こうならなきゃいけなかった理由があるなら誰でもいいからなんでもいいから教えてよ




高校二年にあがったばかりの燭台切は、その日父の運転する車に乗車していた。父の愛車はトヨタのウィッシュだったが、燭台切はそれほど車に詳しくなかったし、将来自分が車を運転するなんてことも、考えたことがなかった。ぼんやりと、ビル街の風景を眺めながら、なんの苦労もなく目的地へ到着するのを、待っていた。そうした時に、ありきたりな電子音が鳴った。助手席と運転席の間に置いてある父のバッグからだった。燭台切の父は手探りでそれのもとを探した。しかしなかなか見つからない。電子音がやけに大きく響く。燭台切は運転しながらの通話は違法と知っていたので、その手助けをしなかった。そうしたら、燭台切の父は正面からほんのわずか、視線をバッグにやった。ほんの、一瞬。

耳をガツーンと殴られたような音がした。それから、ものすごい衝撃に、シートベルトが固定されて、息がつまる。そこへ、フロントガラスを突き破って、何か尖ったものが、燭台切の心臓へ、吸い込まれるように、深々と、突き刺さった。肋骨をすり抜けたのか、砕いたのか、それすらわからない。とにかく、そうだったことだけ、鮮明だった。あとはもう薄ぼんやりで、右腕が骨折してしまったとか、脚がとか、そんなのはわからなくって、燭台切は胸のそれだけ見て、「あ、僕は死ぬんだ」と思った。それが、「燭台切光忠」個人としての、最後の記憶だ。

次に燭台切が目覚めたのは、ICUのベッドの上だった。全身の、どこもかしこも痛かった。どうしてだろうとぼんやり瞼を持ち上げたら、母親がいて、燭台切と目が合うと、声を漏らして、泣き出した。母親の嗚咽から、ぼんやりと、父が死んだことは、わかった。声が出るような体調でなくてよかったと、心底思った。胸が熱くなったのは、それが原因なのか、なんなのか、よくわからなかった。けれどなんだか、自分の大切なものが失われて、かわりに、なにものにもかえがたいものが入り込んでいるのかもしれないと、不思議な感傷があった。燭台切光忠は、悲惨な交通事故をすり抜けて、生き残った。

ICUから一般病棟に移される頃合いになって、燭台切は自分の心臓が、他人の心臓になったということを聞かされた。本当はもっと難しい単語や、医療用語も交えて説明されたけれど、とどのつまり、そういうことらしかった。交通事故相手の、やはり助手席に少年が乗っていて、その子の頭には鉄パイプが吸い込まれたらしい。その子の脳みそはどうにもならなくて、隣には心臓がどうにもならない燭台切がいて、面倒な手続きの末に、あっさり、脳の壊れた少年の心臓が、燭台切に移植されたのだそうだ。燭台切は小難しい説明をされたのち、医師に「提供者の写真をご覧になりますか?」と尋ねられ、どう答えるのが正解かわからないまま、「はい」と答えていた。「提供者」という単語が、なんだかとても無機質で、冷たかったのを、覚えている。

写真といっても、小学の卒業アルバムを切り抜いて引き伸ばしたような、ピンボケもいいところの写真だった。けれど褐色の肌で、静かなかんばせが、燭台切を責めた。見なければよかったと思った。この子は死んで、燭台切光忠は、その命を分けてもらって、生きてしまったからだ。

その子は孤児らしかった。生まれてすぐに両親が亡くなり、親戚の家を転々としていたらしい。その親戚も、その子を、大倶利伽羅を、悼みやしなかった。交通事故当時も、次の移転先へ向かう途中で、その先でも、きっと煙たがられていただろうから、と、名前も知らないおばさんが、燭台切を想ってからなのか、本心からなのか、そんな性格の悪いことを言った。燭台切は他人の心臓に、へんな違和感を持っていたのだけれど、その会話に腹が立ったことで、その違和感みたいなものが、ちがう何かにするりと変換されたのが、わかった。馴染んだわけじゃ、ない。胸に手を当てれば、すぐにわかる。ここだけ、他人。名前と顔だけしか知らない、本当の、赤の他人。

