ふたりでいつかひとになろう cours1(3)




五章 スタジオではお静かに 喧嘩は御法度です、できるなら、の話ですが

山姥切は息絶えた狐のような妖と、その血潮、そして新しく顕現した刀剣、それだけを視た。

山姥切と鶴丸は出陣後、本丸への扉が閉ざされてしまっていることに、帰城してから、気が付いた。『国』の銘を持つ刀が、通れないようになっていた。簡単で、簡素だが、効果的な、結界。この本丸に登録されている刀は山姥切『国』広と、鶴丸『国』永の、二振りだけだから。どちらも通称でも号でもなく、銘に『国』が含まれる。鶴丸の知恵でも、山姥切の知識でも、この結界は解くことができなかった。そのうちに、斜陽を視た。鶴丸は、「最悪の解かれ方は、まあそうさな、逢魔時を過ぎての解呪、だろう」と言った。何か知っている口ぶりだった。しかし山姥切が尋ねても尋ねても、鶴丸は「これがまぁ、この本丸の天下分け目の関ケ原」だとか「これも運命ってやつかもしれん」だとか、そんなことでのらりくらりと。そうして結局、ほぼ逢魔時に、結界が、崩れた。

「おお、伽羅坊か!」
「……」
「久しいなあ!俺が献上されて以来だな!元気だったか?ん?俺か?俺は元気だったぞ!まぁ挨拶はいいんだ、挨拶は。……掃除をしないといけないなあこれは」
「……俺は知らん。部屋を決める」
「俺の隣にしとかないか?毎日でも驚きを届けてやろう!」
「……あんたの隣は、――――あたりが使えばいい」

会話が全く耳に入ってこない。鶴丸が会話をしながら不可視の結界を張って、ひとまず『それ』を、審神者に視えないようにしたのも、わからなかった。山姥切はとにかく、どうして、どうして、どうして、と、いう想いで頭がいっぱいだった。だから審神者の腕を力のかぎりで引っ張り、審神者が裸足なのにも頭がゆかず、四季のない庭の隅へ、連れ出した。そうして、塀へ叩きつけ、頬を、打った。

「自分が何をしたかわかっているのか!!」

返事がかえってくるはずもない。そんなことにも気が付けなかった。審神者の喉には、浅からぬ傷がついていた。大倶利伽羅の神気が、そこに視える。それだけが、鮮明に。

「近侍を連れず鍛刀するのは自殺行為だ!死にたいのか!神を呼び出すんだぞ!侮るな!鶴丸を呼べたことで自信でもつけたか!?どうしてそんなことをした!!」

返事はやはりかえってこない。審神者の様子もよく見えない。どうして自分がこんなに激昂しているのか、うまく理解できない。審神者の胸倉を掴んで、詰め寄った。

「お前は死ぬところだった!!大倶利伽羅が、もしお前に従っていなければ!!そこでお前は……」
「おいおい切国、そこまでだ」

審神者の胸倉を掴んでいた手首に、いつの間にか現れた鶴丸が手をかけていた。その手に少し力がこもっただけで、山姥切の掌は開かれてしまう。解放された審神者はずるずると壁にもたれて、そのまま、座り込んだ。いや、ほとんど、倒れこんだ。

「離せ鶴丸!!」
「いんや、離せないね。俺は主様を守らなきゃいけない。近侍様のご乱心だ。傷を負った主をいたわるどころか、裸足で外に連れ出し、あまつさえ、手を上げた。普通なら謹慎処分か、賢明な審神者なら、刀解……。そしてお前は、お前が、『お前だけ』は言っちゃあいけないことを、やすやすと、」
「知ったことか!」
「馬鹿もここまでくると、驚きだな」

そして、お前はなんにも、わかっちゃいない、と、鶴丸は頭の中で唱えていた呪文に、口頭で「急いで律令の如く行え!」とつけた。その瞬間、不可視の何か縄のようなものが山姥切を捕え審神者から引きはなし、さらに目に視える神気の檻が、降ってきた。

「千余年を生きる『平安』太刀を舐めるなよ」

その縄も檻も、山姥切がどんなに抵抗したところでどうともならなかった。頭に血が上って、神気を爆発させたがしかし、なんにも起こらない。それどころか縄はきつく、檻は狭くなり、山姥切は身動きひとつ、とれなくなった。

「……その結界、じつは簡単に解けるぞ。吃驚するほど簡単だぞ。伽羅坊ならそうさなあ、一瞬で出てくるだろう。その時の顔がいいんだよなあ。まぁ、頭に血が上った阿呆でうつけのお前にはわかるまいよ。……さて、少しは冷えたか?……なら、まずは視ろ」

鶴丸が指したのは、審神者だった。山姥切は、やっと、審神者の姿がよく視えるようになった。そうしてあれは、なんだ、と、思った。

喉の傷なんて、そんなのは些細なものだった。それよりもなによりも、右肩が、外れている。山姥切が力の限りに引いたからだ。頬が、赤黒く腫れあがっている。山姥切が手をあげたからだ。足が、ぼろぼろに傷ついて、立つことも、ままなっていない。山姥切が、裸足のまま連れ出したからだ。そして、可哀想なくらい、怯え、震えている。

「人間の身体は脆いんだ。ひとのかたちをとっているとはいえ、俺たちが加減もしないで……触れれば、そりゃあ、『こう』なるよなあ。あとはこの本丸、庭もろくに手入れされていない。砂利も雑草も容易く、人の身を裂く。言葉もそうだ。だからお前は、切国は、いままでずっと、選んでいたんじゃあないのか?その言霊の強さに、愚かにも賢明に、怯えながら。まあこの審神者の怯えの原因は、もっと他に、あるんだろうがなあ」

