ふたりでいつかひとになろう cours2(2)




二章 信じるまなかに、嘘がある はじめはノーヒントで

翌日も普段どおり、ラジオの放送からはじまった。山姥切はいつも通りに放送を終えたが、なんだか、落ち着かない気持ちが、そこにあるとわかっていた。原因はひとつ。今日の近侍が、山姥切でなく、鶴丸であること。

今まで特例を除いて、こんなことはなかった。が、しかし、普通がこれなのだとも、わかっている。いつまでも毎日同じ刀を近侍にする審神者の方がめずらしい。それに今日は鶴丸が近侍の方が、都合がいいとも、理解している。昨晩の夕飯の折、今日は山姥切と大倶利伽羅で函館、会津、宇都宮、鳥羽までで、できる限りの回数、出陣しようという話になっていた。その間、審神者の護衛は鶴丸。それならば、鶴丸を近侍に置くのが、得策だ。

審神者ははじめこそ門の前に立たねば開門できなかったがしかし、怪我を回復している間に勉強したのだろう、今、山姥切の懐には、「開錠」と書かれた木札が四枚入っている。行先は先にあげた四つの時代。これがあれば、刀剣だけでも、門を開き、指定された時代へと渡ることができる。

「慢心も、散漫も命取りだぞ」

大倶利伽羅に心の内を読まれ、山姥切は布を引き下げた。そうして、刀の露を払うように、その残った心を、散らした。そうして山姥切は静かに目を閉じ、聞こえるはずもないが、と思いながらも「行って来る」と、ぼそり、呟いた。懐に感じる、審神者の霊力をたよりに。


二章 信じるまなかに、嘘がある ヒント、日本語ではありません

午前の二時間で、審神者はふたつ、審神者用の教科書を読み終えた。鶴丸もその横で、現世の書物をひとつ、読んでいた。古い時代の、神道に関わる本だ。今後のためにいくつか習得しておきたい術があったものだから、買い物の折にそれを仕入れた。使うのは何年後、いや何十年後になるかわからないが。

そんな鶴丸の袖を、審神者が引いた。なんだ、と鶴丸が視線を上げると、審神者は「鍛刀をしたい」と書かれたメモ帳を手にしている。鶴丸は昨日の今日でこれか、と、思わなくはなかったが、しかし、こうるさい山姥切がいない間に、というのは、まあ都合がいい。

「刀種は何にする気なんだ?また打刀あたりか?」
『短刀を』
「ふうん。きみが読んだのは……なるほど、基礎と、実戦編のやつか。一応理由を聞こう。なぜ短刀を?普通の戦なら、即戦力になるのは太刀や大太刀。練度を上げれば槍や薙刀。短刀は速いが、力やとる姿の関係で、それらに劣る。それなのにどうして君は短刀を?」
『太刀も大太刀も、槍も薙刀も、夜戦では不利。夜目の効く打刀だけでも危険。夜戦で一番強いのは、短刀。遠征も、今行ける場所は短刀に限られている』
「君はほんとうに記憶力だけでなく、頭もいいな!今だけじゃあなく、ちゃんと未来のことも考えてる。今しか視えてない誰かさんに見習わせたいものだ。じゃあ、まぁ、鍛刀しに行くか。武装をするから、すこし待ってくれ」

鶴丸はそう言うと、すぐに自室に戻り、戦装束に着替えた。そうして、審神者の後について、鍛刀場へと向かう。この審神者は今度、何を願うのだろうと、そんなことを思いながら。

審神者は手順を踏んで、鍛刀をはじめた。打刀だとだいたい、一時間半か、神格が高ければ三時間、太刀なら三時間から四時間もの時間がかかるが、短刀を呼び出すのは、それよりずっと短い時間しか、かからない。四半刻もかからないのが常なのだが、鶴丸は妙な気を感じた。嫌な予感がする。時間に問題はないのだが、依代に集まる神気が、どうにも、妙だ。おかしい、と思った瞬間に審神者を止めようとしたが、間に合わなかった。例によって、神が顕現する。

「……強運か、悪運か……」

顕現したのは、少年の姿をした刀だった。制服のようなものを着こんでいる。鶴丸はそれが誰なのかすぐにわかったが、しかし、名を、呼べない。そして少年も、名乗りをあげない。鶴丸は刀の鯉口を切った。

「名は、理由あって、半分しか明かせない。号を『薬研』だ。半分の契約を結ぼう。これで俺はあんたに手出しはできない。が、ひとつの区切りがつくまで、本当の契約は結べない。あんたを正式な主にはできない。鶴丸の旦那、どうか刀をおさめてくれ。これは審神者のためでもある」

鶴丸は本当に半分、言ってしまえば仮契約のようなものが結ばれているのを確認して、刀から手を離した。そして、その神気の異様さ、しかし見慣れた異様さに、目を開く。

「神霊か……!」

薬研と半分名乗った刀は、言いあてられたことに少なからず驚いたようだった。

「そうだ、とも、そうでない、とも、言える。俺は薬研――の神霊であり、分霊。役目を終えれば分霊になる、神霊。そういう契約だ。だがここで審神者と本契約を結んでしまうと、分霊になれなくなる。詳しいアレコレは省くぞ。神霊と契約を結ぶのは、審神者にとってリスクしかない大博打……いや、リスクしかないんだから、博打にもならん」