燭台切は生まれた時から右目が潰れていた。母親はいつも、そのことで自分を責めていた。そうして、今度は心臓まで、と、自分のことでもないのに、悲しがった。燭台切は配偶者を失ったばかりで、きっと、自分が生きているということだけで素直に喜べないのだと、妙に客観的にその態度を捉えていた。燭台切はこの心臓を、妙に感じることはあったし、悲しかったし、違和感もあったけれど、決して、嫌いではなかった。たとえば病棟の一人部屋で眠れない夜を過ごす時、胸に手を当てると、そこだけがたしかに暖かいのだ。一人部屋に、もうひとり、だれかがきっといたのだ。いつかその人物と話がしてみたいと思うようになったあたりに、燭台切は退院した。

退院して、半月が過ぎて、ほとんどのことが日常になった。父は欠けたけれど、莫大な保険金を遺してくれたおかげで、当面、具体的に言えば燭台切が大学に進学をすると言い出して、それが叶い、私立だったとしても大丈夫、と、それくらいは、生活に困らないだろう。母の実家は裕福であったし、母の父母、つまるところ燭台切の祖父母は燭台切の母を溺愛していた。その祖父母は未だ会社を経営していて、燭台切の父がその会社の社長をしていた。ゆくゆくは、燭台切もその会社に吸い込まれる仕組みになっている。そういうレールが目の前にどうしようもなく敷かれていて、燭台切はもう、そのレールを辿っていくしか、生きるすべをわからないように、教育されていた。そこに小さな違和感を、胸の鼓動が、叩きつける。ほんとうに、小さな、小さな違和感でしか、なかったけれど。

それから燭台切は、親切で性格の悪い、赤の他人のおばさんに頼んで、墓参りをさせてもらった。そのおばさんはついてきやしなかった。ただ場所だけを教えてくれた。そして、いらない情報も。葬儀はしなかったらしい。ただ火葬だけをして、その子の両親の眠る、共同墓地に。燭台切の訪れた墓地はそんなに大きくはなかった。そして、いつかここは廃れてしまうんだという雰囲気を、そこはかとなくにおわせていた。そして、くだんの墓石は掃除もされておらず汚れていて、小さくて、古くて、花も残っているのが不思議なくらい、枯れていた。燭台切はその枯れた花を抜き取り、水も綺麗なものに入れ替えて、持参した生花をさした。線香に火をつけてくべると、ひとのいなくなったにおいがした。燭台切は左目だけを閉じて、両手を合わせた。心臓の鼓動が聞こえる。そうして眼をあけたとき、どうして自分でそう呟いたのかわからないまま、「君の心臓はここに動いているのにね」と言った。両手は、その胸のあたりで、ひっそりと、合わさっている。

金曜日、いつものように学校を終えて、塾を終えて、宿題をこなして、いい大学へ入れるように自習をしたのち、燭台切は眠りについた。そうしたら、不思議な夢を見た。褐色の肌をした少年が目の前に立っていて、なにかを言っている。燭台切は「君は誰?」と聞こうとして、いつか見た、ピンボケの写真を思い出した。

「……聞こえないよ……」
「 」
「……聞こえない……教えてよ……君は誰なのさ。どんな人なの。……どんな、声、なの……」

褐色の少年は、何度か口を動かしたが、それは燭台切のためではないようだった。そうして「ちゃんとある」両目を伏せて、自分の胸を指し、燭台切の胸の、真ん中をゆびさした。そんなこと、燭台切だって、わかっている。知りたいのはそんな簡単で、小難しい手続きの話じゃない。燭台切がそう言おうとしたら、夢が、弾けて、消えた。

目覚めた燭台切は、どうして、朝から晩まで勉強をしなければいけないのに、身支度をして、外へ出た。身体が勝手に動いた。山積みの参考書にも、指がかたちを覚えた筆記具にも目がいかなかった。スケジュール表も、確認しなかった。母に「勉強は?」と聞かれても、なんにも、こたえられや、しなかった。