山姥切は自分が震えるのが、わかった。普通の人間なら、こういうとき泣きわめくだろう。けれど審神者は泣いていない。普通の人間なら、腕を引かれた瞬間に、痛みで絶叫するのだろう。けれど審神者は声が出ない。しかしこの審神者は、声が出ないとか以前に、暴力だとか痛みだとか、そういうことでは声を出さないし、涙も流さないのだと、わかったからだ。なんて、酷く、惨く、かなしいことを。なによりも、自分という、この審神者の、唯一の存在が。

「あとはなあ、そうさなあ、これはどうしようもない事実なんだがな?この審神者は第一回、当本丸天下分け目の関ケ原で大勝利をおさめた。……まぁ第二回やら大阪冬の陣やら夏の陣やらひいては戊辰戦争なんてものが起こらないことを願いたいが……これがどういう意味か、わかるか?」

山姥切は、静かに、それ以外できないというように、首を横に振った。

「じゃあ説明してやろう。この本丸に刀剣は切国、お前と、俺しかいないはずだった。政府はそれを見越して、令状を出した。出陣せよ、と。函館だろうが関ケ原だろうがまぁどこでもいい。とにかく、出陣させてしまえば、このお優しい審神者は部隊を組ませる。お前ひとりでも、俺ひとりでも、単騎出陣はさせないだろうと踏んで。そうして、俺たちは政府の思惑どおり、二人して函館へ出陣しちまった。なーんにもできない審神者をひとり、残して。で、政府はそれを確認した後に、特殊な札を持たせた『こんのすけ』をこの本丸に送り込んだ。『こんのすけ』っていうのは通り名で、本来は政府と本丸の橋渡し役になる管狐…まぁ、狐の妖のことだ。この本丸には、いなかったろう。不便だろうのに、政府はどうして『こんのすけ』をこの本丸に送り込まなかったんだろうなあと俺はずっとひっかかっていたんだが、それが今日わかった。で、今日送り込まれた『こんのすけ』の持っていた特殊な札が、まあこれだ」

山姥切は『こんのすけ』というのは、多分あの死骸だろうと察し、鶴丸は真っ二つに割れた木片を袖から出した。おおよそ、死骸のあたりに落ちていたのだろう。そこには妙な文様と、『国』の一文字が書かれていた。

「陰陽道の応用か、もしくは神道のなにかしらか。とにかくこの札が本丸内にあると、その本丸に結界が発生する仕組みになっている、と、俺は解釈した。あの、俺らが弾かれる結界だ。『国』の銘を持つ刀剣がこの本丸に入れない結界。で、この札の痕跡を辿るに、審神者には不可視になるよう結界が張ってあった。まぁ大抵の審神者にはその結界の存在くらいは知れるだろう、お粗末な結界だ。俺にもおんなじことができる。さっきやったしな。そして『こんのすけ』は政府からの使者をかたり、審神者に近づく。そして黄昏時を見計らって、姿を変える。狐七化け、狸は八化けと言うだろう。黄昏時の語源は『誰そ彼』。暗くなりはじめ、すれ違う人の顔が見えなくなる時間帯。化けるにはもってこいってわけだ。とる姿はなんでもいい。適当な刀剣男士の姿を借りれば、こと足りる。で、逢魔時を待つ。魔に逢う時間帯。大禍時とも言う。このふたつの時間帯はほぼほぼ重なっているから、実際、待つ必要はほとんどない。大禍時は物の怪の力が増すと昔から信じられていてな。信じられているものは大抵実現しちまうのがこの世の常。まあそんな時間帯に、『刀剣男士がいない本丸』で『ただの管狐』をつかって、『なんにもできやしない、しかし政府にとって都合の悪い審神者』を『殺させる』、ってえのが、今回政府が用意した、筋書」

ここまで説明すればいかに愚かなお前でもわかってきただろう、と、鶴丸は笑って見せるが、山姥切はなんにも答えない。鶴丸は肩をすくめて、言葉を続けた。

「関ケ原の戦いは一日…いや、半日もかからず終わった戦だなあ。で、なんで俺が門外で今日のこれを『関ケ原の戦い』に例えたか、わかるか?」

そんなことよりも山姥切ははやく審神者を手当てしてやってくれ、と思った。けれど言葉にできなかった。なぜならそれは自分がつけた傷だったからだ。

「天下分け目の関ケ原。まぁ、時間もそうなんだが、この戦は裏切り者続出、寝返り続出、豊臣の治世のひび割れや因縁が一気に噴出したような戦い。伊達政宗公も一応、東軍で参加したらしい。まあ活躍したわけじゃあないんだが。それは別に関係ないな。俺が伊達家へ渡る前の話だし。本題は、ここから。関ケ原の布陣ってやつを、お前は見たことあるか?まあないだろう。簡単に、かつ適当に説明すると、物凄く鶴翼陣が有利な土地で、西軍が鶴翼陣、東軍が横隊陣ってかんじの布陣だ。誰がどう見てもこれは西軍の勝利、ってやつ。でも史実はどうだ。東軍の勝利。西軍側に問題が起こったんだ。それが、裏切り。小早川秀秋の裏切りが一番でかかったって、一応言われてる。今回のこの事件における小早川秀秋は、『大倶利伽羅』だ」

鶴丸は旧知だろう刀の名を口にして、「いやあ、まさか伊達の刀が例えとは言え関ケ原で活躍するとはなあ」と笑っている。

「近侍なしでの鍛刀は自殺行為。常識だな。でも審神者はその常識を知らなかった。これは基礎だから。この審神者は基礎をやってないし、知らない。誰かさんが応用とか発展の教本ばかり与えていたし、俺も時間の関係でそこはすっとばした。それに俺は鍛刀については教えてない。で、鍛刀しちまったわけだ。なんでだろうなあ。そこはまあ……審神者のみぞ知る、ってやつか。で、大倶利伽羅が顕現した。政府が一部始終を見ていたなら、思ったろうなあ。『手を下す間もなく、色々厄い審神者が死んで、めでたしめでたし』。睨むなよ。これは政府側の視点から見たアレなんだから。でも大倶利伽羅は審神者に従った。どうしてなのか、そこは俺にもわからない。これは大倶利伽羅のみぞ知るってやつだな。でも結果的に、大倶利伽羅は政府を裏切った。大倶利伽羅の『アレ』は時の政府のもとにあるにもかかわらず。ああどうなるかわからない。こわやこわや。でも、これが勝因。……簡単に言おう。『鍛刀してなかったら審神者は死んでた』し、『鍛刀してても刀が従わなければ審神者は死んでた』けど、『鍛刀して刀を従わせたから結果的に審神者は今生きてる』。わかるか?今回、審神者は単身で鍛刀したことを、『あまり』責められるべきじゃあない」