薬研の説明に、鶴丸は頭を回した。そして、昨晩の新聞を思い出す。

「……なるほど、――――の神霊が政府と揉めているのは、薬研、お前の件か」
「わかりがはやくて助かるな。詳しいこたあ言えねえ。だが俺に関することで、――――の神霊が、今現在半分、闇落ち……いや、歴史改変側につこうとしている」
「そこまでなのか!?」
「そうなると、かなり危険だ。今呼び出されてる分霊どもが一斉に時間遡行軍に早変わり。本丸に突然時間遡行軍が入り込むことになる。俺に政府から与えられた命はひとつ。――――の神霊との、対話」
「いや、待て、話はわかるが、命令と繋がらん。対話してどうこうなる問題なのかはさておき、神霊の召喚は政府の専売特許だろう。そこで対話すればいい。なぜこの本丸にお前が来る必要がある」
「――――の神霊はもう、時の政府の召喚に応じない。だからどこかの本丸を通す必要がある。どこか、強い力を持った、――――の神霊を呼び出せる審神者の本丸。いや、正しくは俺が力を貸して神霊を呼び出すことになるから、神霊の力に耐えうる魂を持った審神者の、本丸」
「……綺麗な言葉を使うなよ。『死んでもいい審神者の本丸』の、間違いだろう。もしくは『政府的に死んでくれたらラッキーな審神者の本丸』」

薬研は少し、目を細めた。鶴丸は瞳孔を、開いた。

「時は残り少ない。が、猶予はまだある。そして鶴丸の旦那。俺の性質を、少しは考えてくれたって、いいんじゃあないか」

薬研は静かに呟いた。誰に届くともわからないくらい小さな声だった。「ただの人間の腹も切れないこの俺が、望んで人の子を殺すと思うのか」と。その瞳は藤色だったが暗く淀み、光を通さぬ不透明さがあった。短刀どもはみんな、どこかしらこういう目をしている。それが鶴丸は、少しばかり、苦手だ。


二章 信じるまなかに、嘘がある ヒント、英単語ひとつ

顕現した薬研は、仮契約とはいえ本丸に住むことになるので、部屋を決めた。鶴丸の右隣の部屋だった。

「俺の隣はいつかくる誰かのためにとっときたかったんだがなあ」
「まだ左隣があるじゃあねぇか」
「二振り、いるんだ」
「……大倶利伽羅はもう別にいるんだろう。一振りが――だとして、あと一振りはだれだ」
「教えられんな。まあお前も俺の隣にいるにふさわしい刀だ。今は、な」
「……なるほど。そういう選び方か」

そんな会話をしたあとに、薬研が審神者に向かって、「怪我してるんだろう。診てやる」と言った。その指は審神者の肩を指していた。

「それは助かる!いや、怪我をしたときにはおおうつけの近侍と、俺と伽羅坊しかおらなんだ。適切な処置もできずに困っていた。君がいたらと何度願ったことか」
「来るのが遅くて……しかもこんなかたちですまないな。まあ、俺に今更どうこうできるとは思えんが、現状だけでも診ておこう」

審神者は首をかしげて、紙に『お医者さんの刀なの?』と書いた。すると薬研は少し笑って、「いや、他の刀より知識があるってだけだ」と、答えた。

薬研は審神者の衣服の上だけを少し脱がすと、肩の痛みの具合、動く範囲、それから触れてみての感触を確かめた。そうして、至極残念そうな顔になる。

「状態が悪かった。この肩は……そうさな、リハビリをしたとしても、地面と平行くらいまでしか上がらんだろう。一生」
「……そうか……俺らがなぁ、ちゃんとした処置できてればなぁ……」

鶴丸はひどく落胆した顔になった。そして、自責をしているようでもあった。珍しく爪を噛んで、人の一生という長さを憂いている。

「いや、処置はそんなに悪かない。脱臼の処置はもっといいのがたしかにある。が、問題は骨折だった。鶴丸の旦那の話だと、脱臼と骨折を併発してたな。折れ方が悪かった。これはほんとうの医者にかかっても、上がらん怪我だろう。責めるべき相手が違う。そのおおうつけとやら、刀解されたのか?」
「いや、今は伽羅坊と出陣中だ」
「どうして刀解しなかったんだ。普通なら刀解になるような罪だぞ」
「……お前なら、会えばわかる」
「……ふうん」

審神者の前でする話でないと薬研もわかったのか、審神者に服を着せてやりながら、他の話へとそれをすり替えた。

「で、今まさにお前はこの審神者の寿命をさらに縮めようという鍛刀をさせようとしているわけだが。まぁ、これは審神者の意思だから、審神者の前で話をせねばなるまい」
「それもそうだ。神霊を呼び出すんだからな。人間の一生くらい、かけてもらわにゃならんくなる。すまない、と、心から思っている」
「すまないで済んだら色々と楽なんだが」
「そういじめてくれるな。俺も望んでこの役割を引き受けたわけじゃあ、ないんだ」

薬研の瞳が、うっすらと陰る。審神者は静かに、話の流れを読んでいた。

「本来、神霊の召喚は大人数の、それも精鋭でやるもんだ。それをこの審神者ひとりに任せようなんて、政府もひどく惨い真似をする。そんなに憎まれることをしたのか?うちの審神者は」
「そうじゃ、ない。本当はもっと力のある……いや、もうよそう。腹を割って話をしよう。本当はもっと生きることに執着のない審神者のもとへ、俺は派遣されるはずだった。そこに政府の意思は関係していない。俺が選ぶ。最期の花道として、と、言えば聞こえはいいが、まぁ、手軽に最期を迎えたいと願った審神者のもとへ向かうつもりだった。今度こそ、あんな苦しい思いはさせないために」
「前の主か」
「それもある。しかし人間ってのは、死にたがる生き物だ。やれ戦に疲れた、やれ関係に疲れた、やれ政府の要求に疲れた、やれ……この世界の闇に疲れた……そういうやつのとこに行って、介錯のようなことをして……いや、楽に殺してやって、そうして、――――の神霊と対話して、ことをおさめる心づもりでいた」
「ここの審神者はそんなやつじゃあないんだが」
「ああ、そうだ。……すまない、声が聞こえちまったんだ。『迷っている刀を』、と。俺は今更になっても、迷っていたらしい。大将の声に、聞きほれて、導かれて、ふらりと、この本丸に来てしまった。……対話でどうこう、ならないかもしれない。いたずらに命を削る……いや、奪うだけになってしまうかもしれない。そもそも、俺が、俺は、こうして存在しつづけていい刀なのか、と。――――の神霊を迷わせるだけの、そんな大きな存在じゃあないはずだ。そんな価値、俺にはないはずだ。正直、俺は迷っていた。いちの命も、千の命も、重さは同じなんじゃないか、と」

