ふたりでいつかひとになろう cours3(1)
序章 いつもどおり、いつもと違う、イントロダクション
山姥切のひとさし指が、いつものようにカチリとマイクのスイッチを入れた。そして、今まではなそうと考えていた内容が、泡沫のように、消える。いつもと同じだ。けれど、いつもと同じ朝の挨拶を、いつもと同じようにくちにして、そうして、毎度、違うトーンを、そこに乗せる。一度として、このラジオはなにかとおんなじだったことはない。
「……おはよう。今日も朝が来た。これから、第七百三十一回、本丸ラジオをはじめる。パーソナリティーは、いつも通り、山姥切国広だ。そうだな、何を話そう……ああ、いや、決めてあった。……今日という日を……一年前の、今日を、昨日を、そこまでに至る時間のすべてを、俺は忘れたことがない。審神者ほど、正確ではないにせよ……このラジオがはじまってから一年がたった。あれからいろいろあった、な。いろいろで、済ませられるのか、わからない。刀剣も増えた。力も増した。けど……長かったのか、短かったのか……」
山姥切は色々知っているから、寂しくて、苦しくて、けれど懐かしくて、すべてが愛おしくて、だからこそ透明な声で、言葉を紡いだ。それは細くて、途切れそうで、けれど途切れさせてはいけないものだということも、山姥切はわかっていた。
「すこし、昔話でも、しよう。……一年前の俺は、とんでもない甘ったれで、なんにも知らなくて、どうしようもない刀だった。それこそ、……審神者を傷つけて、傷つけたことに傷ついて、そんな自分さえ、ひとりでは直視できなくて……ひどい刀だった。……まぁ、鶴丸に言わせれば今でもどうしようもない刀なんだろうが……まぁ、いい。でも、少しはマシになったつもりだ。あんたが……ああ、このラジオはもう、全員が聞いているんだってこと、昔話のせいで忘れてしまっていたな……審神者が、叱ってくれて、支えてくれて、諭してくれて、教えてくれて、一緒に……考えてくれて……それから、……仲間が……ああ、俺は頼りっきりだな……おんなじだ。みんな、俺におんなじことをしてくれた。それで今日もこうして、ラジオができている。……ありがとう。……らしくないことを言った……。さて、ここからは連絡事項だ。今日の近侍は……、一期一振。馬当番は今剣と岩融、畑当番は歌仙兼定と御手杵。そして手合わせは……特例で、三人、鶴丸国永、大倶利伽羅、山姥切国広、だ。朝食はいつも通り七時から。遅れないように。……特に明石と鶯丸と御手杵。何回も言わせないでくれ……。さて、今日はいい天気になりそうだな。と、いっても、暦が夏だから、審神者がそれに合わせてくれているんだが。……暑いから、……そう、なんにもなかった頃みたいに……ずっと、暑くも寒くもない、なんでもない景趣でも……俺は別に……いや、なんでもない。古臭いことばかりで、最近来た刀たちには申し訳ない放送になった。……これで、七百三十一回目の本丸ラジオを終了する。以上、山姥切国広がお送りした」
山姥切はカチリとマイクのスイッチを落とすと、一息ついて、東の空を見上げた。この季節だと、もうずいぶんと日が昇っている。冬の凍えるような寒さも堪えるが、夏の厳しい暑さも、それなりに堪える。こないだ鍛刀でやってきた大典太が熱中症になって無言で倒れたばかりだ。看病はたしか同じ時期に鍛刀された兄弟のソハヤノツルキではなく、何故かはじめから仲がよくて、経験も豊富な前田がやっていたのだったか。山姥切はどうしてあのふたりが、と、疑問に思いながらも、朝食に遅れないように、と、櫓を降りた。
一章 コマーシャルフィルムに、なんでもない日常