鶴丸はそれだけ説明すると、「さて、きみへの仕置きは、これくらいで充分だろう」と、審神者をやさしく、抱え上げた。長い長い説明は、少し痛い目を見たほうがいいという考えのもとかららしかった。そうして、山姥切に目を向ける。

「さて、もう視えているだろう?俺の開発した、必殺!驚きの『ごめんなさい結界』の解き方。……おっと、名前まで言ってしまったなあ。これじゃあ答えを教えたも同然だ」

鶴丸は「ま、今の君に、それを解けるかは、見ればわかるんだがなあ」と言い残し、本丸へと、ゆっくり、戻っていった。審神者の身体を極力揺らさないようにしているのが、見て取れた。山姥切はその姿が見えなくなっても、『その言葉』を口にしなかった。できなかった。誰も、なにもかも、自分を赦してなんかくれるな、と。


五章 スタジオではお静かに やさしい言葉を選びましょう

「伽羅坊ー手を貸してくれー審神者が瀕死だー」

大倶利伽羅が適当な空き部屋を見繕ってくつろいでいたところへ、鶴丸が足で障子を開けて入り込んできた。

「知ったことか。間抜け審神者の近侍が阿呆だっただけの話に俺を付き合わせるな」
「そう言わずにさあ。頼むよ。俺が頼んでいるうちに頼む。必殺技出してもいいんだが、嫌だろう?」
「……知らん」
「と、言いつつも布団を出そうと立ち上がる君は昔っから心根の優しい、いい子だなあ」
「……俺がそろそろ寝ようとしていただけだ。俺が寝る前にお前が誰かを寝かせてしまったとして、それは俺の感知するところじゃあない」
「はは、まだ七時にもならんのに、伽羅坊は早寝だなあ」

鶴丸は大倶利伽羅が敷いた布団に、とりあえず審神者を寝かせた。そうして、一番酷そうな、肩の具合を確かめる。

「うーん。服の上からだとなんともなあ。しかしがんぜない子供とはいえこの年代はあれだ、思春期というやつだしなあ。服を脱がせるのはどうかと俺は思うわけなんだが、伽羅坊はどう思う?」
「医療行為だ。脱がせる」
「ま、医療行為だからな。そういうわけだ。すまんが、脱がすぞ。あと、この服、もう着られなくなるが、許せ」

相当の痛みと、それから相当のショックで、審神者はそれこそ虫の息だった。ショックなのは山姥切の行動ではなく、ただひたすら、目の前で何かが命を奪われる、という瞬間に立ちあわせてしまったからだろうと、鶴丸は踏んでいる。それから、管狐のものとはいえ自分に殺気を向けられたことも、きっとはじめてだったに違いない。

声が届いているかどうかさえあやしかったが、しかし鶴丸は刀をすらりと抜き、審神者の着ていた制服を、まるで空気を斬るように裁断した。

「おっと、これはラッキースケベか?どうなんだ?ノーブラってやつか?まあ俺的にはもうちょっとというかかなりこう、てのひらからこぼれるくらいのを……」
「馬鹿も休み休み言え。……それよりも、なんだ、この審神者……戦場生まれなのか?」
「お前こそ馬鹿を言うな。戦場でこんな性質の悪い傷がつくか。……これはなあ、まあ、俺が詳しく知るところではないが、惨いことだ。戦よりもずっと、簡単で残酷な行為の、結果なんだろう」

鶴丸は金目を曇らせながらも、完全に外れ、さらには骨折も併発している肩に、手をやった。審神者が痛みに口を開くが、そこからかすかな悲鳴すらあがることはない。

「おい、この審神者……」
「ああ、しゃべることはできないぞ。『一時的に』喉をつぶされている。安心しろ。伽羅坊の神気のせいじゃあない。詳しくは説明できないが」
「……そんな性質の悪い神気は持ち合わせていない。……脱臼だけならともかく、骨折か……医者に診せなければ……」
「知っているだろう。審神者を診る医者は政府の管轄。で、」
「その政府は、この審神者を殺そうとしてたな」
「ああ、こんな時に――がいてくれたら」
「いないものは仕方がない。骨折していようが靭帯やら神経やらがどうなっていようが、とにかく肩を入れて、固定しておくくらいしかできんだろう。最悪、腕が一生動かなくなるかもしれんがな。……しかし右腕、か」
「ああ、伽羅坊の懸念するとおり、この審神者は右利きだ。まあ最悪は最悪でしかない。おいきみ!聞こえてるか!」

鶴丸は審神者に大きな声で呼びかけた。審神者の目が、うっすらと、開く。

「いいか、いち、にの、さん、で、肩をいれる!さん、の時に力を抜け!わかったな!」

審神者は小さく、頷いた。鶴丸はそれを確認すると、「いち、にの!」で、肩を入れた。審神者は折れた骨がまた動かされる激痛に、身体をのけ反らせた。

「おい、『さん』じゃないのか」
「いや、こういう時は『に』でいれるのが定石なんだ。驚きとかそういうんでなく、『さん』までいくと、人間は力を抜けと言っても恐怖で力むからな。まあ、とにかく肩はうまく入ったな。で、固定するのには……俺の衣装を使ってやろう」