薬研は掌を額に押し当てて、俯いた。そうして、深く呼吸をする。鶴丸はこの刀は焼失したのだったか、と、思い起こしていた。本能寺の変。あのおおうつけと世間では言われる織田信長がこの世を去った、と一般的には言われているその事件によって、薬研もまたこの世から姿を消した。諸説あるが、その後豊臣に渡ったとも、徳川に渡ったともされている。しかし、これは通説ではないし、現世に薬研藤四郎と呼ばれる刀は存在していない。その神霊は、鶴丸の記憶では薬研の号の由来となった畠山政長の墓と共にあると聞いている。織田信長の最期を鶴丸は知らないが、果たして薬研を使ったかどうかは、あやしいものだ。アレは最期まで生きることを諦めなかったろう。だからこそ、薬研は護ろうとした、生きてくれと願った、畠山政長のもとに、今でもいるのではないかと、鶴丸は思う。

「俺は大将の命を奪うのかもしれない。主の腹は切らないと称賛された短刀が、お笑い種だな」
「『かも』だろ。まだそうと決まったわけじゃあない。すまない、審神者、あんたの命を軽視する発言を、俺はこれからする。だが本意でないことを……君ならわかってくれると信じている。……ひとつの命を救うために千が犠牲になることは間違っている。ひとつの命はひとつぶんの重さしかないからだ。千の命というのはひとつの命が千集まって形成される。それはひとつと考えてはいけない。数で見てはいけないものだ。その重さひとつひとつに、価値の違いも、ありはしない。人間は生まれながらに平等でないから、命という単位においてだけは平等を好んだ。だから、千を救うためにひとつの命が犠牲になることは、正しいとは言えないが、間違ってはいない。それを悔やみ、悼む気持ちがあり、その死に意味をもたらすことができるのであれば、と、少なからず俺はそう思う」

鶴丸は暗に言っているのだ。薬研、お前に――――の神霊を真直ぐな刀に打ち直す力があるのか、と。

「それから、――――は何にそんなに荒ぶっている。何がそうさせた。薬研、お前の関わることだと判明しても、うまく納得がいく答えを見つけられない」
「すまない。それは政府と――――の神霊との契約に関するものだ。呪がかけられていて、口にすることはできない」
「ならなぜお前の知るところにある」
「俺が知っているのは部分的に開示されたものだ。今回俺が関わってしまった。政府もその部分をつまびらかにしないことには解決しないとわかっていた。だから例外として、俺の神霊を選んだ。神霊のみへの開示だ。他の分霊は知るところではない。俺もこの役目を終えたら、自然のうちにその契約の一部を忘れることだろう」
「もうひとつ疑問があるんだが、何故神霊と神霊が交わった問題が起こったんだ?神霊とは普段、ただの『場』でしかない。そこにほとんど、意識はないものだと分霊である俺は思っていたが」
「鶴丸の旦那のとこはまだ他の五条の刀が顕現……いや、政府と神霊が契約していなかったな。だからわからないのかもしれない。粟田口や……国広でも、まぁ同じ刀派の、兄弟とされる神霊の間にはつながりがある。魂の繋がりってやつなのか、人間が持たせた繋がりなのかはわからない。けれど、その兄弟の繋がりってのは、どうにも強くてな。兄弟の異変は、『場』であってもわかっちまう。そして『場』は神霊として意識を持ち、ことを探ってしまうんだ。最近になって政府がそれに気づいて深いとこはロックをかけたが、今回の件で気が付いたんだ。間に合うはずもない。そして、そのロックは火に油だった。ことを知らない神霊どもはほんとうにただの『場』になり果て、意識を持つことはさらに減った。政府によって呼び出されても、どうも、情報に整合性が保てず、いちいち探らねば会話も成り立たない。神を貶める行為だ。だが俺は、いや、正しくないな。俺たちの神霊はそれを受け入れている」
「それが神を神たらしめるからだな。神は赦す。人の過ちを。人は過つものだから。それを導くのが神というものだ。しかし神は荒ぶる。人が過ちを重ねすぎるから、か。なるほど」

一通りの問答を終えると、鶴丸は沈黙し、薬研は口を開いた。今度は審神者に向かって。

「大将、他の審神者のため……じゃ、ないな。俺のために、新参の、まだ何も大将にしてやれていない俺のために、いのちを差し出すことは、できるか」

鶴丸はその問を、残酷なものだ、と思った。それは神の問いかけだ。人間には許されないが、神には許された問答。鶴丸はすうっと目を閉じた。自然と腕が組まれる。きっとそれと同じようにして、審神者も自然に答えを出すだろう。そういう、人間なのだから。

審神者は一呼吸おいてから、さらさらと、紙にペンを走らせた。鶴丸の買い与えたシャープペンシルだ。

『それがあなたの、薬研の、願いなら』

鶴丸はそのうつくしい文字を見て、人がすべからくこのような性質であったなら、どの神も荒ぶることなく平穏に時が過ぎていったのだろうと、思った。それから、それだけではこの世界は滅んでいたのだろうとも、思った。それだけではない。神と呼ばれるものは存在せず、人間だけですべてことが成されて、終わりを迎えたのだろうとも。

