより女の体には穴が空いている。が、そこをこじ開けられた感覚を今日まで知ることはなかった刹那にとっては大きすぎる異変だった。自覚したことがいやに恥ずかしく、それを隠すように両膝を擦り合わせた。





「なんてことをしでかしたの…!」
遊女となって初めての夜は大丈夫だったのかと心配してくるクリスティナは、事の顛末を聞いて顔を真っ青にした。事情を話しきるより前に、至近距離に詰め寄られ刹那は壁とクリスティナに挟まれてしまい身動きが取れない。これは説教が始まる、と刹那は腹を括った。

「い、いくら初夜だからってそれはだめよ刹那…!客より後に目を覚ますなんて、人によっては騒ぎ立てて文句を言いつけるんだからね!?楼主ろうしゅの耳に入ったら折檻じゃ済まないこともあるんだよ…!」

遊女は吉原の商売道具だ。商売道具の質が悪いとなれば、やることは決まっている。刹那が最上屋に身売りされるより前、クリスティナは粗相をしでかして折檻を受けた遊女がいたのだと話し始めた。酷い折檻は何日も続いて、最上屋に身を置けないほど体を痛めつけられた末、放逐されそのまま夜鷹になり今は行方を知る者はいないのだそうだ。

「いや、でも、昨日の客はそれを全く気にしていなくて」

「でもじゃない!」

言い訳ではなく事情を説明したいだけなのに、クリスティナは一切聞く耳を持たない。ふわふわとした普段の彼女からは想像できないような怒り方に、刹那は閉口する。

「刹那、わたしたちはね、客と楼主ろうしゅの鶴の一声でどうにでもなってしまう、しがない女たちの一人なの…」

そう言うと、クリスティナは刹那の体をきゅっと抱きしめて頬擦りをする。彼女の声には悲愴さが交じり苦しそうに言葉を吐き出す。今にも泣き出しそうな声で訴える。

「今回はたまたま運が良かっただけなの。首の皮一枚繋がった。それだけよ。二度目はないわ」

お願い刹那。今日みたいなことは二度としないと約束して。どんどんか細くなっていく声に、心が痛んだ。

「わかった。すまないクリスティナ。もうしない」

ぎゅう、と殊更きつく抱きしめられて刹那は息が詰まった。自分にしがみついて泣くクリスティナを見て、離してくれないかと言い出せずに刹那は彼女の背中をさする。もし、昨夜の客がニールでなかったら。想像をするだけで怖気がした。