鶴丸は躊躇いなく内番服ではなく、着たままだった戦装束の袖を裂いた。その袖をさらに刀で細長く裂いていき、包帯のように審神者の肩に巻き付ける。その間に、大倶利伽羅は立ち上がって、部屋を出ていこうとした。

「……俺は喉が渇いた。水を飲みに行く。氷があればそれも入れるだろうが……」
「氷はなかったな。作っといてくれ。水を、桶か何か一杯に。足を洗う用とそれから綺麗に使う用でふたつ。それから、水を含ませる布も何枚か」

大倶利伽羅は返事をしなかった。しかし鶴丸はそういうやつだとわかっていたので、安心して、丁寧に、布を巻いた。きつく、しかし、きつすぎないように。巻き終わったら、それに神気を込めた。布の中にだけ、閉じ込める。内番服でなく戦装束を裂いたのは、このためだった。こちらの方が、神気を込めやすい。神気を込めれば、それは岩のように固くなる。現世で言うギプスの変わりだ。この本丸には人間のための、審神者のための道具が、ほとんどなかった。消毒液も、湿布薬も、なにもかも。刀は手入れで簡単に傷が癒えるし跡も残らない。遡行軍につけられた傷以外なら自分の神気でどうとでもなる。だから必要がない。しかし審神者は、そうはいかない。

「ほんとうに、面倒で、かよわいものだな、人間は」

鶴丸は呟いてから、審神者に「指先、動くか?腕は動かすなよ。指先だけでいい」と言った。審神者はぜえぜえと息をしながら、確かめるように、指先を、動かした。最悪の事態は、逃れたようだった。この先肩が動くようになるかは、まだわからないが。

少ししたら、大倶利伽羅が戻ってきた。桶を二つ両手に持ち、布は肩にのせている。鶴丸はその布を水に浸して、泥や血で汚れた審神者の足を拭った。砂利や草葉の破片が残っていないか、丁寧に確かめながら。大倶利伽羅は肩の治療が終わったらしいことを見ると、自分の内番服を審神者の身体にかけてやった。それから、数枚もってきていた布を一枚取り、水に浸して、絞った。そうして、審神者の赤黒く腫れた頬に、あててやる。審神者の口が、小さく動いた。何を伝えたいのか、大倶利伽羅は、わからないふりをした。

「で、阿呆な近侍は、何をしている」
「絶賛反省中……かな。俺の必殺ごめんなさい結界の中で」
「……『あれ』から出られないほど、阿呆なのか」
「いや、きっと、そうさなあ、阿呆じゃないから、出られないんだろうなあ」
「どういう意味だ」
「だってなあ、その言葉を言うべき相手は今ここにいるわけだし、合わせる顔は無いだろうし……なにより、おそろしいものだからなあ。……大事な人間に、自分がつけた傷を、視るってことは」
「……阿呆な上に、臆病者、と、そう言いたいわけか」
「ああ、そうだ。このがんぜない子供の方が何倍も、強い」
「ボロ雑巾のようになっているが」
「……俺たちにはわかりようのない強さというものがあるだろう。なあ、伽羅坊。お前も聞いただろう?この審神者の、声」

大倶利伽羅は小さく息を吐き、それをもって、返答とした。

「さて、足は大丈夫だろう。俺は政府に書状を出す。審神者には申し訳ないが臨時の近侍として。審神者がこんな状態では町にも出られん。薬も、包帯も、湿布も諸々必要だ。ていよく注文をしてやろう。意趣返しというやつかな」
「……おい、」
「あ、そうだ伽羅坊。多分明日から、二週間は暇ができると俺は踏んでいる。審神者がこんなじゃあ、鍛刀どころか、出陣もままならない。政府にも書状はともかく令状は出してくれるなと念を押す。で、その暇をつかって、俺の驚きな発明をうまいことかたちにしたいと思っているんだがな、それに協力してくれ」
「断る」

間髪入れぬ断りに、鶴丸は「そうかそうかそれは残念だ」と肩をすくめた。しかしちっとも残念そうではない。大倶利伽羅は鶴丸の必殺「なんでも言わせたいことを言わせてしまおう結界」がくるかと身構えた。あの結界は鶴丸が取り決めた「言葉」を言えば簡単に抜け出せる。そして取り決められた言葉もすぐわかる。なぜなら結界の内側に言って欲しい言葉が神気の文字で書いてあるのだ。「ごめんなさい」だけでなく、それは鶴丸が自由に決められる。そのとんでもなく面倒くさく、その上やたらめったらに凝った術がくるかと大倶利伽羅は踏んで、先に長年かけて編み出した秘技「慣れ合わないバリア」を発動しようとした瞬間、鶴丸が口を開いた。

「……そうそう、これは俺の独り言なんだが、昔々、伊達政宗公が出陣の折にも甘味が食いたいだか餅にかけるものが云々で枝豆がそこにあったものだからそれを潰して餅にかけようとしたらしい。しかし潰すものが見つからない。いや、あるぞ!腰にあるじゃあないか!その発見した道具!その名前は……」
「わかった!手伝ってやる!だからその話は二度とするな!絶対にだ!」
「ああ、ありがとう。うれしいなあ。伽羅坊は昔っからそうなんだよなあ。優しい、いい子でなあ、俺は涙が出そうだよ」

涙が出そうと言いつつも、はっはっは、と、鶴丸は高笑いをしながら、部屋を出て行った。残された大倶利伽羅は、これ以上ないだろうという溜息をついて、ぬるくなった布を、また水につけた。それを何度も繰り返す。審神者の頬の腫れはちっともよくならない。傷が、残るかもしれないと、大倶利伽羅は思った。