薬研は深々とこうべを垂れて、一言、「ありがとう」と、言った。この世で尊い、言葉のひとつだ。


二章 信じるまなかに、嘘がある 答えは「Believe」

その日の夕暮、長い出陣から戻った山姥切は自身のいない間に成立した契約に、ひどく憤慨した。どうしてこの審神者なのだ、どうして知らぬ刀のため、知らぬ審神者のために、世界のために、いのちを差し出さなければならない、と、ひどく。その暴れる身体は鶴丸と大倶利伽羅によって取り押さえられた。練度の上がった山姥切は鶴丸ひとりでも、大倶利伽羅ひとりでも取り押さえることはできなかった。山姥切の知らぬ間に顕現していた薬研は、その初期刀を見て、そうしてその在り様を見て、納得したのち、やはり深々とこうべを垂れた。今度は頭を下げる、なんて生易しいものではない。土下座した。神霊のこの姿、見られるものではない。薬研は膝を折り、手をつき、畳に額を押し付けた。そうして「すまない」と、一言だけ。それをやめさせたのは審神者だった。だから、山姥切はもう、どうしようもなかった。

夕餉は少しばかり豪華だった。鍛刀は少しでも早く、という話だったので、急ではあったが明日になった。これは審神者が決めた。それを聞いて、大倶利伽羅が少しばかり腕をふるった。しかし本丸にある食材が食材なので、そう豪華にならない。

「いや、やはり給金は大事だな!今日かなり出陣したから来月はもう少し潤うはずだがしかし質素すぎるのもなあ」
「……食えるだけありがたいと思え」
「まぁそうだな。いや、この吸い物はうまい。きっと他の本丸じゃあ食えない代物だ。なにせ伽羅坊が料理をする本丸自体が少ないんだから」

会話をしたのは主に鶴丸と大倶利伽羅だった。大倶利伽羅は普段よりずっと喋った。それが彼なりの気の遣い方なのだろうと、山姥切は思った。しかし、何を食べても味がしない。明日、審神者がどうこうなるかもしれないと思うと、どうにもならなかった。今にでもこの卓をひっくり返して、審神者をさらってどこぞへ逃亡したい気持ちでいっぱいだった。けれどこれは審神者の決めたことだ。それは尊重したい。しかし、何故自分に一言でも相談してくれなかったのか、何故自分の居ないうちにこれを決めてしまったのか、と、ぐるぐるぐるぐる、考えた。

「あ、そうだ山姥切、明日の近侍はお前だぞ」

ふとした拍子に、鶴丸がそう言って、掌から白い玉を出した。近侍の証だ。夕餉の席で受け渡すものなのだろうか、と、思いつつ、山姥切はそれを注意して受け取った。近侍の証が戻ってくると同時に、なんとはなしに浮いていた尻が落ち着くようだった。そうして、自分が今日、近侍であったなら、審神者にどう判断させたろう、と、思った。結局は、審神者の決めたことなのだろうとも、思った。だから審神者に聞かねばならない。夜は短い。こうしている間にも、刻々と、時間は過ぎてゆく。


風呂を済ませ、審神者と会話する意気地も持てず、山姥切は夜のラジオを放送した。明日の予定を、ただ、「明日の予定は鍛刀をすることだけだ」とだけ言って、その後言葉に詰まった。何を話せばいい。明日で終わるかもしれない。明日の朝の放送はあっても、それが最後になるやもしれない。何を言えばいいのか、わからない。

「……すまない、間があいた。正直俺は、この放送で何を話すべきか、わからない。……明日の予定は話したとおりだ。……今回は、たよりも届いていない。ふざけたたよりしか寄越さない奴しか、送ってきはしないからな。そいつが黙っているということは、この時間はきっと、俺に与えられたのだろう。あと、二十分。俺は延々と、自分を責める話をすればいいのか、それとも、審神者を責める話をすればいいのか……」

もしくは、薬研を、と、言いかけて、やめた。

「けれどそれは無意味なこと、なんだろうな。そんなことに時間を割きたくはない。俺はみっともない初期刀だ。自覚している。実力のない近侍だ。それも自覚している。けれど、俺はあんたの傍にいたい。だからきっと強くなる。いや、絶対に、強くなる。何を犠牲にしても、何をなげうっても、あんただけは、護ってみせる。そういう刀に、俺はなりたいんだ。だから、明日も俺はあんたを護る。なにからだって、護ってみせる。それがあんたの決断ならば、尊重しよう。けれど、でも、認めたわけじゃあない。あんたのそういうところが、嫌いだ。俺は一人じゃ立てない未熟者だから、あんたに支えてほしいんだ。ずっと支えて、ほしいんだ」

涙声になっていやしないか、不安だった。ノイズが混じっていやしないか、不安だった。

「だから、なあ、少し、いや、話がしたい。俺を受け入れてくれるなら、部屋の灯りをつけておいてくれ。今晩俺は、眠れそうにないんだ。あんたが眠りたいというのなら、部屋の灯りを落としてくれ。それだけで、いい。この放送が終わったら、行くから。いや、今から行く。今日の本丸ラジオは、少し短いが、これで終了だ。明日の朝六時に、また、放送する。明日の夜十時にも、きっと」

山姥切はそう言って放送を止めるとすぐ、見張り櫓を降りて、審神者の部屋へとむかった。


果たして、審神者の部屋の灯りはついていた。山姥切はできるだけ静かな声音で、「入っていいか」と、断りを入れる。しかし、審神者は返事をしないのを、失念していた。だから、「すまない、言い方が悪かった。入るぞ」と言い換えた。そうして山姥切が障子に手をかけた時、その障子はするりと審神者によって開けられた。そのことに、ほっとした。

