どれほどのロマンチックが君を襲おうとも
赤司君が京都に帰ってしまうまでの一日のうち、三時間をボクはもらいました。ただちょっとそのあたりの喫茶店で、お茶をしないかと、そういう話です。喫茶店に長居するつもりはそんなになかったのですが、赤司君が、三時間ほど時間があると言ったので、ボクはそのめいっぱいを、もらうことにしたんです。
このあいだまで、エキシビジョンマッチで、とても忙しかったのですが、それも終わって、次の次の日には赤司君は京都に帰ることになりました。そちらでも練習があるのだから、仕方のないことだと思います。けれどボクは、彼に抱く重大な秘密のために、彼と離れがたいと思っていました。そうして携帯電話で連絡をしてみたら、新幹線は午後のものを使うらしかったので、最後の日の午前に、待ち合わせをしました。
ボクは、本当は、もっと適当なファストフード店の方が心地よかったのですが、赤司君にそこは似合わないですし、赤司君と一緒であるなら、それはどこであっても、大差がなかったので、コーヒーが一杯四百円ほどする喫茶店を選びました。赤司君は慣れた様子で四百円と消費税のブラックコーヒーを選び、ボクもそれにならいました。
「……もっと甘いものでなくて大丈夫なのか?」
「別段、困りません。今日はそういう気分なんです」
強がりでした。ぼくはあまり苦いのも得意でないですし、熱いのも、得意ではありません。だから、このチョイスは、ただ赤司君と同じものを飲みたかったという、浅ましい感情と、自分自身への戒めとしてのものだったんです。
ボク達は窓辺の、店内の深い席に座りました。ボク達が天気の話をしているうちにコーヒーは店員が運んできて、赤司君はそれに軽く礼を言いました。そうして、カップの持ちてに指を入れずに、行儀よく、それを口に運びます。ボクは、持ちてに指を突っ込んで、普通に、それに息を吹きかけました。
なんの会話をしたのか、ボクはあまりよく覚えていません。けれどそれは、途中まで、なんの他愛もない、男子高校生の会話でした。けれどそれは、ぽつりぽつりと、じれったくなるほどの間を置いて、繰り返されていきました。コーヒーが冷めてしまっても、無くなってしまっても、ボク達は、ひそひそとした会話をしました。ボクはそれでよかった。なんでもない、赤司君の三時間を独り占めできることだけで、充分でした。それなのに、赤司君が、「黒子、きみは、将来どうしようと思っているんだい」と、尋ねてきました。
それはきっと進路の話なんでしょう。部活の話なんでしょう。けれど、ボクはそういった話を、赤司君とは、したくなかったんです。ボクにはきっと、ちゃんと未来があるけれど、ボク達には未来が、きっとないんです。だから赤司君も、こんないじわるをしたのだと思います。ボクは、赤司君に内心を知られてしまっていることと、暗にその感情にメスを入れられたことに、酷く動揺をしました。彼に見抜けない感情では、ないからです。ボクは彼を、ひどく慕っていました。ひどく、ひどく、慕っていました。
「……そう、ですね……。部活をして、進路は……文系の大学に、進学でもしようかと。それから先は、まだ、なんにも決まっていません」
「そう。でもそんなものだよ。オレも似たようなものさ」
「……嘘」
そんなのは、嘘だと、すぐにわかりました。赤司君は、きっと親の会社を継がなければなりません。一流の大学に進学しなければなりません。それくらい狭い未来しか、彼には用意されていないのだとわかっていました。彼は、きっと、ここでだけでも、夢想したかったのかもしれません。それでもボクは、それが嘘だと思ったので、嘘だと言いました。それだけの話です。
「……まるで、水槽の中で人生を送っているような気がするよ。ほんとうに、たまにだけれど」
「赤司君は、とても、とても、大変なのだと、わかっています。でもきっと、その水槽は赤司君が思っているより、広いんです。君はきっと、一流の大学に進学をして、一流の企業に勤めて、そうして……そう、そうして、いつか、誰かと、赤司君が好きになった女性と、結婚をするんです。赤司君なら、素敵な家庭が築けると思います。そう、きっと、そうして、きっと、幸せに……」
「あたたかい家庭なら、黒子の方が早そうだ。まぁ、オレ達がこんな話をするのは、あんまりにも早すぎるけれどね」
赤司君は、なんにも否定をしませんでした。赤司君は、きっと自分には結婚が望まれており、そして家庭をもつということが、視えているのでしょう。それは能力とかそういうものではなく、ひとつの水槽に置かれた置物なんです。置物は水槽を洗って、水を入れ替えてもそこに残ります。けれど、ボクはどうでしょう。きっと、ボクは水なんです。いろんな成分で構成された水の、そのほんのひとすくいに過ぎないんです。次に水槽を掃除する時に、入れ替えられてしまう、そんな存在。赤司君の未来には存在しない、そういう、存在。できれば、それくらいでいたい。彼が誰かと付き合う未来にも、結婚する未来にも、幸せになる未来にも、ボクは存在していたくない。ただ、ボクが辛いだけだ。
「黒子はどんな子が好みなんだい」
「なんでしょう、赤司君の口からそういった俗物的な言葉が出ると、吃驚しますね」
「黒子が思うよりボクはずっと俗物的だよ。普通の男子高校生さ。だから好みの女の子の話くらい、普通にする」
「そうですか。ボクは、そういうのはまだわかりません。赤司君はどういう子が好きなんですが」
「そうだね、よく本を読む子が好ましい。それに正義感が強くて、強情で、オレの言うことに従わない子がいいな」
「……意外です」
「ああ、そうだね。自分でも意外だと思うよ」
「きっとその子も赤司君みたいな人が好きなんだと思います。きっとです」
「どうしてそう言い切れるんだい」
「きっとそうだからに決まっているからです」
「……そう」
ボクは、とても悲しくなりました。赤司君がどうしてこんな意地悪をするのか、わかりません。ボクに期待をさせて、遊んでいるのかもしれません。それにしたって、酷いです。コーヒーだけでも、ひどく苦いのに、こんな感情を飲み干すことは、ボクにはできそうにありません。だからぱたぱたと涙をこぼしたって、赦されるはずです。ひどい顔になったって、赦されるはずなんです。
「……黒子の未来に、オレがいないことを願うよ。とても、辛いから」
ボク達は水槽の中で生きています。世の中には、どうしたって結ばれない恋だって、たくさんあります。それでも結ぼうと、どちらかが必死で結ぼうとしない恋は、どうしたって結ばれません。ボクは臆病で、赤司君に幸せになって欲しいから、目の前の幸せだけで満足なんてできないから、だから、こうして泣いてしまうんです。赤司君は困った顔で、コーヒーの、最後の一口を、飲み干しました。
「……ここのコーヒーは、苦いね」
ええ、きっと、そうなんでしょう。
END