「……痛いだろう、人間。俺たちはこういう力を持ってる。人に視えるが、人じゃあない。殺そうと思って斬りかかれば契約違反で弾かれる。が、諌めようだとか、忠告しようだとか、そういう感情だけなら違反にならない。けれどその時、力を制御できていなければ、こうなってしまうんだ。わかっただろう。だから、もう、祈らないでくれ。『やさしい刀』なんて、そんなのは、残酷な、……俺たちにはひどく残酷な、願いだ」

大倶利伽羅は、冷たい布を、審神者の頬に、あててやった。審神者は何を伝えたいのか、その手に、まだ動く左手を、添えた。その冷たさに、大倶利伽羅は、驚いた。これが証明している。大倶利伽羅の、本質。大倶利伽羅が審神者を殺さなかった、理由。

審神者はそこで力尽き、瞼を落とした。意識を失ったのだと、わかった。だから大倶利伽羅は、自分の神気でつけた喉の傷をじっと視て、「ああ、たしかに、そうだな」と呟いた。これは、おそろしいものだ。


六章  ひとりじゃラジオはできません ひとはひとりじゃ、生まれません

朝を迎えると、政府から様々な物品が支給されていた。鶴丸は昨晩のうちに山姥切には書けないであろう内容の凝った書状を出し、医療品各種と、本棚、そして審神者用の衣類、他諸々を政府に要求したのだ。書状には欠陥を抱えた管狐の派遣を詫びる旨と、その謝罪の意味を込めてこれらは無償で提供する旨が、なんとも小難しく、かつ厚顔な様子で書かれていた。そして追記に、山姥切国広の件も書かれている。

「『故意又は過失問わず、謀反、反逆の恐れ有り。貴本丸の主、審神者の承諾なくとも、山姥切国広を除した本丸全刀剣内五割の賛同の下、貴本丸の初期刀山姥切国広を時の政府の名において回収する』、だとさ。五割とはまたあれだなあ。実質二振りしかいないんだから。……俺は『深く考えずに』反対するが、伽羅坊、お前はどうする」

大倶利伽羅は横に寝ている審神者の方を一瞬だけ見てから、口を開いた。

「……反対はしない。……が、賛同もしない」「ふむ、では回収はなしだな。賛同している刀剣がいないんだから、しょうがないよなあ」
「……刀解ではなく、回収、か。いや、回収して、刀解するのか……だが刀解できるのは、審神者だけ」

大倶利伽羅の呟きに、鶴丸はなにも返さなかった。代わりに、医療品各種の入った箱を取り出した。

「さて、これで本格的な治療ができる。が、しかし随分寝汗をかいているな。風呂かなにかにいれた方がよかろう。俺特製ギプスもどきは水を完全に弾くからな!風呂でもなんでも存分に入れるぞ!」
「……ぬるま湯を浴びる程度にさせておけ。それから、誰が入れるんだ、誰が。こいつは服も脱げない、歩けもしないだろう」
「え、俺か、伽羅坊だろう」
「慣れ合いはごめんだ」
「はーん。ふーん。なるほどぉー。伽羅坊はこの審神者に欲情……」
「しない!誰がこんな餓鬼に!」
「そうか。じゃあ安心だ!俺は欲情する!だから任せた!」

大倶利伽羅は「このクソ爺」という単語を胸にしまってから、「……風呂の前に飯だ」と言って、台所へ向かった。鶴丸は大倶利伽羅がいれば安心、というふうにして、審神者の部屋へ向かう。まずはうず高く積まれたままの本の整理をしなければなるまい。

八時頃になって、審神者は目を覚ました。いつもは六時きっかりに、目が覚める。そういう仕組みが、まだ身体ではなく、『体』に染みついているからだ。寝坊をした、と、審神者はいつもどおり身体を起こそうとして、色々なところの痛みに顔をしかめた。それは微細な動きだったが。

「動くな」

枕元にいたのは大倶利伽羅だ。入れ墨の入っていない方の腕が、傷に触れないよう、審神者の身体を起こした。大倶利伽羅は背中にも打撲があるのに気が付いて、しかし何も言わなかった。

「食え」

大倶利伽羅が出したのは湯呑に入った粥だった。卵やらなにやら、栄養が摂れるようになっている、粥。レトルトではない。大倶利伽羅が作ったのだ。審神者が静かにそれを見ていると、「現世にはもう無い料理か」と大倶利伽羅は尋ねた。審神者はなんにも答えない。ただ、大倶利伽羅が視るかぎりで、何か思い出そうとしているのはわかった。それがいらない記憶であることも、なんとなく、わかった。

「匙がなかった。だから薄くして、少し冷まして湯呑に入れた。自分で流し込むか、俺にねじ込まれるか、選べ」

審神者は左手でそれをとり、ひとくち、含んだ。そうして、審神者は、泣いた。ぽとん、ぽとん、と涙の雫が布団に落ちる。大倶利伽羅は分量やらなにやらを思い起こしたり、味見の時のそれを思い出したりと色々思案したが、終ぞ、なぜ審神者が泣くのか、わからなかった。わからないことにした。

「切り傷に沁みたか。そんなことで泣くのか。昨日は涙ひとつ、見せなかったくせに」

大倶利伽羅は「最低湯呑ふたつぶん、食え。そうしたら風呂だ」と言って、部屋を出た。人間という生き物はわからない、と、そういう風をして。

しばらくしてそろそろ審神者が食べ終わった頃合いだろうと大倶利伽羅が部屋に戻ってみても、審神者は湯呑ひとつぶんしか、粥を食べていなかった。食べられないのだと、大倶利伽羅にはわかった。飢えに慣れた人間は、普通の人間よりずっと小食になる。それでも生きていけるように、身体が順応する。こういう子供が、大倶利伽羅は大嫌いだ。