山姥切と審神者の会話には、時間がかかる。審神者は他の刀の前ではよく紙とペンを使ったが、山姥切一人となると、その限りでなかった。審神者は山姥切のてのひらなり、背中なりに文字を刻む。指でやさしく、ふかく、その言葉どもをすりこんでゆく。山姥切はそれを待つことにした。そうしたら、ほどなくして審神者が山姥切の手をとった。

『おこってる?』
「ああ、怒っている。けれど、謝らないでくれ。そうしたら俺は、あんたをつれて、どこでもない世界へ、逃げてしまう。そうしたらあの時の約束を、果たせなくなる」
『ありがとう』
「礼を言われることではないし、筋もない。けれど、どうして俺に一言でも、相談してくれなかった」
『ゆらいでしまうから』

審神者はその一文を書いたのち、逡巡してから、また、文字を刻みはじめた。

『山姥切国広の顔を見たら、この命が惜しくなる。それに、山姥切国広の前で、いのちを投げ出すような選択を、わたしはしたくない』
「けど結局!したじゃないか!」

大きな声だった。審神者もびくりと肩を震わせた。山姥切はすぐに正気に戻り、「すまない。続けよう」と、静かに、ぶくぶくと言った。

『この命は山姥切国広が与えてくれたから。大切にしたい。終えることを、したくない。でも、わたしのいのちですくわなければならない人が、大勢いる。一と千、山姥切ならどちらを選ぶの』
「その一があんたで、千が凡百の魂ならば、迷わず一を選ぶ」
『それは違うの。そうじゃないの。いちのいのちは、いちでしかない。せんのいのちは、いちが千、あつまっている。その「いち」がわたしでなかったら、の、話』
「……千を選ぶだろう。わかっている。ちゃんと、わかっているさ」
『そのいちがたまたま、わたしだった。かなしいね』
「ああ、悲しい。俺は、どうしたらいいんだ。悲しい。この悲しみは、どこにぶつけたら、いいんだ」
『わたしにちょうだい』
「どうすればいい」
『ただ一言くれればいい』

山姥切の心の中には、ひとつ、言葉が宿った。それは無責任で、重たい言葉だった。けれど、促されるまま、催促されるまま、山姥切はそれを口にした。

「……信じてる……!」

この審神者が明日、いなくならないと、信じている。無事であると信じている。こんな終わりは認めない。もっとずっと、続いていくものだと、信じている。重たい願いだ。薬研の願いも、山姥切の願いも、そしておそらく鶴丸と大倶利伽羅の願いも、この審神者は背負うことになる。どんな重圧だろう。夜、眠れるのだろうか。山姥切が拳を固く握りしめると、審神者は山姥切の後ろに回って、背中に異国の文字を刻んだ。

『Believe』
「……英語……信じる、信頼する……そういう、意味の、単語か」
『でもこの単語にはね、嘘があるの』
「……?綴りは正確だが」
『真ん中に、Lieがあるでしょ?』
「……意味は……嘘、か」
『そう。わたしはね、今までこの単語が、信じるなんてことは嘘で、人間は、ほんとうは誰も信じてないんだって、思ってた。だって真ん中に嘘、なんて、書いてあるんだよ』
「今は違うのか」
『うん。今はね、嘘でもなんでも、嘘があったって、絶対信じてあげるよって、そういう意味だと、思ってる』
「……」
『山姥切国広、お願いがあるの』
「書いてほしいのか」
『うん。どうしてわかったの』
「あんたが、信じてほしそうに、俺の背中にきざむから」
『ありがとう』

山姥切は審神者に向き直ると、「触れるぞ」と言って、審神者の手をとった。けれどいつか、そして今、背中に文字を書かれた時のことを思って、「後ろを向いてくれ」と言った。そうして、審神者の小さな背中に、はじめて異国の文字を刻んだ。

「Believe……。俺はあんたが大丈夫って言うなら、それが嘘でも、信じてやる。あんたがなにをしても、それが嘘だろうと、なにが起こっても、信じて、あんたを、護るから。そして、異国の言葉はなじみがない。日本の『信じる』という言葉も、『人が言う』と、そういう意味がある。だから俺は口にする。……信じてる。――」
「……ありが、とう、山姥切……国、広」

老婆のような声だった。必死で、振り絞ったらしかった。肩が震えている。いや、全身が震えている。ほんとうは、きっと、怖いのだ。当たり前だ。命はその人にとって、ひとつしかない、かけがえのないものだ。たとえ千のためとしても、恐ろしいに決まっている。

山姥切はその小さな背中を抱きしめて、はじめて、「いい匂いがする。俺の、好きなにおいだ」と呟いた。審神者は少し笑って、身体にめぐる山姥切の腕にそっと手を添えた。今夜はやっと、眠れそうだ。


三章 左様であるならば、すべて、愛でした 

朝餉を終えて、少し談笑をした。全員で。これまでのことでなく、これからのことを、できるだけたくさん話した。鶴丸が山姥切に「なんか君、審神者のかおりがするなぁ」とくすくすからかいもしたが、山姥切はそれがどうしたんだ、としか思わなかった。それらがひと段落ついたら、審神者がひとつ、頷いた。それで全部わかった山姥切も、鶴丸も、大倶利伽羅も、薬研も、武装をして、鍛刀場へと、向かった。

