囚われ


「ねぇ、夢を見たよ」
朝、まだはっきりしない様子の顔で小夜子が言った。上体を起こしただけの、まどろみの中の小夜子は僕じゃなくて、どこか遠くを見ているようだった。
「へぇ」
僕は今の小夜子の雰囲気が小夜子じゃないみたいで少し怖い。けど、それを悟られないように精一杯興味のなさそうな反応をした。僕の方なんかちらりとも見ずに彼女は言葉を続けていく。
「みんなが私のことを『遥』って呼ぶの。だから、私はそれに返事をする。でもね、いつまでたっても姿は見えなくて。…ねぇ、『智』」
「……なんだい?」
昨日までもう一つの名前のように機能していた、今は僕のことを指し示さない名前で、小夜子は僕に呼びかけた。返事をするのはためらったけど、じっとこちらを見つめてくる視線には勝てなかった。
「嫌な夢だった」
「うん、そうだね」
「もう、『遥』じゃないんだよね」
「そう、だね」
小夜子がここに戻ってくるのと同時に、彼女の声に泣き声が混じってくる。目尻に大粒の涙をたたえて。パジャマ代わりのスウェットを思いきり握りしめて。安心していいのか慰めるべきなのか。
「まだ『遥』でいたい」
「僕だって『智』でいられるならそうしたいよ」
「うん」
「でもさ、昨日が千秋楽だから。『遥』や『智』とはお別れだよ」
「暑いほど明るいあの場所も、お別れだね」
「僕ら、昨日で引退だから、ね」
昨日はそんな実感どこにもなかったのに、今は苦しくなるほど現実だった。思い出すあの感覚は、もう思い出の中にしか無いんだ、と思うと、首でも絞められているようだ。
「次の名前はもうないんだよね」
「うん。小夜子に戻ってきたんだよ」
普通の、役者になんてはまらずに過ごしていく人には、なんとも当たり前の、自分の人生だけを生きていくことが、もうすでに僕らには物足りない。「もうない」と言い聞かせる彼女も、「戻ってきた」と簡単に言う僕も、本当は喉から手が出るほど非日常を欲している。
「私、返事できてなかったのかな」
「え?」
「みんなが『遥』って呼んでも、私、もう『遥』じゃない、から。返事できてなかったのかなって。『ひなた』たちは、まだあの場所にいられるから、返事、できるのかも、しれないけど、私は」
とどまりきれなくなった雫がベッドを濡らしていく。
「また、あそこに戻ればいいじゃない」
「無理だよ。この上なく贅沢で、この上なく集団的だもの」
食べていくだけのお金にはなかなかならないくせに、時間も体力もごっそり持っていくぼったくりもいいところなやつで、何があろうと、自分の時間なんて犠牲にしてでも他の人と予定をすりあわせていかなきゃならない迷惑なやつだ。それが演劇ってものだ。わがままな王様のようにも思える。
「あとでテニスしようよ。高校はテニス部だったんでしょ?」
「…うん。ありがと」
部活でやってたことがしたいわけじゃないことは分かってる。そうじゃないんだよって顔をなんとか小夜子が隠してるのも感じてる。
この後、劇に関するものを見かけるたびにこの虚しい感覚に襲われることになるんだろう。上からのピンポイントな明かりや、ふとした時に聞き取ったBGMや、その他いろんなものから勝手に劇を連想してしまうことも多くあるんだろうな。そこから劇への渇望を感じなくなって、劇に結び付けなくなって、ほんとうの意味で「引退」してしまう時はくるんだろうか。
「もう一回、呼んでくれないかな」
ぶつりと切り離された僕らは、宙ぶらりんなままぎこちなく笑った。

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