朝餉の席には、勿論審神者もいる。形式上でも上座に座っておけ、という鶴丸の計らいで、審神者だけはいつも定位置で、食事をする。ちらりと見た審神者の左手首には組紐がついていた。橙の紐に鈍い黄金の千日紅の紋がついているやつだ。それは約一年前に山姥切がお守りのお礼に、と、審神者に買ったものだった。山姥切の神気で、軽い健康祈願のまじないをかけてある。といっても、専門ではないので、現世で気軽に買える量産型のお守りと同じ程度にしか効果を発揮しないという、ありきたりなものだ。それでも審神者はそれをずっとつけていてくれる。そのことが、どうして、胸がさざめくような気持ちにさせる。それがどんな名前の気持ちなのか、山姥切には、わからない。それから、審神者は前の人生のうちに現世で通っていた中学の制服を、いまだに着ていた。町のなんでも取り扱っている服屋で、わざわざ取り寄せたのだそうだ。白地に紺襟のセーラー服だが、夏なのに長袖で、膝下までのスカートに、白の長いソックスをはいている。暑くないのだろうか、と、山姥切は思うが、審神者の肌というものを、そういえば山姥切はちゃんと見たことがない。冬はその上に厚手のカーディガンを羽織るし、ソックスが黒タイツになるのだったか。はじめて出会った頃は半袖だった気がしなくもないのだけれど、そのあたりはそれどころでなかったし、人間の姿かたちというものに、あまり頓着がなかったからよく覚えていない。寝巻は大きめの一重で、指先まで隠れてしまう。風呂も、はじめの頃は大倶利伽羅が面倒を見て、鶴丸も何回か一緒に入っていたが、本当に初期だけで、刀が増えてからは審神者入浴時間が設けられた。審神者は「別にいらない」と言うのだけれど、鶴丸を筆頭に、見識がある刀を中心とした他がうるさいのだ。山姥切は一緒に風呂に入ったことがないので、別段気にも留めなかったが。
それから、仲間が増えたことによって、それぞれの刀剣の関係性というか、交友関係というか、仲が良い、悪い、そりが合う、合わないというのも、なんとはなしに見えてきた。別段、山姥切はそういうことに頓着していなかったのだけれど、同じ部隊に組み込まれたり、一緒に朝餉や夕餉を食べたりしていると、自然と、僅かではあったがそういうのが見えてくる。違う刀派であったり、同じ家にあった経歴がない刀だったりと接触しないというのは不可能なので、それぞれの性格によって、実に様々な関係が構築されている。たとえば歌仙と日本号あたりがめずらしい組み合わせだ。日本号は目利きの幅が広いらしく、歌仙が何か買い物にゆく時は必ずと言っていいほど誘われていた。まあ、歌仙は黒田にゆかりのある小夜を通して誘って、さらには小夜もその買い物に随行しているようだったが。それから、明石国行と鶯丸なんかはよく一緒に部屋にいる。明石は鶯丸の飲むお茶や茶菓子が目当てで、鶯丸は明石のなんでもないひとり言やくだらない噂話が好きらしかった。そこに平野がおずおずと遊びに行ったり、鶴丸を叱った後の一期一振が息抜きに顔を出したり、さっきまで叱られていた鶴丸が遊びに行ったりするのだから、どこがどう絡まっているのか、その全貌はどうにも、掴めない。
そして山姥切は自分が近侍でないという日常に、もうずいぶん慣れたな、と、息を吐いた。はじめは自分が近侍であるのが当然と思っていたのだから、救えない。審神者はそのあたりを気にした風をしない。ただ、山姥切は審神者をいっとう、大切におもっている。審神者がどうなのかは、知るすべがない。知ったところで、何が変わるのだろうとも、思う。審神者がたとえ鶴丸か大倶利伽羅を一番に想っていたところで、他の刀を一番に想っていたところで、山姥切の一番は、顕現した兄弟のどちらでもなく、審神者でしかない。それがすべてで、それが日常で、それが、未来だ。山姥切がそんなことをぐるぐると考えていたら、隣にいた堀川が声をかけてきた。
「ねえ兄弟、今日は午後からは第一部隊の隊長で出陣でしょ?どこ行くんだっけ。僕は昼から遠征で、ここの午後はいないからさ」
「……墨俣だ」
「あそこはこのあいだ検非違使が出たぞ!気を付けるがいい!」
「……わかっている」
「そういえば俺も第一だったなあ、あ、伽羅坊も。なんか珍しいなあ、この三人が同じ部隊だなんて」
「……はじめの頃は日常だったろう……」
「そりゃあ、数が少なかったんだから、当たり前だ」