審神者はそこで、『どう願えばいいの?』と薬研に尋ねた。

「俺が力を貸すから、願いは必要ない。けど、そうだな、あえて願うとしたなら、『正しい刀を』と、そう、願っちゃ、くれないか」

薬研の願いを、審神者は聞き入れたようだった。少なくとも、山姥切にはそう思えた。そうして、儀式ははじまった。

凛と立ち、願う審神者の姿は、いつもより消耗して見えた。隣には薬研が立ち、同じく目を閉じている。山姥切は何もできないと思いつつ、心の中で何度も願った。無事であるように、と。

しかし、長い時間が過ぎるうち、審神者の魂にヒビが入るのが、わかった。審神者は悲鳴を上げなかった。ひどい苦痛だろうに、表情も静かだ。山姥切はただ、信じた。その魂が粉々に散ってしまわないことを。ただ、そのヒビがもう広がらないことを。

しかしヒビは審神者の中ほどまでに到達し、もはや、と思われた。鶴丸も大倶利伽羅も目を背けた。しかし、山姥切だけは逸らさなかった。大きな声で、信じているからな、と、心の中で、叫んだ。その瞬間、桜が舞い、神が、神霊が、顕現した。

同時に、審神者は倒れ込んだ。山姥切はすぐに駆けて、それを抱きとめた。息はある。脈も浅いが、打っている。意識も薄くだが、ある。魂だけは、目減りしていたが。審神者は重いだろう瞼を持ち上げて、顕現した刀を見ていた。

顕現した神霊の戦装束は暗い色を基調としていたが華やかな印象を与えた。そして彼はすっとこちら側を見ている。その視線に温度のないことを、おそろしく思った。名乗りをあげない。契約をすることが本意ではないのは、どちらも同じらしい。その間に薬研が立つ。そうして、問答が始まった。山姥切には、ノイズ交じりの、不思議な対話に聞こえた。

「薬研、お前はそんな刀でなかったはずだ。なぜ神霊もどきが半分とはいえ、ただの審神者と契約している。なぜ、審神者の魂をそんなにすり減らしてまで、神霊である私を召喚した」
「一期一振、あんたが時の政府の召喚に応じなくなったからだ。そして分霊を使い、兄弟を使い、審神者を害したからだ」
「それは、時の政府に命じられたのだろう。むごいことをする」
「命じられたがしかし、これは最終的に俺の判断だ。そこの審神者も、最後は自分で判断をした。なあいち兄、いや、一期一振、どうしてこんなことをした。俺はなんにも、うれしくない。こんなこと、望んでいない」

薬研は一期一振を見据えたまま、こぶしを強く握った。

「だいたいのあらましは聞いている!でも、それがなんだって言うんだ!」
「薬研!わからないのか!時の政府は本当の正しいお前を、その存在を、無かったことにしようとしている!」
「わかってないのはそっちだ!正史じゃ俺は現存しねぇ!それでいい!けど人々の願いが集まってこのかたちになった!だからそれで、いいじゃねぇか……」
「本当の正史を変えていいはずがない!ならばなんのために私たちは存在する!?何を守るっていうのだ!記録が全て正しい!?違う!本当の、そこに流れていた歴史こそが正しい!記録に残らぬものを排除する時の政府は間違っている!」
「行き過ぎた正しさはその本当の正史ってやつもゆがめるんじゃないのか!?俺は本能寺で焼け落ちた!あんたが見たのは分史だ!もしかしたらって願いが集まってできた、夢みたいなもんだ!そこじゃ俺は現存していたかもしれない!けど、それは本当に『俺』なのか!?俺の記憶は本能寺で最期だ!その後の記憶なんて、どこにもない!」
「時の政府が何かしたのだろう!?本当の薬研はちゃんと正史に存在をして、ちゃんと現世に残っている!個人所有だが、そこにあるだけでいないのとは全く違うだろう!」
「ちゃんと俺を見てくれ!いち兄!!」

薬研はありったけの声でもって、一期一振を説得しているようであった。汗をかき、らしくなく声を荒げて、それでもきちんと一期一振を見つめている。それは一期一振も同じだった。果たしてどちらが正しいのか、山姥切にも、鶴丸にだってわからない。物事の根本が見えないのだから、しようがない。二人に任せるしか、なかった。

「なあいち兄、いち兄がその分史を正史にしちまったら、今の正史にいる俺は、俺の分霊たちはどうなる?姿かたちが変わるだけならまだいい。でも、いち兄や他の兄弟との関係が変わったらどうする?俺は耐えられない。本能寺で焼かれなかった俺が想像できない!いち兄が見てきた分史を、俺も見た。豊臣?徳川?それから下げ渡されて、知らない奴のところへ?怖いんだ!俺は俺のままでいい!たとえ時の政府が正史とするものが正史じゃなくったっていい!俺は俺でいたい!ちゃんと本当の俺を見てくれ!今の俺が、俺は好きなんだ!正しさなんてどうでもいい!」

薬研が一息にそう言ったあと、一期一振はぐっと言葉につまった。ただの子供のわがままにしか、聞こえなかったろう。けれど、一期一振にとってはその「薬研」の「わがまま」が、ひどく、心に刺さったようだった。そうして、はじめて視線を迷わせた。長考の後、静かな声音で、今度は薬研に諭すように、語り始めた。