「まあ、いい。あとで食え。……腹が空いたときにでも、昼にでも。しばらくはそれがあんたの食事だ。で、聞くが、ひとりで風呂に入れるか」

審神者は首を横に振る。

「俺と鶴丸、どっちか選べ。……それとも、切国がいいか」

審神者は最後の方に向けて、首を振った、ように、大倶利伽羅には思えた。だから再度、審神者に尋ねる。

「俺と鶴丸、どっちか選べ」

審神者はじっと大倶利伽羅を見た。鶴丸はここにいないのだから、それは当然の選択だ。大倶利伽羅は「あんた、歳は」と、尋ねる。審神者は迷いながらも、指を一本、立てた。

「……ふざけているのか?」

審神者は首を横に振る。

「……ああ、右手が使えないか。つまりは十か。まあ、みるにそれくらいだろうな。それくらいなら、問題ないか」

大倶利伽羅はあとで鶴丸に仕返しをしてやろうと思った。お前は裳着もしていない餓鬼の身体に欲情するのかこの色狂いめ、だとか、現世で言うところのロリコンか、だとか、文句はいくらでも思いつく。女児の裳着はおよそ結婚と同時に行われるので正確な年齢で語ることができないが、男児の元服は早くても十二だ。伊達政宗公は十一だったが、しかしそれよりもこの女児は幼い。痛い目を見せてやるぞ鶴丸、と大倶利伽羅は心に誓うがしかし、鶴丸が「伽羅坊、忘れたのか、戦国の世では十を数えず裳着を終えて嫁入りしていたじゃあないか」と適当な返しをするところまでは、思い至らなかった。ついでに、この審神者の「体」の年齢が、本当は十三であるということにも、もちろん、気が付かない。

大倶利伽羅は十にしても少し軽すぎやしないかと思いながら、審神者を浴場まで抱えていった。片手で充分にこと足りるほどの体重だ。現世の平均体重が今どうなっているのかは知らないが、これは平均というものをはるかに下回るのでは、と。体型はほぼほぼこの本丸にいない左文字の短刀と同じで、それより身長が六、七寸(約二十センチ)ほどある程度だ。身長はともかく体重は増やせる。冷蔵庫の中を見るにこれまでまともな食事をしていなかったことは容易に想像できた。残念ながらしばらくの料理当番が自分になるということも。

審神者が着せられていたのは、大倶利伽羅の内番服だった。左腕は袖を通せないので、胴の中におさめてある。袖を通して前を閉じるだけの簡易な服。現世ではジャージと言うらしい。下を履く必要もないほどそれが審神者には大きいので、それだけを脱がせば事足りる、はずだった。大倶利伽羅の知識では。

脱衣場には腰かける場所がなかったので、大倶利伽羅は浴場の中の小さな椅子に審神者を座らせた。その上でジャージを脱がすと、その下になにか褌のようなものを履いている。女性は下穿きを着ないのではなかったか。いやそうだそういうことか、現世の女どもが随分ひらひらと短い布一枚を腰に纏って恥ずかし気もなく美術館やら博物館、果ては寺を闊歩していたのはこれがあるからだったのか、と大倶利伽羅は新たな発見をしてしまった。審神者は少し固まった大倶利伽羅に、不思議そうな眼を向けてくる。

「なんでもない」

大倶利伽羅はそう言って、その下穿きらしきものをとりあえず、脱がせた。そうして自分は上半身だけ裸になり、下穿き一枚になった。政府から支給された下穿きは現世で言うボクサーパンツというもので、これが現世の一般的な下穿きらしい。はじめ窮屈な思いをしたが、慣れれば褌より随分快適だ。見目もいい。恰好つけたがりのあの刀が来たときは絶対に好むだろうとわかった。最終的には恰好のつかない、徳川家へ『嫁入り』というかたちで伊達を離れた刀ではあったが。

「濡れるのは致し方なしとして、嫁入り前の餓鬼に裸体を晒すのもどうかと思からな。俺が風呂に入るわけでなし、これで文句はないだろう」

審神者は文句を言わなかったが、その変わりに大倶利伽羅の彫り物をじっと見ていた。大倶利伽羅の入れ墨は背、肩甲骨を覆うほどのところにまである。そして手首まで伸びる倶利伽羅竜の尾は通常のかたちをしている。つまりは雌ということだ。どうにもこれが、大倶利伽羅にはこそばゆい。本当の倶利伽羅竜の姿はもう随分昔に失ってしまったので思い起こすことができない。これは人の身をとるようになってから知ったことだ。

「……現世では、入れ墨は珍しいのか」

審神者は頷いた。

「これは厳密には入れ墨じゃあない。刻印、みたいなものだ。俺の刀身にそれがあるからな。それだけだ。それからもちろん見世物じゃあない。さっさと済ませるぞ」

大倶利伽羅は脱がせたり脱いだりした衣類を脱衣場の方へ投げ、審神者の頭からぬるま湯をかぶせた。古風なわりには現代的で機能的な浴場だと思った。シャワーというものがついているし、温度も調節できる。風呂は温泉らしく、あとからあとから湯が湧いている。しかし大倶利伽羅はシャワーの使い方がいまいちわからない。ひねっても水しか出ないので仕方なく桶に湯を入れて、それに水を足して、それで審神者の頭を洗った。

「……石鹸……?……しゃんぷー……髪用……わからん。全部石鹸でいい。まて、石鹸がない。ぼでぃそーぷ……?ふん、わかりにくくしたところで意味はない」

大倶利伽羅はとりあえず現世の風呂事情について調べようと目を閉じる。そうすると膨大な情報が流れ込んできていけなかった。頭髪についてだけでもシャンプーとリンスとトリートメント、リンスインシャンプー、コンディショナー、カラートリートメント、パック、その他諸々。顔や身体となるとボディーソープと石鹸はさておき、女性はボディオイル、ボディクリーム、ボディバター、化粧水、乳液、オールインワンジェル、美容液、クリーム、その他山ほど。名称だけでもややこしいのに、用途や違いについてまでとなるとさらに細かさが増す。大倶利伽羅は一旦、ばつんと思考をやめた。