はじめ堀川の言った「ここの午後」という単語が頭の端にひっかかったが。そんなことよりずっと気になることなんて、この食卓には山のように転がっている。世話焼きの兄弟と、声の大きい兄弟に挟まれたテーブルから少し離れたところに鶴丸がいて、その正面に大倶利伽羅がいた。大倶利伽羅は一言だけ口を挟むと、無言で味噌汁をすすった。その隣は長谷部で、その正面は薬研だった。出陣の命は前日のうちに第一部隊と第二部隊に知らされており、基本的に第三部隊と第四部隊で遠征をするのだ。けれど山姥切は、古参であるはずなのに、遠征の部隊には組み込まれたことがない。何故なのだろう、と思ったが、詮無いことだ。それよりも今日の第一部隊のメンバーは、と山姥切が思い出そうとしたところで、あれ、この広間、こんなにテーブルが長くなっていたのか、と、気が付いた。皇室御物も織田も豊臣も徳川も、どこの家の刀も勢ぞろいで、さらには古今東西の刀派が入り乱れて朝餉を囲んでいる。山姥切にとっては兄弟の真ん中が指定席のようにはなっているが、変えようと思えば好きな席に座ることができる。鶴丸は織田の刀が集まっているところにいる時もあるし、こうして大倶利伽羅の近くにいることもあれば、皇室に献上された経歴のある刀の隣に行くこともあった。やっぱり鶴丸でも刀を選ぶのだろうかと思うと、こないだなんかは一番強面で最近鍛刀されたばかりの三池の間にちゃっかり居座っていた。兄弟の堀川だって、山姥切が遅くなったり、もしくはその日の気分だったりで新選組の刀たちのもとへ行っている。山姥切も近侍に任命されれば審神者の近くに座るがしかし、今日は随分、その姿が遠い。いや、遠いのではなく、テーブルが長くなったぶんだけ、遠くなったのだ、と、山姥切は気が付いた。
審神者はこの一年間、政府から山のように寄越される指令も、テストも、すべて「秀」を修めつづけ、戦績も随分、あげた。今日だって、山姥切がしくじらなければ、いい戦績を政府に報告できるはずだ。けれど、いったいそれで、なにを残せる。山姥切はいつも思う。いったい、山姥切だけが知る名前の、真名の、そしてその前の名前の、何が残るのだろう、とも。
コマーシャルフィルムに、一年間をのせて
山姥切は、木刀や長柄物が増えた道場の空気を吸って、ああ、血が冷たくなるようだ、と、思った。この面子でやるのは久しぶりだ。鶴丸とやるのも、大倶利伽羅とやるのも、そういえば、いつぶりだろう。普段は気分転換や、なんの当番でもないし暇だからという理由で勝手にやり合う連中を除けば、手合わせにはふたりしか配置されないし、山姥切は兄弟か、同じ打刀で遅く来た長曽祢か、加州、大和守、たまに鳴狐とやる程度だった。新しく来た刀と一番にやり合うのは鶴丸と決まっていたし、練度が上がったら大体大倶利伽羅が相手をするか、同じ刀種だったり、刀工だったり、繋がりのあるものと組まされていた。けれど戦場で大太刀や槍と戦うこともあるので、そのあたりは勘が鈍らないように調整されている。驚くほど緻密に、調節されている。
「いやー久々だなあ。この面子は。ちょうど、一年前くらいはいつもこの面子だったなあ」
「……なんだ、お前が進言したんじゃ、ないのか」
「いや、俺はなんにも。切国か?」
「……俺も何も言ってない。大倶利伽羅と同じで、あんたが言ったものだと」
「まあいいさ。『昔』を思い出しながら、楽しもうじゃないか」
鶴丸はそう言うと、大倶利伽羅と山姥切の背を押した。それで順番は決まりだった。ふたりは掛けてある木刀を手に取り、真ん中で向き合った。大倶利伽羅は変わらず抜刀の構えで、山姥切は左足前の、左上段の構えをした。一年かけて、これが一番自分に合った構えで、一番自分を生かすことのできるスタイルだと、わかったから。
「……俺相手に上段か」
剣道では、上手相手に上段は無礼にあたるとされていた時代があった。大倶利伽羅はたしかに一年前、上手だった。何ヶ月か前、最後にやり合った時も、山姥切が三十回やって、二十八回負けた。練度は同じくらいか、山姥切の方が上であったはずなのに。けれど今は、大倶利伽羅の問いかけに、山姥切は何も応えなかった。切っ先も震えない。ただ静かに、これからたおす相手をみつめている。大倶利伽羅は上等だ、と、金目を鋭くした。
先に動いたのは大倶利伽羅だった。挑発ととったのかもしれない。逆袈裟の重たい一撃が、振り上げられる。山姥切はそれをすぐに見切り、正面から受けず、木刀を傾けて勢いを殺し、さらに重たい上段からの二撃目がくるその間隙に、その体勢から少しばかり脚を工夫して、右腕ひとつで大倶利伽羅のほんの僅かに空いた左肩に刺突を食らわせた。傍から見れば軽い一撃だろうに、それだけで大倶利伽羅は木刀を取り落とし、唇をかんで肩をおさえた。片手といえど、右足に体重が乗っていれば、かなりの威力になる。外れはしないが、痛みと痺れをどうこうするには少しばかりかかるだろう。