「薬研、お前は分史と言われたようだけれどね、あれはまぎれもなく、正史なんだよ。時の政府にとって都合の悪い、正史だ。私がそれを見誤るほど、愚かに見えるかい。もしくは、そう吹き込まれたか。けれど、うん、お前の言い分はわかった。私は正しさに目が眩んで、薬研、お前のことをちゃんと見ることが、できなくなっていたようだ。すまない。兄として、失格だね」
「いち兄……?」
「呪がかけてあるから、私の契約内容は、教えられない。けれど、兄弟の幸せを願ってのことだということは、理解してくれ。そして、私はひどいことをしてしまったね。分霊とはいえ、お前たち兄弟をまるで道具のように使って、慕う主を間接的にとはいえ……殺させるなんて……。ほんとうに、私は、取り返しのつかない、ことを。ただ、正しくあれ、と。けれど、目が覚めたよ。いや、違うな。妥協することを、知った。ほんとうの正しさなんて、誰も救わないんだってことを。薬研、お前を含めてね。……いや、本当の正しさなんて、きっと、どこにもないのだと、わかったよ。私は今の薬研の兄であることを約束しよう。そして他の兄弟たちの兄であることも。分霊も、これで歪まずにすむだろう」
「いち兄……」
「薬研、ゆめゆめ、忘れてはいけない。この世界は正しさのうえに成り立ってなどいない。けれど、人は正しくあろうとしなければいけない。そのくせ、ほんとうの正しさなんて、どこにもないんだ。私は今回、どこにもないものに目が眩んで、錯覚をして、見誤ってしまった。許しておくれ……私はただ、正しくあろうと……お前たちを正しく、導こうと……」
「……わかった。勿論だ。いち兄は俺のことを思って、狂っちまった。でも、それは俺にも、誰にだって起こりうることだって、わかった。俺は正しくない俺かもしれない。けれど、俺はどうしたって、正しさより、今の幸福を選んじまう。それは、正しくないって、わかってる」
「うん。それでいい。それが、正しい。私と、薬研にとっては」

薬研の頭を、まるで子供を扱うかのように撫でてから、一期一振は山姥切と倒れた審神者、それからその後ろの鶴丸と大倶利伽羅を見た。

「……不思議な本丸ですね。多くを、語るべきではないのでしょう。そして、すみませんでした。あなたたちの、そして薬研の主を、傷つけた。取返しのつかないことです。鶴丸、君にはわかるね?」
「……ああ、残念なことにな」
「……本当に、申し訳、ない。この本丸に、私の分霊が顕現することは、きっとないでしょう。そう、約束しましょう」

鶴丸も大倶利伽羅も頷こうとしたとき、山姥切だけが「いや、」と、口を開いた。

「審神者は、きっとあんたの分霊も歓迎するだろう。そういう審神者だ。それに、兄のいない弟は悲しむ。その姿を、この審神者は見たがらない。だから、審神者があんたを呼ぶことがあれば、応えてやってくれ」

一期一振は目を大きく見開いてから、「はい」と、俯いた。

「よい本丸ですな。分霊の私にはきっと、何も伝わらないことでしょう。だから、この件を知るのは審神者と、薬研含め四振りのみ。私はただの『場』に戻ります。しかし、また呼んでくださるのであれば、それは幸福なことです。ありがとうございます。そして、私、神霊は、左様であるならば」

一期一振がこうべを垂れると、その姿は大量の桜の花びらとなって、散っていった。そうして、薬研の気配も、すっと、少しばかり違うものに、すり替わる。審神者はそれを見届けてから、ふっと、瞼を落とした。


四章 いちのいのち

審神者が目を覚ますと、そこは自室だった。隣には、今にも泣いてしまいそうな、山姥切が、一人だけ。自分は生き残ったのか、と、思ったけれど、どうにも、違うらしい。ほんとうのほんとうに無事であったなら、山姥切がこんな顔をするはずがない。

「……教えるべきなのか、教えないべきなのか、迷った。けれど、知らぬことより、恐ろしいことは、ないと、思った。薬研が決断したように、あんたが決断したように、名も視えぬあの刀が決断したように、俺も、決断した」

山姥切は審神者の手をとって、額にあてた。そうして、そうであってほしくないと願うように、審神者の寿命を、宣告した。

「あんたの、――としてのいのちは、あと、十三年に満たない。『あい』と同じだけしか、生きられない」

鶴丸の見立てでは、そうらしかった、と。審神者は胸に手をあてて、きっとそこにあるはずの、ひとつのいのちが軽くなっているのを、確認した。小さな炎になっている。魂にヒビが入ったのだ。寿命に差支えがないのは、おかしい。『あい』の魂が「ヒビ」のすべてを引き受けて、山姥切の与えたいのちだけが、残ったように、思えた。

「長いと思うか、短いと思うか、それはあんたの考えだろう。だが、俺にはどうしたって、瞬きひとつの間の問題だ。あいのぶんを合わせたって、あんたは二十六年しか、生きられない。今の現世の平均寿命は八十七歳だそうだ。それの、約三分の一しか、あんたは生きられない。どうして、あんたなんだ。どうしてなんだ……!」

手の甲に、温かい液体が、ぽとんぽとん、と、落ちた。山姥切は痛いくらい、審神者の手を握っていた。痛いよ、と、口にしようとしても、うまく声にならない。山姥切に何か伝えたくっても、今は、どうにも、伝えられない。

現世には、「生きることは辛いこと半分、楽しいこと半分」という言葉がある。あいの人生が辛いことであったなら、これからの十三年はきっと、これまで過ごしたように、幸福な毎日なのだろうと、思った。けれど、それじゃあ、十三年は、悲しいなあと、思った。しかし、これが「むくい」なのだとも思った。「あい」でいたとき、自分はあまりにも、幸福になる努力をしなかった。それでも、今、こんなに幸福だ。「ただ」で、山姥切国広という神様から幸福を与えられた。だから、八十七年が本当の寿命だったとしたら、その三分の二が、代償であって、しかるべきだ。そのあいだに、きっと、努力をするべきだったのだから。