「おい審神者。ここにある中で全身に使える石鹸はどれだ。面倒だ。それで髪も洗う」

そう言うと、審神者は隅の方に置いてある石鹸を指さした。

「……あれは掃除用だと思うんだが……」

しかしシャンプーやらコンディショナーやらをみるに中身はほとんど使われていない。それに比べてあの石鹸は丸くなっている。どうやら山姥切も審神者もあれで全身どうにかしていたらしい。鶴丸は普通にシャンプーやらなにやらを使い分けているのだろうが。まあいい、と、大倶利伽羅はその石鹸を手に取り、泡立てた。そうして審神者の髪を洗うと、ギシギシと「ちょっと待てこれは餓鬼とは言え女の髪か?」と疑問を抱かざるをえない感触がする。「髪は女の命」ではないのか。

「……今日はさておき、風呂についても勉強しよう。あんた、嫁にいけなくなるぞ」

審神者でも嫁には行ける。普通の審神者なら。しかしこんな、性的ではなく文字通りの傷物、誰が娶るのか、と大倶利伽羅は思わなくもなかった。審神者の身体を流していると、いたるところにある古傷の跡が目をひいた。一番深いのは、左手首を横に走る何本もの傷のうちのひとつ。一番大きいのは、煮え湯でも浴びたのか、引き攣れた背中の火傷。その他にも醜い斑の火傷と、打撲と切り傷の跡が山ほど。衣服を着ていたうちにはわからないだろう場所に、それらは息づいている。あばらが浮いて、背骨の数も数えられるような体に、かなしいほどの痛みの記憶。この審神者は、それらが根付く時、泣いたのだろうか。大倶利伽羅は手早くやってしまおうと思っていたがしかし、なんとはなしに、丁寧に、審神者の身体を扱った。怪我人だからという名目で。

服を着せる前に、身体から水気を払い、切り傷には薬を塗り、綿紗(ガーゼ、と現世では言うらしい)を当てて、包帯を巻いた。それから打撲にもそれなりの手当てを行い、やっと、服を着せる。着替えは政府から送られてきた、巫女服のようなものにした。袴は着せないで、白衣だけを着せる。これなら少し工夫すれば左腕も通る上に、だぼだぼのジャージよりは動きやすいし、動かしやすいだろう。

白衣を着た審神者は、まるで神に差し出された贄のようだった。こんな贄はまず、どんな神でも食わないだろう、と、大倶利伽羅は思ったが。少なくとも、自分は好まない。


六章 ひとりじゃラジオはできません さようならの準備をしましょう

審神者の世話を終え、もとのように自分の部屋に置いてきた大倶利伽羅は、審神者の部屋へと向かった。そこに鶴丸の神気があったからだ。鶴丸はいそいそと、大きな本棚に書物を整理しながら詰め込んでいるところで、「お、ちゃんとできたか?」とにやにやしながら尋ねてきた。

「餓鬼のお守くらいなんでもない。が、風呂の入り方もまともにわからない餓鬼だとは、思わなかった」
「そうさなあ。まずは石鹸で全身どうにかさせるのをやめさせて、ボディクリームとか化粧水とか乳液とかも買ってやらんとなあ。あと、一番はブラジャーというやつを買わねば」
「……ブラ……?」
「ん?知らんのか?現世の女性の間では普及率ほぼ百パーセントの胸を保護する下着のことだ。あ、目を閉じるな。調べるな。多分でなく後悔するから」
「俺のことは俺が決める」

大倶利伽羅は鶴丸の助言を聞かず、目を閉じた。そして赤面した。

「そんなもの十の餓鬼には必要ないだろう!!現世では小学生だぞ!」
「ん?んん?十?齢の話か?……だとしたら伽羅坊、勘違いしてないか?」
「……?」
「教本を見てもわかるだろうが……まあ一番はこれかな」

鶴丸はそう言って、政府からの一枚の書状、というより、身分証明書を大倶利伽羅に見せた。そこには審神者の名前と生年月日が西暦で記されている。

「十二……いや、十三……!?」

西暦から計算するに、審神者の年齢は十三歳。こないだ迎えたばかりの年ではあるが。

「現世で言う中学生だな!中学生女子のブラジャーは当たり前だろう」
「いや、待て、おかしいだろう!十三であの発育か!?」
「伽羅坊はムッツリだなあ。そんなとこを指摘してやるなよ。まあAもないだろうが、様式美というやつだ」
「そこじゃない!あの身長と体重だ!」
「……身長は個人差もあるだろうが……まぁなぁ、そこは俺も深く知るところじゃあないから、なんとも言えん。審神者も何も言わない。言葉を扱えたとして、わざわざ言うとも思えない。そういうことだ」

大倶利伽羅は何かの間違いではないのかと、もう一度その証明書に目を落とす。そうして、生年月日の他のところにも、気が付いた。

「……妙、だな。この審神者、仮名で登録されているのか」
「ん?ああ、そうだろうな。俺たちにそこが視えるってことは」

通常であればそこは「普通の」刀剣男士には視えないのだ。書いてあっても、目にしても。なぜなら普通はそれが真名であるからだ。

「……鶴丸。知っていることを全部吐け」
「さあなあ、俺は本当のことはなにも知らない。何も聞いていないから。だから知らない。本当だぞ。審神者はなんにも言わない。切国もなにも言わない。そして俺は、別段、知りたくもない」
「……ふん。まあ、いい。それにしても、誰がつけたんだか、この仮名。字は『死者が身に付ける衣服のえりもと』の象形。意味も……随分傲慢な、それこそ神がつけるような、名前だな」
「そうさなあ。そんな傲慢なやつがいたら、そいつはどっかで深く、ふかーく反省して、自分で根性叩き直して、やっと、一人前になれるんだろうなあ。ま、無理な話だが」