「次だ」
山姥切の声はひどく通った。いつか、大倶利伽羅がやったのと、少し似ている。山姥切は、そういえばあのあと鶴丸に長々と説教を食らって、さらに木刀でなく、重い一撃も、食らったのだったか、と、息をついた。
鶴丸は少し笑いながら、大倶利伽羅と交代をした。そうして、山姥切の前に立ち、正眼の構えをとった。山姥切はやはり、左上段。今度先に動いたのは山姥切だった。切っ先を素早く切り返し、木刀を倒して、当たらないとはわかっていても『殺す』つもりの体重を乗せた刺突を鶴丸の胸の真ん中へ放つ。やはり鶴丸はそれを読んでいたといわんばかりに軸足を中心にひらりとかわし、そのまま山姥切の腕へと木刀を振り下ろす。山姥切は瞬時に左手に木刀を持ち替え、それをかわしたのち、一瞬で正眼に構えて木刀を横に薙いだ。ひらり、ひらりと、ふたりの装束が風を切る音が幾重にも重なり、二人の打ち合いは長くなる。しかし不思議と、木刀が交わることは少ない。どちらも力より速さが勝るか、技術が勝る刀だからだ。そうしているうち、ほんの、ほんの一瞬だけ、鶴丸に隙ができた。山姥切の逆袈裟と、横薙ぎの連撃ののちの、ほんの、わずか。次はどちらが、と、どちらにも備えられた鶴丸の体捌きの、隙間だ。そこにあやまたず、山姥切の全体重が乗った刺突が吸い込まれてゆく。その瞬間に、鶴丸が満足をしたように、笑った、かに、山姥切には、視えた。果たして鶴丸は道場に仰向けで倒れ込み、詰まった息を吐き出してから、はは、と、笑いをこぼした。
「ああ、強くなったなあ」
いつかのように胸を突かれた鶴丸が、天井を仰ぎ見ながら、静かに言った。
「……そうでも、ない」
「つよくなったさ」
「……」
それで今日の稽古はおしまいだった。午後には出陣を控えている三人だ。普段、審神者はこういう組み方を、しない。付喪神といえど消耗はするので、出陣する刀は、手合わせには配置しないのだ。そして、もう三人で稽古をすることは、きっとない。あるとしたら、それはきっと、この本丸最後の日で、だから、この三人なら、こんなことに、時間を使ったりは、しないのだ。
コマーシャルフィルムに、誰にでもある重たい過去、とか
審神者には、一振りだけ呼び出せない刀があった。正確には鍛刀で顕現させられる刀では、まだ二振りほど顕現させられていなかった。一振りは天下五剣のうちの一振り。そちらは山姥切や鶴丸の反対で召喚していないのだけれど、問題はもう一振りだった。伊達家に伝来し、徳川に嫁入りをした、その刀。大倶利伽羅や鶴丸と関係の深い、その一振り。審神者は仮初とはいえその姿を目にしている。しかし、顕現させることができない。それが異質なものだったからとか、違う霊力を持ったものだったからとか、そういう理由ではないということを、大倶利伽羅からぽつりぽつりと経緯を聞いた鶴丸がいつか山姥切にも、と話をしたことがあった。もう四ヶ月は前になる頃の話だ。
「人間って生き物はさ、心っていう、脳にあるのか、心臓にあるのか、どこにあんのかわかんないくせに厄介なもんを持ってるんだけどさ、まぁ今の俺たちにもあるもんなんだけどさ、審神者がその刀を顕現させられないのは、心の病ってやつだろうなあ。――を呼び出そうと鍛刀する時は、PTSD……心的外傷ストレス障害の症状が見てとれる。薬研にも相談をしたが、まぁそうだろうという話だった」
山姥切は心的外傷ストレス障害、で、情報を手繰り寄せた。そうしてから、山姥切はそのとき、やはり、脳の病なのでは、と思った。資料や文献にはそういう風に記載されている。けれど、その刀を鍛刀なんて、していたか、と疑問に思った。
「あいつ、俺のためなんだか、伽羅坊のためなんだか、鍛刀場に、お前には告げずに、……ああ、お前が戦場に行ってる時が多いな。まぁとにかくお前がいないときに、俺か伽羅坊、もしくはどっちも連れてくことがあるんだよ。前日は多分、ほとんど眠れてない顔で。それで、がたがた震えながら、祈るんだ。そんとき、多分フラッシュバックしてんだろうなあ。殺意とか、生き物の流した血とか、目の前で命が奪われる瞬間だとか、そういうのを……」
「なんで今まで言わなかったんだ!?」