脚が勝手に動いた。使ったことのない電車を使って、知らないバスに揺られて、知らない道を歩いた。ゆびさされる方に、身体が動いた。そのゆびは胸の真ん中から生えているようで、燭台切はそれが不思議だった。そのくせ、不安はなかった。誰かに手を引かれているような、幼少の、あの、大丈夫なんだっていう、根拠のない安心感だけが、燭台切を包んでいた。

そうして気がついたら、海の見える丘に立っていた。緑と青のコントラストが、うつくしかった。燭台切は今まで、海と山というものは別々の場所にあって、決して、相容れないものだと思い込んでいた。けれど燭台切の背後には山があって、眼前には海が広がっている。海風が吹いて、それにふくまれる複雑なにおいをかいだとき、左目から、一筋の涙が流れた。

それは終わりのないように、とめどなく、流れ続ける。こんな場所は知らないし、きっと、普通に生きてたら来ることもなかったのに。けれど「心臓」はどくどくと脈打って、胸が重く、甘く、苦しい。きっとここに感情がある。学校では教えてくれない、なにか大切な感情。辞書に載っているのに、そのほんとうの意味はどこにもない、そんな感情。燭台切は涙を何度も何度も拭って、やっと、その苦しさが「懐かしい」っていう、やわらかくて、脆いものなんだって、わかった。そうして濡れた自分の手を、音のするところにやって、そうか、ここに来たかったんだね、と、海を見た。ねえ、ここにどんな思い出があるの。ここでなにがあったの。どうして、ここに、呼んだの、と、様々な質問を投げかけてみても、心臓は熱く脈打つばかりで、なんにも、こたえてくれや、しなかった。けれど、寂しくは、ない。

それから、不思議な日々がはじまった。燭台切はいつものように、受験のための勉強をする。英単語を覚えて、公式を覚えて、応用して、発展させて、それを反復する。日々の殆どが、そういったことに費やされる。けれど、ときたま、不思議な夢を見る。褐色の少年と向き合うだけの、会話のない、胸の苦しくなる夢。そして、勉強に差し支えのない頻度で、燭台切は知っている場所や知らない場所へ連れていかれるのだ。夢の中でなく、現実の世界で。それは誰も知らないようなカフェだったり、人気のない公園だったり、日当たりのいい図書館の席だったりした。燭台切はその場所を知るたんびに、胸が重く、甘く苦しくなった。カフェと公園は息抜きの場所にしたし、図書館の席は勉強場所になった。そうして、そこを訪れるたびに、心臓に問いかけるのだ。「この場所みんな、君がいってた場所なんだね」、と。そうするときに燭台切は必ず、心臓のある場所に手を当てる。すると返答のように、鼓動が聞こえる。そういう場所はたくさんあった。遠くてなかなか行けない場所もあった。けれど、そのどれもが、なつかしい。言葉のない会話を、何度も何度も、繰り返した。そうしているうち、自分のなかにある少年の心臓のかたちを知りたくなった。エコーとか、そういうのでなく、皮膚を貫いて、肋骨をへし折って、生々しく取り出して、ああ、これが君なんだって、そっと、やさしく、くちづけたいのだ。まるで心臓に恋をしているようだった。そう思うたび、燭台切は不思議だとおもったし、おかしいことだとおもった。けれど、脳みその、あの少年が失ってしまった脳みそのどこか熱っぽいところで、これは自然で、あたたかくって、運命なんじゃないかって、思ったりも、した。

それを繰り返すうちに、燭台切は夢を見るのが楽しみになったし、少年の教えてくれる場所、教えてくれた場所へ行くのが、とても楽しくなった。まるでふたりぎりで遊んでいるような錯覚もした。けれどその錯覚は、かなしい感傷も生み出した。

「君は心臓しか、ないんだよなあ。ねぇ、どうして君は心臓しかないの」

どうしてあの日、あのとき、自分たちは車なんて、自分の思い通りにならないものに乗っていたのだろう。そう、たとえば、出会うのが道端で、肩と肩がぶつかり会うだけで、どちらかが転んでしまって、それはきっと少年の方で、燭台切がお詫びに喫茶店でジュースを奢ってあげて、話が弾んで。いや、それはないか。褐色の少年はきっとあまり喋る方じゃないし、知らない人にジュースを奢らせてくれるような警戒心のない子供じゃあ、ない。きっとこれくらいしか、二人の人生が交わることはなかった。燭台切はいつしか、何度も、そんな幻想を抱いたし、何度も夢を見た。そうして気がついたら大学生になっていて、それでも心臓はそこにあって、夢の中の少年は少年のままで、朝目覚めたとき、さめざめと、泣いた。涙腺のない右目まで、震わせながら。

