愛は武器じゃない




わたしの左脚は動かない。正しくは、膝から下の感覚がひどく痺れていて、うまく歩けない。足首は変な方向へ傾いたまま固まってしまっているし、日常生活では松葉づえをつかないと、まともに移動ができない。松葉づえをついていても、長距離の移動は骨が折れるので、万屋へ行くときは、折り畳み式の松葉づえと、収納用のバッグを持っていって、疲れて動けなくなったら、いつも豊前におぶってもらう。わたしが万屋に行くときに連れていくのは、連れていってくれるのは、随分長いこと、豊前にきまっていた。

その日は脚がダメになるのが、はやかった。いつもは帰り道の半ばなのに、今日は買い物を終えたらもうダメになっていた。人で混んでいて、いちいち「すみません、通してください」と言っていたからかもしれない。それを聞いて優しく道を開けてくれる人や、聞こえないふりをする人、色んな人がいる。それがどっちの反応であっても、わたしをどうしようもなく、苦しめた。ほんとうは、こんなはずじゃなかったのに。

「今日は混んでたからなぁ。疲れたろ」
「……うん」
「元気もねぇな。帰ったら少し寝るか」

わたしは豊前の広い背中に身体を任せながら、小さく、「ごめんね」と言った。そう言ってしまったら、涙が止まらなくなって、申し訳なくも、豊前の肩を濡らすことになってしまった。こういうとき、他の刀はいつも、「大丈夫?」だとか、「どうしたの?」と、聞いてくる。けれど、豊前はそれをしない。わたしが泣いていると、いつもただ無言で、理由を尋ねない。かといって全部わかっているわけでもない。だからわたしは、少しでも豊前になにかを知って欲しいと思ってしまった。

「あのね、豊前」
「ん?」
「わたしの脚ね、みんなには生まれつきって言ってるけど、それね、嘘なの」
「……ふぅん」
「……事故、で、こうなったの。こうなる前は、綺麗なハイヒールが好きで、よくはいてた。脚だって、結構速かったんだよ。陸上やってたし……。豊前の方が、ずっとはやいけどね」
「そうか」
「うん、審神者になったのはね、障がい者枠があったからなの。他の仕事はままならなくても、この仕事には適正が出てたし、障がい者でも、わたしの脚なら、大丈夫だろうって、審査通って……。こうして審神者になる前のわたしはね、世界が終わった気分だったよ。もうなににもなれないって、そんなふう……。でもわたしはなにかになりたくて、審神者になったの。もう若くもないし、わたしには、もうここしか、ないんだよ……」
「そうだったんだなぁ」

豊前はわたしの欲しかった言葉を、何一つ言ってくれはしなかったけれど、きちんとわたしをおぶって、支えてくれていた。少しの不満もなかったと言えば、嘘になる。けれど、その姿勢が、わたしを甘やかさない豊前を、わたしはかけがえのない存在だと、そう思えた。

けれど、これからも他の刀には嘘を吐き続けて、豊前だけがほんとうのことを知っているのは、なんだかいけないことのように思ったし、豊前がなにかの拍子に、このことを誰かに言ってしまうのでは、という不安もあった。けれど、それでもいいかな、と、思った。どうして豊前には本当のことを、言ってしまったのかは、わからない。

そうして心はずっと安心をしたのだけれど、わたしの涙はとまらなくて、しとしとと、豊前の背中を濡らした。ずっと、濡らした。わたしの人生で我慢していたぶんがずっと、豊前に染み込んでいくようだった。


わたしが本丸の中を移動するときは、やはり誰かにおぶってもらうか、松葉づえをつくか、膝を立てて、赤子のように這って移動するしか、手段がなかった。みんなが苦労をしてつけられるところには手すりをつけてくれていたけれど、日本家屋なので、そんなに沢山はついていない。それでも、そのことはとてもありがたいことだった。

わたしは面倒が重なると、すぐに這って歩く癖があるので、少しの距離ばかりでも、それが積もると膝の少し下の、でっぱっているところに痣ができる。他の刀がそのことについて無関心なわけではないけれど、袴に隠れて、普段は見えないから、気が付かない。しかし、豊前だけはそれに敏感で、定期的に、遠慮なくわたしの袴を捲り上げては、その痣を見つけて、溜息をついてくれた。

そのたんびに、豊前は、わたしを縁側に腰かけさせて、神様がつくったような薬指で軟膏を掬い、丁寧に伸ばして、ガーゼを貼ってくれる。その時間が、わたしはすこしばかりすきだった。

「俺はあんたの痣がいとおしい」

ある日、豊前はそんなことを言いながら、わたしの痣に指を這わせ、ガーゼを貼りつけた。

「手当するのに?」
「そう」
「どうして?」
「教えない」

生白いばかりの脚に、袴の裾を戻しながら、豊前はひなたのような面持ちでそう言った。だからわたしはなんだかかなしくなって、「現代の医療はすごいね。ほんとうは、こっちの脚、すごい傷だらけだったのに、もうなんにも残ってないんだよ」と、そう言った。そうしたら豊前は表情に暗がりを落として、「ふうん」とだけ、言った。そのとき、屈んでいる豊前のくびすじに、いつものほくろをみつけたのだけれど、わたしはそのほくろを、うつくしく思った。