山姥切が激高して、なんでもないように語る鶴丸の胸倉を掴むと、大倶利伽羅がその腕を掴んで、「お前が大事にする、審神者に口止めされていた」と、言った。それだけで山姥切の手からは力が抜けて、鶴丸は「あーあ、皺になった」なんてへらへら笑う。けれどそれが表面上のものだってことくらい、山姥切にも、わかった。
「……っ」
「……あの審神者は優しいんだ。でも、優しすぎるんだ。誰かが傷つかないために自分が傷ついて、誰かが寂しくならないように、自分を寂しくさせるんだ。なあ、切国、お前だって、わかってただろう。幾日かちゃんと眠れていないのを、お前がわからないはずがない。そういう時は、共寝していたじゃないか。なのに、その理由を、尋ねないんだ。わかってて、審神者に寄りかかってたんじゃ、ないのか」
山姥切は、返す言葉もなくて、うつむいた。たしかに、月に何度か、審神者が体調を崩す時があった。誰かに助けてほしそうに仕事や勉強に没頭している時があった。けれど、山姥切はその理由を聞くのが怖くって、ただ、緩衝材になることしか、できなかった。「大丈夫か」だとか、「根を詰めるな」だとか、ありきたりな言葉しか、かけられなかった。そうしたら審神者は、「大丈夫」と紙に書くのだ。山姥切はそれを嘘とわかって、ただ、「……今夜は一緒に寝よう」としか、返さなかった。その場にいるふたりだけの会話で、山姥切の手のひらに、背中に、とにかく身体のどこにも書かれない文字は、心にないと、わかるから。その文字にひかりがないと、それはさらに、そうなのだ。
けれど、山姥切がどこをどうしたって、人の心は砕けやすい。ちゃんと、受け止めるだけの覚悟があっても、ちゃんと受け止められる保証は、どこを探したって、ないのだ。
その問題の刀について、山姥切は今でも別段、呼び出す必要はないと思っている。けれど審神者は気にしているのだ。鶴丸と大倶利伽羅のために。それから、最近政府と契約したらしい刀も、伊達に縁があると聞く。顕現させられない刀は、この本丸では、大倶利伽羅の次に伊達に長く仕えた刀だ。そう考えると、鶴丸という刀は約二百年共にした安達家を除けば本当に各所を転々としているなあとしみじみ、思う。家の繋がりというものは、やはり強い(こわい)のだろう。大倶利伽羅が発するノイズと、鶴丸が発するノイズには違いがあったし、それは他の刀が発するその名前の、どれともノイズが違った。渾名を付けるのは、関係に意味を持たせるということだ。だから、鶴丸も大倶利伽羅も、口では審神者に「もう止せ」と言いつつ、どこかでその刀を待ちわびている。そのことがわかるから、けれど審神者の怖い想いもわかるから、山姥切は頭を抱えるしかなかった。そんなんじゃ、いつまでたっても、弱いまんまだって、わかっているのに、そうするしかないのだ。頭でわかっていても、身体がいうとおりに動かないのは、きっと心っていうものが、邪魔をしているのだ。だから、審神者の病気はやっぱり、心の病なんだ、と、山姥切はわかってしまった。わかっていたことを、再確認しなければ、いけなかった。
山姥切は出陣するための門を開いてから、ふと、そんな四カ月も前のことを思い出した。その日の午後は予定通り、山姥切が隊長で墨俣への出陣があった。部隊を構成するのは、鶴丸国永、大倶利伽羅、厚藤四郎、同田貫正国、骨喰藤四郎だ。練度は山姥切と大倶利伽羅と鶴丸が頭ひとつ抜けていて、骨喰が他より少し低い。多分骨喰は墨俣へ出陣したことがないから、数回経験のある刀も含め、念のために練度の高い三振りをつけて、という具合なのだろう。このあたりは今朝山伏が言っていた通り、もう検非違使の出現も確認されていて、すこしばかり危険な戦場だった。編成に無理はないが、短刀の厚を入れるのであれば、打刀の代わりに太刀か大太刀がもう一振り欲しいところだ。しかし今日は連携もうまくいって、骨喰も臆することがなく戦えていたし、刀装が完全に欠けることもなかった。そしてひとりの負傷者も出さず、歴史遡行軍相手に完勝をした。検非違使が出なかったのも幸いだ。
