愛の言葉はささやかない






どうしてこんなことになったのか、伏見には皆目見当がつかなかった。昨晩は残業を済ませて、シャワーを浴びて、それから自分の部屋で眠りについたはずなのに、目を覚ましたら知らない部屋の布団の上に転がっていた。身につけているのも見たことがない、深い紺色に刺繍の入った着物だった。それが着崩れて、襟が肩まで下がっている。そもそものサイズが合っていなかったらしい。伏見が眼鏡をかけて状況を判断しようとあたりをぐるりと見回すと、そこには気配の薄い宗像が、のんきに読書なんてものをしていた。そうしたら大体の状況がつかめてきて、伏見は溜息をついた。

「なんの冗談ですか」

伏見がそう声をかけると、宗像は本を閉じて、うっそりとした眼差しを伏見に寄越した。

「冗談ではありませんよ。どうにかして、君を私のものにしてしまいたくて」
「何を言っているのかわかりませんが」
「わからずともよいことですよ」

宗像はそう言って、膝を伏見に近づけた。伏見は反射的に身を引くけれど、なんの能力を使われたのか、身体がうまく動かなくなった。さらに頭もぐらついて、意識が少しだけ、遠退いてしまう。この男は何を考えているのか、本当にわからない。伏見はぞくぞくと背筋を這いあがる寒気に身を震わせた。

「君を私のものにしてしまいたいだけなんです。ああ、その火傷の痕、痛々しくて、とても好ましい。君があの男のしるしを消したのは、大変喜ばしいことです。私には君のその刺青が、ひどく、醜悪なものに見えて仕方がなかったのです」
「……何……を……」
「そう、わたしはただ、君がわたしのものであるという、かたちある何かが欲しいのです」

宗像はそう言うと、伏見の頭を掴んで、乱暴に布団に引き倒した。伏見はまず、この男に強姦でもされるのかと思った。それくらいなら、まぁいいと思った。面倒は一時で済む。

けれど宗像はそうしなかった。うつ伏せにした伏見の背中をなぞって、その着物をするするとその肩から外し、「このあたりがいいでしょうか」と、むき出しになった伏見の腰のあたりを撫でた。その冷たい宗像の指先から、何かちりちりと肌を焼くような、刺すような痛みが走る。

「……う……」
「じっとしていてください。手元が狂ったら、ひどく歪になってしまう。ただ、あの男のように、しるしを刻むのです。あなたが私のものであるという、醜い刺青を」
「……刺青……?」
「すこし、それとは違うものですけれど」

宗像の指はちりちりと、少しずつ、しかし肌の奥深くをさぐるように、動いた。伏見はおそろしくてその手を、指を、身体から引き離そうと身をよじるのだけれど、やはり身体が震えるばかりでなんにもうまくいかない。そうして痛みとその心地悪さに、冷たい息を吐いた。宗像はそれが面白いのか、さらにゆっくりと、なにかを刻むように、伏見の腰に指を這わせる。

「……ぁ……ん……」
「まるで夜伽をしているような声を出すのですね。そんなものでは一時しか君を縛れないのだから、まったく意味はないのです。わたしは君の一生を私のものにしたいのです。だからそのひとつのものとして、私の証しを刻みます。これはきっと呪いになるでしょう。私が死ぬまでの間、このしるしはあなたを苛むでしょう。今だけではないんです。この痛みがきっと、君のなかにずっと残る」
「……は……な……に……」
「刺青のようなものですよ」

伏見は朦朧とする意識の中で、燃えるような痛みに冷や汗を垂らし、その指の動きに、吐息をこぼした。それはずっと、情を交わすよりずっと、深いところで宗像とつながってゆくようで、ひどく恐ろしかった。布団の端を力ない指で引っ掻き、口の端からだらしなく涎を垂らしながら、その恐ろしさに、顔をしかめる。けれど宗像はその伏見の姿に、ひどく恍惚としたような眼差しを垂らしてくる。伏見はさっさと意識を手放してしまいたかったのだけれど、それも許されない。

「あっ……うぅ……んん……」
「君が狂うように、調律したいのです。それが、理想の姿で、造形で、パズルの噛み合わない完成なのです」
「……な……」

汗がこめかみを伝って鼻の頭から布団に染みてゆく。燃えるような何かを孕ませられている気分だ。伏見はそれに、ぼんやりとした涙が混じり始めたことに気が付いたが、もうそれどころではなかったので、垂涎もそのままに、ともすれば恍惚に変わりそうな意識に、言い知れぬ感情を抱いた。自分がどんどん、宗像に呑み込まれてゆくような錯覚を起こす。それはやはり恐ろしかったが、その感情が麻痺して、操られて、違う感情にすり替えられてゆくのがわかった。考えることが難しくなってきて、もはや布に等しくなった着物に指を這わせる。

「……できましたよ。あなたには見えない、私のしるしです。あなたは私に縛られるでしょう。それは形式ではなく、感情がそうなるのです。愛だの恋だの、そんなものはなんのかたちにもなりません。永遠にもなりません。このしるしだけが、君の全てです」

伏見はやっと落ち行く意識の中で、この男を憎らしく思ったが、憎からずも思った。それによって、もう自分は逃げられないのだと、そう思った。見えないしるしが、刺青に似たそれが、真綿のように伏見を苦しめ、甘やかす。うつくしくてみにくい、そういう、宗像の、なにかだ。


END

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