山姥切の涙は止まらない。部屋の外には鶴丸と大倶利伽羅、それから薬研藤四郎の神気も感じた。気を遣って、ふたりにしてくれたのだろう。自分はめぐまれていると、思った。そうして、たったの、長い、十三年、山姥切国広に何をしてあげられるかなぁと、思った。

まずは、そう、頭を撫でて、泣き止ませてあげないと、いけない。そして自分の涙も、止めないと。どちらから、そうすべきだろう。勿論、山姥切国広の、涙から。


終章 エンドロールのその後も

それから数週間、時間が経った。山姥切が見た限りでは、寿命が減った反動らしきものは、どこにもなかった。一晩養生したら、あとはもとの通りだった。だからそのまま、審神者は山姥切が忘れていたテスト勉強をして、試験を受けた。試験は政府から役人が一人、本丸へ通され、本丸の一室で行われた。刀は特殊な結界に阻まれて、その部屋へ入ることはできなかった。そのあいだに役人が審神者になにかしないか気が気でなかったが、試験は無事、終わった。気の抜けるようだった。

そうして昨日、試験結果が届いた。成績は、「秀」。十科目中九科目が満点で、英語だけ九十九点だった。つまり、千点満点九百九十九点というとんでもない成績を修めたのだ。これには山姥切は驚くしかなかった。試験問題をざっと見てみたが、自分でも半分解けるかどうか、という内容だった。決して簡単ではない。

「いやー満点を取るかと思ったんだがなあ」
「大将、どこを間違えたんだ?英語はわからねぇが」
「ん?ここだよ、ここ。英作文で、『私はあなたを信じます』を英語で書けって問題。これは俺も驚きなんだが、なんでこんな妙な間違い方をしたんだ?見直さなかったのか?」

そんな鶴丸と薬研の会話に、審神者は照れたように笑っていた。だから山姥切は妙に思ってタブレットに表示された解答欄を見てみた。そうしたら、「believe」のところが、「beLieve」になっていた。それで山姥切も苦笑したので、鶴丸に、「なんだ、二人そろって隠し事か?仲良しだなぁ」と、からかわれた。

山姥切は今朝の朝日を見張り櫓から見て、そんなことを思いだした。今日も、ラジオの放送をすることができる。とても幸福なことだ。時間になって、カチリ、と、スイッチを入れる。いつものように。

「……おはよう。いい朝だ。これから、第八十九回、本丸ラジオをはじめる。パーソナリティは山姥切国広だ。このセリフも、随分馴染んだ。今ではゲストを呼んだ時の方が違和感があるから不思議だ。さて、今日の近侍は薬研藤四郎、と、昨日審神者から通達があったな。近侍の木札は俺のところにあるから、朝食前に取りにきてくれ。馬当番も畑当番も今はまだできないな。午前は全四振りで稽古をする。九時に道場に集合だ。で、午後なんだが、……なぁ、審神者、俺と町へ行かないか。こないだの贈り物へ、お返しがしたい。……あんたがはじめての給金で、俺に買ってくれたものだ。俺も何か自分で考えるべきなのだろうけれど、二人で選ぶのも、悪くないと思えてきてな」

山姥切は例のテストが終わってから審神者に渡された贈り物を目の前にぶら下げて、少し笑った。お金を払わなくても自分は審神者を救うと思ったのに、これを贈られてしまっては、形無しだ。

山姥切の手の中には、「お守り」がある。審神者が、鶴丸と、町で買ってきたものだそうだ。山姥切ただ一振りのために。これはとても高価なもので、あの給金ではひとつしか買えなかったらしい。それを、真っ先に自分へ与えてくれた。

「俺はたしかに人間が言うところの神様だろう。けれど、至らない神だ。なにせ、あんたの欲しいものひとつ、思い浮かばない。あんたはきっと、この毎日があるだけでいいなんて、聖人のようなことを言うのだから。だから、色んな店に入って、色んなものを見て、そうして、いいものがあったら、それにしよう。二人で考えよう。それから、そうだ、テストの合格祝いにも、なにか。そうしたらあんたは、また俺にお返しだ、とか言って、何かくれるんだろうな。想像がついてしまう。……そう、人はそうやって、なにかを贈り合って、生きているんだろうな。言葉でも、感情でも……それが、いらない、ものだったとしても……」

山姥切はすっと目を閉じた。朝日がもう随分眩しい。

「俺はあんたと生きていきたい。なんでも、贈り合いながら。時には喧嘩をするかもしれない。いつも幸福とは限らないかもしれない。けれど、俺はできるかぎりのことを、あんたにしていくつもりだ。そしてあんたは、あんたのできるかぎりのことを、俺にしてくれるんだろう。それが、俺にとっての幸福だ。ひとつのいのち、それが結局、限界であって、至高であり、むつかしいことなのだけれど。……テストの間違えていたあの解答、俺はとても嬉しく思った。だから俺は言葉にして言おう。ありがとう。あんたが俺を信じてくれるからでもなく、俺はあんたを信じる。……さて、今日は随分、俺と審神者のためのラジオになってしまった。このラジオだと、恥ずかしいことも恥ずかしげなく言えるのが、不思議だ。まだあんたしか聞いてないとでも、思っているのだろうか。鶴丸につつかれるのが、わかっているのに、不思議だ。……時間だな。これで第八十九回本丸ラジオを終わる。皆、朝餉には遅れないように。以上、山姥切国広がお送りした」

山姥切はカチリとスイッチを落として、ふう、と、溜息をついた。今日の午後は、まずどこへ行こう。いや、そういえば審神者の予定を、聞いていなかった。自分は随分傲慢な神様になってしまったものだ、と、少し笑えた。この、思い出して少し笑える、そんな日々が、ずっと続けばいいのに。そう、気が遠くなるほど、ずっと。エンドロールのその後も。


END

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