けれどほっとしたのも束の間、戦いの終わったそこで、山姥切は見つけてしまったのだ、行き場のない、一振りの刀を。真黒の拵えに、濃紺に近い下緒、金の鍔、山姥切の見たことのない刀のうちの、一振りだった。それが何を意味するのか、わからないわけがない。山姥切は普段はなんてことないようにその刀の鞘を手に持つのに、今日ばかりは、他の、鶴丸と大倶利伽羅以外が首を傾げるほど緩慢な動作で、怖いものに触れるように、やっとのことで、鞘に触れた。そして拾い上げた時、下緒が手の甲をかすめて、それに肩を震わせた。鶴丸と大倶利伽羅は、なんにも言わない。怖いくらい、なんにも言わなかった。喜べばいいのに、それすら、しなかった。山姥切でなく、審神者を気遣っているのだと、すぐにわかった。らしくなく骨喰が、「どうした」と冷たい声をかけるまで、山姥切はその刀を手に、棒立ちになっていた。厚も、同田貫ももう門を開いて本丸に帰還していて、山姥切と大倶利伽羅と鶴丸、そして事情を知らないだろうけれど、人の心の機微に鋭い、骨喰だけが残っていた。
「……なんでも、ない。先に門を通っていてくれ。少ししたら、行く」
「……わかった」
骨喰は短くそう言うと、すぐに門へと消えていった。残された山姥切は、鶴丸と大倶利伽羅に、「……喜ばないのか」と尋ねた。ふたりは、憮然として、黙っている。その沈黙こそが応えで、山姥切は、もう、門をくぐらなければならない。本丸へと続く門を、この、新しい刀と共に。
コマーシャルフィルムに、複雑な心境
「大将、やっと完成したぜ」
山姥切率いる一軍が出陣して、その後和泉守が練度の低い三池二振りと中程度の前田、明石、それから和泉守と同じくらいの練度になった蛍丸を率いて戦場に出たのを見計らって、薬研は部屋に審神者が呼び出した。自分から出向いてもよかったのだけれど、一応これも診察や治療のうち、と、線引きをして、薬研は審神者を自室に呼んだのだ。
薬研の部屋だけは襖をとっぱらい、二つの部屋を繋げて一つにしてある。この審神者は訳あって政府の医療機関にはかかれないと鶴丸に聞いた薬研が、部屋の拡張をして、診療所のようにしたのだ。刀剣も人の身体を持っているため風邪をひくし、熱中症にもなるし、手入れのいらない程度の傷は薬研が診るので、誰も不平不満は言わない。それに片方の部屋はもはや書籍の山と、患者用の寝台で埋まっていて、なんなら薬研の寝起きする場所も、薬を作る道具だとか、その材料を保存する瓶や入れ物で混んでいた。だから、むしろもう一部屋、薬研のためだけの部屋を与えたほうがいいのでは、という声があるくらいだ。審神者も給金に余裕が出てきたから、「薬研の部屋、作ろうか?」と言うのだけれど、薬研は「俺はこの部屋が落ち着くんだ」と言って、それを望まなかった。ちなみにここは鶴丸の部屋の隣ではない。薬研の神霊が抜けると共に、薬研は部屋を移動した。その時に「なあ、多分色々必要だと思うから、俺には二部屋くれないか」と薬研が進言したのだ。だから薬研の部屋は手入れ部屋の一番近いところにある。
薬研は薬瓶に入ったそれを手にして、「結構かかったなあ」と、少しだけ笑ったが、すぐに、憮然とした。これは審神者の喉を治すための、正確には今よりまともな状態にするための、薬だ。
「鶴丸の旦那の見立てだと、一時的なもんだって話だったが、よくよく観てみると、ちょっとばかし、いや、かなり凝ったもんだった。……結論から言う。完全には治らない。大将のもとの声を、俺は知らないしな……。政府の作ったもんは……そうさな、悪質、だ。人間には心ってもんがある。その心を伝えるために文字があり、絵があり、映画、テレビ、ラジオ……そして、言葉がある。大将の飲んだ薬は、いわば神気の塊。その神気が、大将の声を発しようって動く心に、蓋をしてる。その気持ちを、無かったことにしてるんだ。だから、その神気をどかさにゃならん。が、それは一介の付喪神の神気じゃ、どうにもならん。ただ、……大将は、まぁ、特別だからなあ。切国の旦那の神気と、大将の霊力を掛け合わせて、それからそのふたつと一番繋がりの深い鶴丸の旦那の神気を足して、薄めることはできそうだった。もとの厚さが岩盤くらいあったとしたら、この薬でオブラート一枚くらいまでには、薄められる。厚さだけは、な。けどそのオブラート一枚が、きっと、大将には、重要なんだと、俺は思う」