鶴丸はそう言うと、その証明書を大倶利伽羅から取り上げて、抽斗にしまった。大倶利伽羅も深くは尋ねまい、関係のないことだ、と、名前の話は切り上げた。

「……そう言えば、庭の隅に今現在反省中のやつがいなかったか。……そいつはまだ動かないのか」
「ぴくりともしていない。寝てもいない」

大倶利伽羅はそれに眉根を寄せて、声を低くした。

「……お前のあの術、昔と同じやつか」
「同じやつだな。伽羅坊の懸念するその点は改良しようにも、改良も改悪もできない。大本の術がそういう決まりなんだ」
「……お前が言うところの制限はどれくらいまで延びた」
「延びやしない。昔のままだ。現世の単位で三十時間」
「……あいつは仕掛けに、気づいているのか」
「気づいてるだろう。なのに、出てこない。阿呆で臆病者で自分本位などうしようもない刀だ」

鶴丸は言霊というものをかなり、重要視する。平安生まれだからというのもあるだろう。だから、鶴丸が「必殺」という枕詞をつけるからには、それは必ずではなくとも、『殺す』、術なのだ。命を奪うだけが「殺す」というわけじゃない。あれは存在を消すことで、死んだも同然にする、そういう、術。

もともとは陰陽道の術で、安倍晴明だけが使えたとかなんとか、胡散臭い術ではあるが、神にとっては致命的な術でも、ある。おおもとの術の効果は、対象を鍵になる言霊で縛り、封印する。勿論対象に鍵が知れれば結界から脱出される。そのために鍵は巧妙に隠されるのだ。力の痕跡を残さず、存在を感知させず、対象の頭の中から削除されるとも、言われている。そしてその封印の仕組みは、大変えげつない。思いついて開発したのが安倍晴明というあたりからして、常人には思いつかないような、むごたらしい発想。

一定の時間内その結界の中に置かれた対象は、その存在を知るものすべての『記憶』から、消失する。逆を返せば『対象』を知るものが、いなくなる。神というのは、存在を知られていなければ、かたちを保てない。そのまま、消失する。封印だとか、そういうことを騙っているが、これは神殺しの術。だから、山姥切には致命的なのだ。

鶴丸の術はその言霊を簡単にわかるようにすることで扱いやすくしただけのものだ。他にもいろいろと細かい部分に改良や改悪を加えているが、それは些事にすぎない。そして扱いやすくしたことの恩恵か、それともこの場合は弊害なのか、「制限時間」が短くなった。もとの術は対象をひと月は結界の中に閉じ込めなければならなかったが、鶴丸の術は三十時間で封印が成される。

「知らない刀が鍛刀も出陣もしていないのに本丸に存在するようになる、か……いや、審神者に感知されなくなった刀は折れるか、かたちを保てなくなる……」
「そうさなあ。……まあ、そうなる。どっちかだ」

けれど鶴丸は知っている。あれは山姥切国広の、神霊。この世から、山姥切国広の名を持つ神が、悉く消失する可能性が、なきにしも、あらず。それはもしかしたら、この本丸の審神者を救うことにもなるかもしれないが、しかし、真名の意味を失うことにもつながる。意味を失った真名に、どれだけの力があるだろう。人をひとり生かすだけの力が、果たしてそこに、あるのだろうか。

「『封印』の発動は、だいたい、丑三つ時。とってつけたような不吉な時間だなあ」
「……お前ほど非情な刀を、俺は知らない」
「いるところには、いるものさ。非情になれる対象と理由が、違うだけで」

それから大倶利伽羅は、溜息交じりに、そして諦めたように、付け加えた。「お前ほど馬鹿な刀も、そうそういない」と。

大倶利伽羅は鶴丸のことを、それなりに、知っている。伊達家でじっさいに顔(この表現はふさわしくないかもしれないが)を合わせることは、さほど多くなかった。けれど、同じ家に所属するということは、それなりの縁を結ぶということだ。徳川だろうと、織田だろうと、田舎出身と嗤われる、どこかの家だろうと。だからなのか、どうして、大倶利伽羅にはわかってしまう。鶴丸が行おうとしている、最終手段が。

「さて、俺は忙しいんだ。近侍の務めを果たして、昼飯を食って、そうだな、午後は例のアレを作ろう。伽羅坊がいれば一日で準備が終わる!ああ、夕飯も食べるなあ。ずんだ餅とか、食べたいかもしれない。そして色々、驚きの種を仕込んで……。とにかく、もしかしたら最後になるかもしれないこの本丸生活を謳歌するのに、大変忙しい!」

鶴丸はそんなことを言って、書物の整理を再開した。もう四分の一も残っていないそれらを、鶴丸は丁寧に、審神者にわかりやすいよう、順番をそろえて、本棚におさめてゆく。鶴丸がいなくとも、わかりやすいように。

鶴丸の術は、もちろん、鶴丸が解くことができる。けれどそうした時、その術はそのまんま、鶴丸に跳ね返ってくるのだ。人を呪わば穴二つ、と、昔からよく言う。いたずら用に開発した術とはいえ、まじないは、呪い。そして返ってきた術はより強力な力となって、術者を襲う。本当はこんなことにはならない。たった一言、言えばいいだけなのだから。

けれど鶴丸は、「まぁもしかしたら万が一、いや百が一くらいの確率でこういうことにもなるかもしれないなあ」という心づもりで、あの術を山姥切にかけた。鶴丸が考えていた九十九より、山姥切が弱かった。ただそれだけだ。

けれどあの山姥切は失うことのできない、刀。この鶴丸が折れたところで、忘れ去られたところで、所詮は分霊。あの審神者なら、また呼び出してくれるだろう。どうせ、同じことを願うだろうから。そうしたら鶴丸国永は、応えてしまうから。そして、どうしようもない山姥切は、次の鶴丸か、もしくは他の刀が、どうにかしてくれる。そういう、ものだ。

けれど、鶴丸は思うのだ。「ああ、この本丸を、この審神者のもとを、離れたくは、ないな」と。誰にも、絶対に、言いはしないけれど。


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