いつか当たり前がわからなくなっても、僕等にとっての当たり前がそこにある、それだけでいいと思えるのだ
黄瀬は夜というものが心底苦手だった。それはいつからそうだったのか、つい最近のことだったか、ずっと前からそうだったのか、もう思い出せない。ならさっさと寝てしまえばいいのだけれど、ベッドに入って瞼を閉じると、自分が過去に失敗したことや自分の至らない点、将来への不安やとにかく色々なものが押し寄せてきて不安になる。だから深夜のつまらないラジオ番組なんかを聞きながら眠ろうとするのだけれど、芸能に携わる仕事をしているものだから、それも気になってしょうがなくなる。部活で疲れていればさっさと眠ることもできるのだろうけれど、最近オーバーワークだから、と、それも取り上げられてしまった。だから夜中に、どうしてだろう、黒子にメッセージを送った。短いメッセージだった。ただ一言、眠れない、と、それだけ。
それだけなのに、黒子はすぐに返事を寄越した。『終電で会いに行きます』と、そんなことが書いてあった。だから黄瀬はベッドから飛び起きて、すぐに深夜の最寄り駅へと走っていった。果たしてそこには黒子と、不機嫌そうな青峰がいた。
「え、なんで……どうして、青峰っちも……?ていうか、二人とも帰りはどうするんスか!?これ終電……」
「まぁ、青峰君はたまたまそこらにいたので連れてきました。ボクと黄瀬君だけだとちょっと危ないかもしれないと思いまして」
「んだよ俺はどうでもいいってか。つーかよ、なんの集まりだこれ」
「ええ、ちょっと、深夜の散歩でもしようかと」
「……はぁ……」
青峰は大あくびをして、黄瀬はあんぐりと口を開けた。黒子は「じゃあ行きますか」と、まるで目的地があるかのようにてくてくと歩いていってしまう。青峰も頭をかきながらついてゆくので、黄瀬もそれについていくしかなかった。
「ところで黄瀬君、どうして眠れないとか、そういったことをボクに送ってきたんですか?」
「え、理由も聞かないで散歩だとかそういうこと思いついたんスか!?」
「んだよ、夜なんて疲れてりゃ寝れんだから疲れることすりゃいいだろ」
「はは……」
黄瀬は自分がうまく笑えているかよくわからなかった。他の人にとって夜はただの夜で、夜になれば自然に眠くなるものだと思っていたからだ。だからどこから話すべきなのか、何を隠せばいいのか、わからなかった。情けないと思われたくないという妙なプライドもそれを助けた。だから黄瀬は押し黙ってしまって、それだけ二人に情報を与えてしまった。ふたりとも黄瀬のことをよく知っている。中学からの付き合いでしかないけれど、この三人でいると、どうしてか秘密が秘密でなくなってしまう、不思議な空気があった。だから黄瀬の虚飾が全部ぼろぼろと崩れてしまう。
「……夜になると、なんていうか、自分がダメだなって気になってきて……色々……不安になって、目を閉じると、恥ずかしさだとか、怖さとかが押し寄せてきて、うまく眠れなくなるんスよね……なんか、それで、なんとなく黒子っちならなんでもなくても話聞いてくれるんじゃないかって、ちょっとメールしただけなんスけど」
「はぁ、そうですか。青峰君も連れてきてよかったです。ボクはそういうは、なんでもない話だとは思いません。だから、その問題はボクだけじゃ役不足でしょう」
「なんで俺なんだよ。ていうかなんだよ、不安だのなんだのって、そんなふわふわしたもんで眠れないとか、授業中に寝てる俺が馬鹿みてぇじゃねぇか」
「授業中に寝ている人は大抵馬鹿なので大丈夫です」
「おいこらテツ、テメェ喧嘩売ってんのか」
黄瀬は突然夜が賑やかになったので、びっくりしてしまった。街のネオンもギラギラとうるさい。もう夜なのに、昼間みたいに明るかった。けれどこんなネオンも、二人がいなければ寂しさを助長されるだけなのだと、黄瀬は痛いほどわかっていた。今日はこんなに賑やかでも、明日はまた静かな夜が押し寄せてくるのだろうと、どうしてか、にぎやかなのに寂しかった。それでも青峰と黒子は他愛のない話をして、黄瀬にも話題を振ってくるので、そんなのはいつの間にかどこかへ行ってしまった。こんな夜がずっと続けばいいと、そう思った。
しばらく歩いていたら、街灯もまばらになって、ネオンも遠退いてきた。黄瀬はさすがにどこへ行くのか、帰りはどうするのか心配になって、黒子に目的地を尋ねた。そうしたら黒子は、「行けるとこまで歩いてみませんか」と、そう言った。まるでどこまででも歩いてゆけるだろうから、と、そんな風だった。黄瀬はどうしてそんなに前向きになれるのだろうと、不思議だった。けれど、街灯がまばらになっても、ネオンが見えなくなっても、なんとなく、このまま歩いていてばたしかにどこかへたどり着くような、そんな気がしてならなかった。それがどこかは、わからないけれど。
そうして三人は、夜の中を泳ぐように、ずっとずっと歩き続けた。だんだん脚が痛くなってきたけれど、それでも歩いた。歩いて、歩いて、歩いて、そうしたら帰り道のことなんかどうでもよくなって、とにかくどこかへたどり着かなければいけないと、そういう気持ちになってきた。どこかへはたどり着けるのだろうと、そんなことを想った。
そうして、果たして、三人はたどり着くところまでたどり着いた。そこは海だった。薄明りに照らされて、白い砂浜のない、岩壁だらけの、不格好な波止場に到着した。三人が三人、ここが終着点だと、そう思える場所だった。
「ああ、海が青いですね」
「ここどこだよ」
「さぁ」
「もうどこでもいいっスよ。脚が棒みたいになってるっス……」
三人はそうして、岩壁の上に誰からともなく座り込んだ。そうして息を吐いて、吸い込んだら、それはもう朝の空気だった。新鮮な朝が肺いっぱいに入り込んで、少しだけ、痛い。空を見上げたら、まだ太陽は出ていなかったけれど、海の向こうにその光がさして、紫色になっていた。それから、その近くに、随分と小さな星があった。
「まだ星が見える……」
「ああ、きっと、水星でしょう。この時期のこの時間くらいにならないと、視えないんです。太陽に、近いから」
「水星ってアポロが到達した星だったか?」
「青峰君、それは月です……」
「ええと、最近無人探索機が……」
「それは火星です」
「じゃあなんだよ水星って。わかんねー」
「ボクだってわかりませんよ。なにせ人間が誰一人として到達できていない星なんですから」
「つったってよー。そのうち到達すんだよ。ワープとかもできるようになって」
「SF映画でも見たんですか?」
「最近新作出たっスよね」
「ああ、それだそれ」
「ところで黄瀬君、夜はもう終わりましたよ」
黒子のその言葉に、黄瀬は泣きそうになった。きっと、明日からはこのたどり着いたよくわからない場所や、いつか到達するかもしれない水星のことを思い出せるんだろうと、そう思った。暗い不安や不信、寂しさが押し寄せても、きっとこの二人がいれば、どうしてか大丈夫だと思った。それはメッセージを送れるからだとか、そういうことでなく、自分といっしょに、どこまででも歩いてくれる二人がいるんだと、そう思えたから。
夜が明けて、朝がくる。そうして、今日が昨日になって、知らなかった明日が、今日になる。
END