審神者はするりと視線を薬瓶にうつして、それから、ふと、逸らした。下へ。祈るように身体の前で手を結んで、ひらいて、またむすんだ。薬研には、その意味を知るすべがない。薬研はこの審神者に出自を、鶴丸から聞いた。才能がないけれど、時の政府からの緊急要請で、数が足りなくて審神者にならなければならなくて、そのための霊力の代償として声を奪われたのだ、と。そんなのは嘘だって、すぐにわかった。分霊となった薬研には、神霊のもとで培った膨大な知識がある。手繰ればいくらでもわかる。審神者の頭数が足りないなんてのは、まず嘘で、しかもこの年齢の、義務教育も終わっていない、霊力の素質もない子供を、審神者に選出する理由がわからない。たとえ審神者の頭数が足りないのが事実だとしても、物事をそれなりに判断できるくらいの年齢、せめて現世でいうところの成人を選出するのが効率的だ。そうして、声を犠牲にするのなら、その承諾も本人の意思決定で行われなければならない。この子供(薬研もとる姿は子供のそれだが)に、そんなことを判断できるほどの器量があるとは、少なくとも薬研には思えなかった。判断というのはむやみに物事を決定することを指しているのではない。きちんとリスクとリターンを考えて、その他色々な要素から総合的に最善であるかもしくは己の得となる決断、あるいは損になるとわかっていても先を見据えてその毒を飲むことができるかどうかを指している。この審神者にはきっと、まだそういうことはできない。できていないから、今のこういう、ふわふわとした、平凡で、諍いの少ない、表面だけ笑っているような、そんな本丸が出来上がっているのだ。
そして、この本丸の初期刀の神気が、少し異質で、この審神者の霊力がそれに似ているのにも、勿論気づいている。むしろ、気づいていない刀なんて、いないんじゃないか。みんなわかった上で、この審神者の声なき声に、従っているのだ。そういう契約で、というと形式的すぎるから、約束で。鶴丸も薬研のあとの刀には巧妙な嘘と真を織り交ぜた文句を教えているらしいが、鶴丸本人だって、見抜いてくれ、と、言わんばかりのものでしかない。神格が上になればなるほど、もっと、わかることがあるらしいが、兄である一期一振も何も言わないし、こないだ熱中症で倒れて担ぎ込まれた、この本丸で最も神格の高い大典太にそれとなく探りを入れても、なんにも答えやしなかった。もっとも、大典太は本丸に来たばかりで、まだそこまで知らなかったのかもしれないが。江雪にしたって、鶯丸にしたって、きっと答えてはくれないのだろう。源氏の兄弟刀も、そろそろ神格が上がるだろうが、同じように口を閉ざすに、決まっている。なぜならそれはきっと、とても大切なことで、けれど言霊にしてしまったら本当に、本当のことになってしまうから、誰もが口を閉ざすような、そういうことなのだ。
だからこそ声が出せるようにはなるし、出せないままでも、問題は起こらない。薬研は欠けた記憶に、何かあるかもしれないと思ったが、それに意識を集中させても、思考がぼやけるだけで、ちぐはぐな記憶が完成するばかりで、なんにもならなかった。だからせめて、と、作ってみた薬ですら、もしかしたら審神者を苦しめるのかもしれない。
「……一年かかっちまった。もう本丸にいる刀は、大将のものの伝え方に、慣れてる。これからくる刀にだって、そうなんだって、教えりゃいい話だ。だから無理してこの薬を飲むこたあ、ない。ほんとうに伝えたいと心から願ったなら、大将の霊力だけで、ずらせる岩盤だ。ただ、一応作ったから、……頼まれて、作ったものだから、これは大将に渡しておく。けど、飲むも、飲まないも、大将が……いや、大将と……切国の旦那で決めてくれ」
薬研はたしかに頼まれたのだ。けれど、誰に頼まれたのか、どうしたって、思い出せなかった。薬瓶はひんやりとしていて、透明な液体だけが入っていた。光に照らせば、少しの金粉が視える。この審神者の霊力も、山姥切の神気も、それだけ透明で、鶴丸の神気だけが、僅かに目に映る。それを冷たいまま、審神者に手渡すことは憚られた。けれど審神者はそれを大切そうに両の手で受け取って、唇だけで、「ありがとう、あったかい」と言った。薬研は静かに手を伸ばして、自分より背の低い審神者の頭を、撫でた。
コマーシャルフィルムって、少し傲慢なところがありません?