それから燭台切は毎晩のように、泣いた。現実の眠れない夜でも、寝入ったあとの夢の中でも。少年の教えてくれた場所に、これから教えてくれるだろう場所に、二人で行きたい。そうでなくてもいい。ただ、あいたい。燭台切の身体は高校二年生の頃より少し大きくなっていたけれど、その身体をちいさくして、震わせて、「あいたい」「きみにあいたい」「きみがすきなんだ」と、泣いた。子供のように。そうしたら、大倶利伽羅という名前を持たされた少年は、ゆびさすのをやめて、やっと、聞き取れる声で、ひどく困ったように、言った。

「振り回して、悪かった」
「振り回されてなんかない!」
「もうしないから」
「してよ!僕は、ふたりで」
「俺のこと忘れて、それで、……生きろ」

ぱん、と、音を立てて夢が覚めた。それでも燭台切は伝わっているんだろう、といわんばかりに、胸を掻き毟りながら、叫んだ。

「君のこと忘れようがないじゃないか!!僕の心臓は君なんだから!」


それから、ぱったり、夢を見なくなった。不思議な体験も、なくなった。ただおびただしい思い出どもが、燭台切を甘く、にがく、くるしめた。心臓は、ただひたすら、全身に血液を送り出すためだけに、動いている。忘れようのない、少年のかたちをたもって。


それから燭台切は大学を卒業し、就職をし、すぐに親の決めた相手と見合いをさせられた。見目も性格も、文句のつけようのない女性だった。色白で、華奢で、女らしくて、奥ゆかしい、そういう女性。そして燭台切の祖父母の会社に、利益をもたらす企業の社長の令嬢だった。一年の交際で、親の勧めのとおり、結婚をした。そしてせがまれるまま、子供をつくった。燭台切はその過程に、なんの疑問も抱かない、つまらない人間に成り果てていた。大倶利伽羅の言っていた「俺のことを忘れて生きろ」っていうのは、こういうことだよ、と、いつも心臓に呼びかけ続けていた。そうして、臨月を経て、子供が生まれた。その子は、泣かなかった。

すぐにICUに運び込まれた子供を、妻は一目、見たらしかった。そうして燭台切と顔を合わせた途端、震えながら、「わたし、浮気なんてしてないのよ!?」と、叫んだ。燭台切は妻の言うことがわからなかった。少なくとも、人工的に生かされるだけになってしまった我が子と対面するまでは。

おびただしい管で大仰な機械に繋がれた赤ん坊は、褐色の肌だった。燭台切もその妻も、色白で、祖父母まで遡っても、褐色の肌の人間は、いなかった。けれど燭台切はすぐに、ガラスケース越しに手を当てて、「やっと、会えた」と、涙を流した。君だったんだね、と。いつかのように、大きな身体を、小さくして、震えながら、子供のように、泣いた。


燭台切の子供は、心臓の機能がすっぽりと抜け落ちていた。医師は長ったらしく、そして難しい言葉を並べ立てて、「機械を外せば死にます。死なせてあげたほうが、お二方にも負担がなく、幸福でしょう」と、そんなことを言った。けれど妻の反対を押し切って、燭台切はその子を生かした。いつかその子が機械の中ででも成長をして、燭台切の心臓を受け入れられるようになったら、そうしたら、いのちをあげるから、と。

「それまでに今度は僕が、思い出を作るよ。格好がいいのがいいな。そう、こんなレールの上を歩くだけの人生じゃ、死んでるのと同じだね。君はいつだって、僕をいろんな場所へ、いろんな可能性へ、連れ出そうとしてくれた。ありがとう。生まれてきてくれて、僕にあいにきてくれてありがとう。大倶利伽羅。愛してる」

わけあって、生きよう。二十億回の鼓動を、ふたりで。ふたりっきりで、いつまでも。


END


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