豊前がいとおしいと言ってくれたから、わたしはよく本丸の中を這うようになった。まるで赤子のように。それなのに、それでできた新しい痣に軟膏を塗る豊前は、ひどく憤っているようだった。わたしにはそれがわからない。いとおしいのに、どうして憤るのか、よくわからなかった。だから、わたしは間を持たそうと、「豊前は、わたしのぶんまでずっと走っていてね」と言った。

「……それは無理だろうな」
「どうして?」
「俺の脚は俺の脚で、どうしたってあんたの脚にはなれない。当たり前だろ?」

そのひどくひややかな言葉どもが悲しくて悲しくて、視界をぼやけさせた。そのぼやけたぶんがぷつんと途切れると、温かい水となって、わたしの膝に吸い込まれてゆく。豊前はそれを、軟膏がついていない方の手ですくって、「どうして泣くのか、わからない」と、いじわるなことを言った。

「だって豊前が、わたしが思っていたことと、違うことを言ったから」
「俺もほんとうはあんたが望んでいるだろうってことを、思い描いていそうなセリフを、言おうと、一瞬思った」
「じゃあどうして言ってくれなかったの」
「いや、うん、どうしてかわからない。ちょっと、あんたの泣き顔を見て見たかったからかもしれない」
「さっき、どうして泣くのかわからないって、言ったくせに」
「あんたがそうやって、感情を涙にのせるのは、とてもいとおしいと、そう思うから、無意識に言ったのかもしれない」
「それでも、ひどいよ」
「……そうだな。でも、こればっかりは事実だから、どうしようもないんだ。俺はあんたの脚にはなれない。俺の脚が俺の脚でしかないように、あんたの脚も、あんたの脚でしかない。俺は走れるけど、あんたが走るわけじゃない。これはどうしようもないんだ。だから、この話はここで終わりだ」

ひどくつめたいと思った。軟膏を塗られた膝は、ガーゼに包まれて、あたたかいのに。


それからわたしは、松葉づえや手すりをよく使うようになった。膝の痣は時と共に薄れてゆき、ついにはなくなってしまった。もう豊前が、ここにできていた痣に、軟膏を塗ることは、ないだろう。

それからまたしばらくして、松葉づえで本丸内を歩いていたわたしに、豊前が「おぶってやろうか?」と、声をかけてきた。わたしがそれを断ると、豊前はいじわるく松葉づえを、わたしから取り上げた。そうしたらわたしの身体はバランスを崩して、板張りの廊下にみじめに転がった。そのわたしを上から見下ろして、豊前は、「ちょっと遠くへ行こう」と、わたしの手をやさしくとりあげて、背中におぶった。そんなに日が経っていないのに、なつかしく、あたたかい背中だった。


わたしははじめ、万屋があるあたりの町でも散策するのかと思ったのだけれど、豊前はそれとは逆方向の、ちょっとした山へ入って行った。道はそれなりに険しく、めずらしく豊前の息が上がった。首にゆったりと回した腕にそのあつさと湿り気がはりついて、わたしは「大丈夫?」と、豊前に尋ねた。そうしたら豊前は当たり前に、「大丈夫」と、答えてくれた。わたしはそれが、とてもいとおしいと思った。

どこに連れていかれるのかわからないし、ここに捨て置かれたら、松葉づえのないわたしはもしかしたら死んでしまうかもしれないのに、わたしはそれをちっとも不安に思わなかった。あんなに、豊前のことをうらんでいたのに。

そうして、豊前に背負われていたら、豊前は豊前の脚で進んでいて、わたしの脚はわたしの脚として、ぶらぶらと宙を蹴っているのだと、よくわかった。それでも、わたしたちが同じ方向に進んでいるというのが、少し不思議に思えた。

そしてついに、豊前とわたしは、小高い丘に出た。豊前はわたしを、休憩できそうな倒木におろし、自分もその隣で息をついた。三時頃に本丸を出たのに、丘はもう、夕日に照らされていた。本丸が少し遠くにあって、わたしたちは少し遠くにいて、それを見下ろしている。いつもあしもとばかり見ているわたしは、その景色を素直にうつくしいと思った。

「綺麗」
「綺麗だな」

豊前がわたしの左側に座っていたので、わたしから、そのいとおしいほくろは見えなかったけれど、わたしは豊前を、いとおしいと思った。そして、きっと豊前もわたしのことをいとおしいと思ってくれているのだと、よくわかった。けれど、それを口にしたって、豊前はやはりわたしの望む台詞は、言ってくれないのだと、わかっている。

「あんたの脚はあんたの脚だし、俺の脚は俺の脚だけど、この景色だけは、ふたりで見た景色だから」
「……そうだね」
「そう、それに、あんたが痣を作らなくても、俺はあんたに触れていたいと、そう思う」
「……そう……わたしも、松葉づえがあっても、豊前に背負われていたいと、そう思うよ」

わたしはいつも豊前がそうしているより、すこしだけ温かい表現をつかって、豊前を困らせた。わたしたちはどうしたって、相手が望む答えは、セリフは、一生言えないのかもしれない。けれど、この感情ばっかりは、ふたりのものにしていけたらと、そう思った。


END


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