山姥切は審神者の部屋へ出陣の報告と、拾った刀を渡すためにやってきたのだけれど、どうにも、うまくゆかなかった。その刀を目にしたときの審神者の表情を、山姥切には見切ることができなかったのだ。それははじめ、嬉しそうに、視えた。けれどその奥底に、言い知れぬ恐怖と、困惑と、重々しいなにかがあった。そして見る間にそれは怖いように染まっていって、山姥切はすぐに刀を脇に置き、「触るぞ」と断ってから、審神者の手を取った。本当は胸の中に閉じ込めてしまいたかったのだけれど、それでは表情がわからない。これから、大切な話をしなければならないのだ。
あの日、本丸の中で何が起こったのかは、大倶利伽羅だけが全部を知っている。鶴丸はその残骸だけを見た。そして山姥切は、なんにも視えてや、しなかった。だから大倶利伽羅から鶴丸が実際の詳細を聞いて、鶴丸から山姥切が聞いて、概要は知っている。つまるところ、なにも知らない。何をされたのかではない。審神者がその時何を思ったのか、何を感じたのか。そういうところがすっぽりと抜け落ちている。心というものは、そこに在るくせに、目に見えないから、厄介だ。
山姥切は逡巡ののちすぐに「やめよう」と言った。
「この刀を目にしたのは俺と、今日の第一部隊の連中だけだ。同田貫と厚は本隊を倒したらすぐに門をくぐったからまともに見ていない。他の刀だったと言えばいい。骨喰は話のわかるやつだし、大倶利伽羅と鶴丸は全部知っているんだから、拾わなかったことにも、顕現に失敗したことにでも、なんとでもできる。そうしたって、わかっていたって、あんたを、あんたを責めたりなんて、しないんだ」
残酷だ。ひどい神様だ。鶴丸のことも大倶利伽羅のこともなんにも考えていやしない。自分と、残酷ないのちを与えた審神者のことだけを、考えた、ひどく軽薄な言葉だった。山姥切もわかっている。わかっていて、その上で、審神者のことを優先した。眠れない夜を過ごさせるのも、怯えさせることも、なんにも怖いことなんてない方へ、苦しいことのない方へって選択肢を、与えたのだ。それを、この審神者は選ばないってことも、わかっていた、はずなのに。
審神者はやはり、首を縦には振らなかった。ただ、かよわく震える手で山姥切の手をはなし、無造作に投げ出されたうつくしい刀に手を伸ばした。その指先は、震えている。山姥切が息をするのも忘れる中で、審神者はその刀をやさしく握りしめ、目を閉じた。そうして、両手で持ち上げ、額にその下緒のあたりをおしつけて、丁寧に畳に置き、山姥切の手をとった。そうしてその手のひらにしみこませるように、文字を描いてゆく。山姥切はその感覚がいっとう好きだ。けれど今はそれが好きだと思う気持ちは、どこかへやらなければならない。どうしてあんたはそんなに優しいんだって、自分を捨てるんだって、怒鳴りつけてやりたかった。けれど、捨てるわけじゃないんだってことも、ぼんやり、わかっては、いた。
『ひと晩、待って』
「ひと晩で、いいのか」
『ただ、今晩は、ずっと、一緒にいて』
「それだけでいいのか」
『山姥切国広は、つめたいのに、あたたかいから』
「……あんたも、つめたいのに、あったかい」
山姥切が震える審神者の指が離れてから、逃すまいとその手を握ると、やはりつめたかった。審神者は目を伏せて、少しだけ笑ったように、山姥切には見えた。だから、やっと、「あんたは、優しすぎる」と、ぼそぼそ言った。自分勝手な神様だ、と、自分を罵りながら。
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